北里柴三郎:世界的な細菌学の先駆者

 北里柴三郎は19世紀末から活躍した細菌学者(1852―1931)。日本細菌学の父として知られる。ドイツの細菌学者コッホに師事し、破傷風やジフテリアの血清療法を開発した。帰国後も、日本の公衆衛生の改善に尽力し、ペスト菌の発見に成功した。このように多くの業績をあげたが、これからみていくように、北里は見過ごせない負の側面や論争的な側面も併せ持っていた。

北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)の生涯

 北里柴三郎は現在の熊本県の阿蘇郡の北里村で庄屋の家庭に生まれた。肥後藩の学校で学んだ後、のちの熊本医学校でオランダ医師に師事した。1875年、東京医学校(のちの東京大学医学部)に入り、1883年に卒業した。

 細菌学者としての成長:ドイツでコッホに師事

 大学卒業後、北里は日本の公衆衛生に貢献すべく、内務省の衛生局に入った。細菌学の事業に携わることになった。そのため、1885年、ドイツへ留学した。当時、日本は医学の近代化を進めるために、ドイツ医学を積極的に吸収しようとしていた。

 ドイツでは、北里は当時の著名な細菌学者コッホに師事した。生涯、北里はコッホを師として仰いぐことになる。北里は留学生としては、コッホの最初期の学生だった。北里はまず赤痢とコレラの研究から始めた。

 この時代、細菌学自体がまさに勃興しつつある時期だった。病気が細菌によって引き起こされるという考えがこの時期になって学問的に論証され、受け入れられていったのである。

破傷風研究とジフテリアの血清療法

 1887年、陸軍省に所属していた軍医の森鴎外も同じ研究室で研究に励んだ。1889年、北里は破傷風菌の培養に成功した。この破傷風研究はすぐに十分な脚光を浴びたというわけではなかった。だが、20世紀初頭の第一次世界大戦で破傷風が多くの兵士を襲った際に、この研究が役に立つことになる。

 1890年、北里はその毒素をウサギに注射し、血清に抗体をつくらせた。さらにその抗体を人間に投与して治療するという血清療法を開発した。
 北里はこれをジフテリアにも応用した。同年、ジフテリアの研究者ベーリングと共著で、この成果を公にした。
 北里の留学期間が終わりを迎えようとしていた。コッホは北里の能力を高く評価したため、日本政府に期間延長を求めた。かくして、研究滞在が延長された。
 コッホは結核の治療薬としてツベルクリンの研究を進めていた。北里はこれを支えた。

 この海外留学の成果により、北里は国際的な名声を得た。たとえば、ドイツ政府から教授の称号を与えられた。これは外国人研究者としては北里が最初だった。また、イギリスなどから、北里には新しい職が打診された。だが、北里は日本の公衆衛生の発展に寄与すべく、これらを断って帰国した。

ノーベル賞への貢献

 ちなみに、ベーリングはジフテリアの研究をさらに進展させることで、1901年に第一回ノーベル医学生理学賞をえた。ジフテリアは当時の欧米の子供たちに多くの死をもたらした病気だった。
 このノーベル賞の選考で、当初、北里は選考リストに入っていたが、受賞には至らなかった。

 帰国後のペスト研究

 1892年、北里は帰国したが、国内には適した研究所がなかった。そこで福沢諭吉が彼のために伝染病研究所を設立し、北里は所長となった。1894年、北里はペストの調査で香港に出張した。

 ペストは19世紀にヨーロッパで猛威をふるい、東アジアにも広まっていた。当時のペストの致死率は90%以上であり、きわめて大きな問題となっていた。北里はペスト菌を発見し、ペスト研究に貢献した。

 ただし、北里はすぐにペスト菌をペスト菌として正しく認識したのではない。当初はこれをグラム陽性菌と誤認していた。そのため、同時期にペスト菌を発見したフランスの医師エルサンとの間で、ペスト菌をめぐる論争が生じることになる。

 また、今日の教科書においても、ペスト菌の発見者としては様々な記述がみられる。エルサンだけの場合や、北里だけの場合、あるいは両者をそれぞれ独立での発見者とする場合である。

帰国後の出世

 1899年には、上述の伝染病研究所が内務省の管轄となった。この頃、若き野口英世が伝染病研究所で助手となった。北里は引き続き所長として日本の公衆衛生の改善に尽力した。名声を国内外で確立していき、1906年には日本の帝国学士院の会員となった。さらに、 1908年、イギリスの王立協会の会員にも選出された。

 ただし、北里の研究が常に正しかったわけではなく、多くの失敗も犯していた。たとえば、結核の治療のためにツベルクリンを用いた。これは効果がなかった。北里もそのことに気づいていただろう。だが、ツベルクリンは恩師と開発したものであるので、このツベルクリンでの治療を続けたようだ。

 慶應義塾大学医学部や北里研究所の創設

 1914年、大隈重信の内閣が伝染病研究所を文部省のもとへ、東京帝国大学の付属研究所にすると決定した。当時、伝染病研究所は東京帝国大学と研究上の競争関係にあった。

 そのため、この決定は伝染病研究所が競争相手の指揮下に置かれることを意味した。北里はこれに反対し、所長を辞任した。私財を投じて北里研究所を設立し、それまでの伝染病研究所の職員たちをここに引き込んだ。

 1916年、北里らが中心となって、日本医師会を設立した。北里は初代会長となった。ほかにも、医学関連の協会設立に携わり、公衆衛生の改善に邁進した。とはいえ、ここでも横柄さや傲慢さを批判されることもあった。同時に、それは北里が医師たちを一つの社会組織としてまとめあげようとする剛腕ぶりの別の側面といえるかもしれない。

 1917年、慶應義塾大学が医学部を創設した際には、その医学課長に就任した。慶應義塾大学の創立者の福澤への恩返しの側面もあった。

 同年、貴族院の議員にも選出された。1924年には男爵に叙せられた。1931年、病没した。

 北里の人柄

 北里の親しい友人である金杉は北里の人柄をこう評している。北里はエネルギーの塊のような人物であり、非常に活発で、精力に満ち溢れている。才知に優れている人だったが、学者肌ではなかった。策謀をめぐらす人であり、親分肌のような度量の極めて大きい人物ではなかった。忠告をする人よりも黙って従う人を好んだ。
 傍から見ると、その性格はなかなか捉えがたい。その置かれた状況に応じて策謀と才知を駆使する結果だといえる。そのため、あるときは極めて風通しのよいオープンな態度をとる。

 だが、ほかのときには徹底した秘密主義の態度をとることもあった。豪勢な暮らしぶりかと思わせるときもあれば、驚くほどの節約ぶりを発揮したときもあった。実に捉えがたいほど変幻する性格である。

 北里柴三郎と縁のある人物

●森鴎外:北里柴三郎がドイツ留学時代の同僚。森鴎外自身はもちろん小説家として有名である。だが、本業の軍医としても極めて優秀だった。軍医としてのキャリアで最終的にどこまで到達したかというと・・・。

北里柴三郎の肖像写真

北里柴三郎 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献

海堂尊『北里柴三郎』筑摩書房, 2022

上山明博『北里柴三郎 : 感染症と闘いつづけた男 』青土社, 2021

James Richard Bartholomew, The acculturation of science in Japan : Kitasato Shibasaburo and the Japanese bacteriological community, 1885-1920, University Microfilms, 1972

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