第一次英蘭戦争とウェストミンスター条約(1652−54)

 第一次英蘭戦争は1652−54年に、イギリスとオランダが海洋貿易の利害対立によって引き起こした戦争であり、ウェストミンスター条約で終結した。この戦争の背景やきっかけと結果、そして条約の内容や重要性を説明する。

第一次英蘭戦争の背景

 この戦争は海洋貿易での利害対立が背景にあった。そもそも、イギリスとオランダは海洋進出において、スペインやポルトガルに遅れを取っていた。英蘭がアメリカや東アジアへ本格的に進出し始めたのは、17世紀初頭からだった。

 まずオランダが東アジア貿易で躍進していった。イギリスも同様の試みをしていた。17世紀初頭の東アジアでは、ヨーロッパ勢力としてはポルトガルが主に貿易ネットワークを構築していた。スペインは主にフィリピンに拠点を築いていた。どちらもカトリックの国であり、スペイン王がポルトガル王を兼ねていた。英蘭はどちらもプロテスタントであり、東アジアではスペインやポルトガルが共通の敵だった。そのため、英蘭はスペインとポルトガルの植民地や交易拠点を攻撃した。同時に、英蘭は互いに競争相手であり、しばしば対立関係にあった。

 たとえば、1623年には、現在のインドネシアのアンボイナ(アンボン)でオランダがイギリス商館を襲うアンボイナ事件が生じた。この事件がイギリスに多大な損失をもたらした。その結果、イギリスはインドより東へと進出するのを当面諦めることになった。オランダが海洋貿易で勢力を強めていき、17世紀前半から半ばには黄金時代を迎えるに至った。ちなみに、オランダの東アジア貿易で最も利益を挙げたのは日本との貿易である。

 第一次英蘭戦争のきっかけ:1651年の航海法

 波に乗るオランダに掣肘を加えるべく、イギリスは1651年に航海法を施行した。同様の法律は14世紀頃から施行されてきた。

 今回の航海法はイギリスが自国とその植民地の貿易から他国船を、特にオランダ船を排除するためのものだった。当時、オランダ船はイギリスとその北米植民地が関わる貿易で大いに利益をあげていた。それゆえ、この法律はオランダにとって大きな打撃だった。

 ほかの原因としては、1640年代からのイギリスのピューリタン革命が挙げられる。この革命では、イギリス国王チャールズ1世が処刑された。チャールズのスチュアート王朝はオランダ総督のオラニエ家と姻戚関係にあった。それゆえ、オランダは共和国という体制をとっているにもかかわらず、イギリスの新たな共和制に批判的だった。このような背景のもとで、イギリスの実権をにぎっていたクロムウェルが航海法を施行した。

 第一次英蘭戦争へ:勝者は・・・

 戦争は当初、オランダが優位と思われる展開をみせた。だが、1653年からはイギリスが勝利を重ねた。ついに、イギリスのブレークがオランダの優れた提督として知られるトロンプを戦死させるに至った。

戦争の様子

 かくして、戦争ではイギリスが勝利し、1654年にウエストミンスター条約での講和に至った。上述のように、イギリスの航海法と、イギリスのスチュワート朝とオラニエ家の関係がこの戦争のきっかけとなっていた。それゆえ、条約ではこれらにかんする規定がみられる。条約は主にイギリスのクロムウェルとオランダのデ・ウィットによって調印された。

 ウェストミンスター条約の内容:戦争の結果

 内容としては主に、両国の和平の回復と協力関係の構築、反乱への対処、交易などの規定などからなる。

 まず、戦争の終結とともに和平を回復する。さらに、両国がより緊密な同盟と友好の関係を築くこととする。たとえば、これまでは海上で互いの船にたいして私掠や敵対行為を行ってきたが、これはやめる。

 次に、イギリスで生じる可能性のある反乱への対処を念頭においた条項である。イギリスでは、1649年に国王チャールズ1世が処刑され、ピューリタン革命が成立した。1650年には、新たな共和国が誕生したばかりだった。チャールズのスチュワート朝の後継者たちは、姻戚関係にあるオランダ総督のオラニエ家を頼るべく、オランダに亡命した。それゆえ、この王朝がオランダの助けを借りてイギリスの新政府を打倒する可能性を、イギリスの共和国政府は恐れた。そこで、この可能性を打ち消すための条項がこの条約で設定された。

 たとえば、イギリスへの第三者による敵対行為の企てをオランダがいかなる仕方でも支援も援助もしないことである。ほかにも、国内の反乱を互いに協力して鎮圧することや、反逆者の入国拒否や国外追放をおこなうことである。

 他には、ヨーロッパ域内での両国間での交易や居住や移動などの自由と海上での相互防衛などが定められた。また、1623年のアンボイナ事件の実行者の処罰や賠償なども定められた。

条約の交渉の様子

秘密条項:ウェストファリア条約の重要性

 さらに、この条約の秘密条項として、オラニエ家の幼い当主のウィレム3世がオランダ総督に就任できないようにすることが含まれた。そうすることで、イギリスの反乱が起こる可能性を一層抑制しようとした。オランダ側は宰相のウィットがこれを承諾した。かくして、オランダでは第一次無総督時代が始まった。オランダ側がそれを承諾した背景として、総督ウィレム2世が没するまでの間に専制的な政治を行っていたことが挙げられる。なお、この秘密条項は露見され、オランダで周知されることになる。

 この秘密条項はオランダの歴史に大きな余波をもたらすことになる。1672年、オランダはイギリスやフランスなどとの戦争により、破滅寸前にまで追い込まれた。宰相ウィットはそれまでオランダを率いていた。だが、このような危機的状況をうみだした張本人とみなされ、実権を失った。逮捕され、拷問を受けるまでに至った。ウィットの代わりに、オランダ人はウィレム3世をこの危機に対処できる救世主だと期待した。ウィレム3世がオランダ総督に就任した。かくして、オラニエ派が実権を奪い返した。それのみならず、ウィットは拷問から釈放されたタイミングで、オラニエ派の支持者に惨殺された。ウェストミンスター条約の秘密条項がその一因となったのである。 

おすすめ参考文献

金澤周作編『海のイギリス史 : 闘争と共生の世界史』昭和堂, 2013

桜田美津夫『物語オランダの歴史 : 大航海時代から「寛容」国家の現代まで 』中央公論新社, 2017

J.R. Jones, The Anglo-Dutch Wars of the seventeenth century, Routledge, 2014

なお、英語の原文はミシガン大学がネット上に公開している。

https://quod.lib.umich.edu/e/eebo2/A74521.0001.001?view=toc

タイトルとURLをコピーしました