スウィフトはアイルランドの作家(1667―1745)。当初は政治家の道を目指しながら、作家としても活動した。当時のイギリスの政党政治の中で、トーリー党のために働いた。
風刺作家として頭角を現し、代表作『ガリバー旅行記』を世に送り出した。そこでは、当時の日本に関する記述もみられた。その内容を詳細に紹介する。
スウィフト(Jonathan Swift)の生涯
スウィフトはアイルランドのダブリンで執事の家庭に生まれた。早くに父を亡くし、叔父のもとで育てられた。1682年にはダブリンのトリニティ・カレッジで学び、1686年には卒業した。
1688年、イギリスで名誉革命が生じた。イギリス議会がオランダ総督ウィレム3世とともに国王ジェームズ2世を追い出し、ウィレムが新たな国王ウィリアム3世として即位した。
その影響がダブリンにも及び、政情不安となった。そのため、スウィフトは遠縁で政治家のウィリアム・テンプルを頼りに、イギリスに移った。彼の秘書をつとめた。
さらに、テンプル周辺の政治家たちとも交流をもち、政治家としての野心を抱くようになった。同時に、彼の図書館を自由に使い、古典に親しんだ。また、1695年には、英国教会の牧師になった。
風刺作品での成功:政党政治を背景に
1690年代後半、スウィフトは作家として頭角を現すようになった。初期の作品としては、まず『書物合戦』が挙げられる。
これは当時の古代人・近代人論争に関するものである。16世紀の大航海時代での地理的発見などにより、古代のアリストテレスなどの権威が揺らいだ。
そのような中で、近代人、すなわち当時の人々と古代人のどちらが優れているのかが論じられるようになった。スウィフトの『書物合戦』はこの論争に寄与し、古代人に軍配をあげた。
スウィフトの他の初期作品として、『桶物語』がある。これは当時のイギリスでの複雑な宗教的状況の中で、スウィフトが風刺作家として頭角を現すようになった作品である。ただし、匿名で出版した。
1699年、上述のテンプルが没したため、スウィフトはダブリンに戻った。バークリ伯爵の秘書や牧師をつとめた。そのかたわら、当時のホイッグ党とトーリー党の対立の中で、匿名で風刺作品を発表し、注目を集めるようになった。
トーリー党へ
1710年、スウィフトはロンドンに移った。その際に、保守のトーリー党から政治文書の作成者にスカウトされ、引き受けた。
当時、イギリスはヨーロッパ大陸でのスペイン継承戦争に参加していた。トーリー党はそこでのフランスとの戦争を終わらせようとしていた。
1711年、トーリー党は国内でこの政策への支持を集めようとした。スウィフトがそのためのパンフレットを作成し、一定の成功をおさめた。その際の活躍を評価され、1713年、ダブリンの聖パトリック教会の首席司祭の職を与えられた。
1714年、イギリスのアン女王が没し、ジョージ1世が即位した。ウォルポールのホイッグ党がトーリー党を圧倒するようになっていく。そのような中で、スウィフトは政治家としての成功を諦めた。
ジャーナリズムと『ガリヴァー旅行記』
当時はウォルポールの政権運営にたいする風刺が盛んになるなど、ジャーナリズムが活況を呈した。そのような状況で、スウィフトもまたアイルランドで『ドレイピア書簡』などの様々な風刺作品を生み出していった。
その代表作が1726年の『ガリバー旅行記』だった。この作品は当初、『世界のいくつかの辺境の国々への旅行記』というタイトルで、匿名で出版された。すぐに成功を収めた。その中身をみていこう。
この作品は四巻で構成されている。主人公のガリバーは船医として航海に出るが、船が難破して見知らぬ国に漂着する。第一巻は小人国リリパットである。
ここではリリパットの宮廷での騒動が描かれている。小者であるのに偉そうに振る舞う当時のイギリスの政治家たちや彼らの政党政治が風刺されている。
ガリヴァー旅行記のリリパット
ラピュタ
第二巻は、ガリバーは反対に巨人の国ブロブディングナグに漂流する。第一巻とは状況が一変し、ガリバーはむしろ巨人たちに弄ばれる。
第三巻は空飛ぶ島ラピュタである。ここでは、ガリヴァーはラガド・アカデミーを訪れ、精神に異常をきたした研究者たちに会う。これは当時のイギリス王立協会のパロディであり、当時の自然科学のある種のブームが風刺される。
科学革命への風刺
イギリスやフランスなどでは、17世紀後半以降、科学実験が盛んに行われるようになった。いわゆる科学革命の時代である。その際に、代表的な科学者のロバート・ボイルなどは実験の重要性を説き、経験的なアプローチを科学で普及させようと邁進した。
彼自身もまた、実験室や実験器具を準備して、何度も実験を繰り返す日々だった。その結果、新たな科学的発見がなされ、実験主義は浸透していった。同時に、これがある種のブームとなった。
スウィフトはこの実験主義の普及を風刺した。ただ事実を確かめるためだけの専用の器具(実験器具)をわざわざ製作しては、何の役に立つのかもわからない実験に没頭する人々として、彼らを揶揄した。
実際、科学実験ブームは錬金術のブームでもあり、たしかな成果を伴ったわけではなかった。スウィフトのように醒めた目でみれば、お金と時間のある物好きが没頭する娯楽だった。当時の科学革命の実態の一側面を風刺したといえる。
日本の長崎
さらに、ガリヴァーはラピュタからイギリスに帰る途中、日本に立ち寄ることになる。日本のパロディーのような国ではなく、明確に日本(Japan)と言われている。
ガリヴァー旅行記においても、当時のヨーロッパ人がそうみなしていたように、日本は帝国として認知されている。物語中のヨーロッパ人には、オランダ人しか日本に上陸できず、その目的が交易だったことも知られている。
ガリヴァーはオランダ人ではない。だが、日本との友好国の王から推薦状を得ていたので、ヨーロッパ人でありながら例外的に日本にはいることができた。当初は関東地方の港町に到着し、そこからわざわざ馬で江戸まで送ってもらえた。
江戸という大都会では、ガリヴァーは日本の皇帝に謁見した(皇帝は天皇ではなく、徳川将軍だと思われている)。
皇帝は上述の王からの書簡を開封する盛大な儀式を行う。日本は伝統と儀礼の国であるとヨーロッパで考えられがちだったが、この点も本書には反映されていた。
皇帝は書簡の内容をみて、望みを何でも申せとガリヴァーにいう。その際に、日本人のオランダ語通訳がやり取りを媒介する。当時の通詞の存在についても知っていたことがみてとれる。
ガリヴァーは、自分の国に帰りたいが、そのためには長崎のオランダ人のところまで行く必要がある。そこまで連れて行ってほしいと頼んだ。皇帝はその願いを聞き入れた。
さらに、ガリヴァーは自身が交易のために日本に来たのではなく、難破などの災難のために到来した。よって、踏み絵(キリストの磔刑を踏みつけること)を免除してほしい、と皇帝に頼んだ。
皇帝は少し驚いた。オランダ人からそのような願いを聞いたことがなかったからだ(この点はオランダ人への風刺である。すなわち、オランダ人は商業のためにキリスト教を捨てている、と)。だが、この点も上述の王のために了承した。
かくして、ガリヴァーは長旅で長崎についた。オランダ人と交渉して、オランダまで船で乗せてもらうことになった。乗船の際に、オランダ人たちは踏み絵をした。だが、ガリヴァーは皇帝の許可により、それを免除された。
長崎を出港して、無事にアムステルダムへ、そしてイギリスについた。日本は伝統と儀礼を重んじるという見方をとられると同時に、踏み絵にかんして融通のきく国としても描かれたといえる。
ヤフーと人間嫌い
第四巻では、ガリヴァーは馬の国に到着した。この国は馬が理性的存在として君臨している。反対に、人間の姿をしたヤフーがもっとも低俗で醜い存在として描かれる。この巻において、スウィフトの人間嫌いが強烈に表明されている。
この作品は近代小説史の発端に位置しながら、独特な位置を占めている。
若い頃からの病が次第に悪化し、1745年、スウィフトは没した。
スウィフトと縁のある人物
●ホガース:ホガースはスウィフトがウォルポール政権に風刺を展開していた時期に活躍した画家。政権への批判的なジャーナリズムの活況に風刺画などで一役買った人物。
スウィフトの肖像画
スウィフトの代表的な作品・著作
『桶物語』(1704)
『書物戦争』 (1704)
『ドレイピア書簡』(1724)
『ガリバー旅行記』(1726)
『僕婢訓』(1745)
おすすめ参考文献と青空文庫
ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』柴田元幸訳, 朝日新聞出版, 2022
Daniel Cook(ed.), The Cambridge companion to Gulliver’s travels, Cambridge University Press, 2024
Thomas Lockwood, The life of Jonathan Swift : a critical biography, Wiley Blackwell, 2023
※スウィフトの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person912.html)。