アルブレヒト・デューラーはドイツの芸術家で数学者(1471ー1528) 。ドイツのルネサンス絵画の代表的人物の一人とし知られる。膨大な数の宗教作品や肖像画そして版画などを生み出した。版画では、「黙示録」や「アダムとイブ」などのシリーズものも作成した。数学にも深い関心をもち、その研究成果を自身の芸術作品に応用した。以下、代表的な版画の画像とともに紹介する。
デューラー(Albrecht Dürer)の生涯
デューラーは職人の家に生まれた。父は金細工師だった。デューラーはまず、父の工房にて助手としてキャリアをスタートした。だが、絵画への強い関心を抱くようになり、ウォルゲムートの工房に移った。そこでは4年間、絵画と木版画を学んだ。
国外旅行へ
20歳に達しない頃から、ウォルゲムートの勧めで、スイスやドイツ、フランドルの地域を遍歴していった。それらの地域では、風景などのデッサンや水彩画、版画の作成に勤しみ、腕をみがいていった。それぞれの地域の芸術家たちと活発に交流をもった。自然科学に関心を抱き、特に数学に興味を持った。
さらに、1494年頃には、最初のイタリア旅行を行った。ヴェネツィアでイタリア・ルネサンス芸術に触れた。特に、ジョヴァンニ・ベッリーニの絵画から大きな影響を受けた。
版画家としての成功
1495年には故郷に戻ってきた。ついに、自らの工房をもち、本格的に作品制作を開始した。木版画だけでなく、銅版画の手法にも挑み始めた。同時に、数学の研究も行った。比例の理論に精通し、その知識を自身の芸術作品に応用するようになる。
デューラーは生涯に木版画だけでも350点以上、銅版画も100点ほど制作した。当時は貴族だけでなくブルジョワもこれらの版画を買い求めるようになっており、市場が拡大していた。デューラーは自ら印刷所を設立して版画を制作し、販売した。
デューラーは連作による大作も多く残した。その中でも、まず1498年には、『ヨハネ黙示録』シリーズを世に送り出した。ドイツの木版画としては最高レベルのものとして知られる。同年、ルネサンス風の自画像も描いた。他にも、東方のマギたちを描いた『三王の礼拝』などを作成した。
二度目のイタリア旅行
1505年から、二度目のイタリア旅行を行った。再び主にヴェネツィアに滞在した。数学の関心も深めており、バルバリらに会った。この時期には、「ロザリオの女王の聖母マリアの祝祭」や「ヴェネツィアの若い娘」などの名作を生み出した。
成熟期
1507年の帰国後も、彼は次々と名作を生み出していく。絵画としては、「三位一体」などがある。木版画としては「大受難」を世に送り出した。
1513−14年、銅版画の「書斎のヒエロニムス」や「メランコリア」、「騎士と死と悪魔」が代表作である。
デューラーは次第に名声を確立していった。ついに1512年から1519年まで、皇帝マキシミリアン1世に仕える宮廷画家となった。
その頃、デューラーはドイツ旅行も行っていた。1518年には、ルターと出会った。ルターはすでに宗教改革を開始していた。デューラーは後にルター派の信奉者となった。
晩年
マクシミリアンの死後、デューラーは1520年に新たな皇帝のカール5世と会った。自身への年金を再開してもらった。1523年、それまでの数学研究をまとめて、『比例論』を公刊した。
本書は本格的な数学書である。そのため、デューラーは当時のドイツの代表的な数学者と評されている。ほかにも、築城の技術についての著作も公刊している。
デューラーの評価と位置づけ
デューラーはこれまで中世後期ドイツの画家あるいはドイツ・ルネサンスの始祖として捉えられてきた。
18世紀後半から19世紀初頭のドイツでは、デューラーは前者の仕方で認識された。中世後期のドイツの最高の芸術家であり、唯一無二の存在である、と。19世紀に入ると、ヨーロッパではナショナリズムが勃興した。
ドイツでも同様だった。この状況下で、デューラーはまさにドイツの誉れとして捉えられた。勤勉かつ敬虔な職人であり、ドイツの国民的美徳を体現していると考えられた。
その関連で、デューラーはゴシックの芸術家の頂点とみなされた。この時期、「ゴシック」はゲーテらによって、ドイツ人が発明したと信じられてきた様式にたいして一般的に使われた用語だった。
19世紀半ば、歴史家のブルクハルトが古典古代の文芸復興という「ルネサンス」の概念をもたらした。その結果、デューラーをドイツでのルネサンスの始祖として捉える見方がでてきた。
その際に、上述のデューラーのイタリア旅行が決定的に重要だと論じられた。デューラーがイタリア・ルネサンスの影響を存分に吸収し、それをドイツに持ち帰ったと論じられた。
ただ単にイタリア・ルネサンスを模倣したのではなく、それをドイツの芸術と融合させ、ドイツのルネサンスを創始していった、と。デューラーはラファエロに匹敵するルネサンスの巨匠だと評価された。両者を結びつけるのは当時のドイツ文学や美術では一般的だった。
このような議論にたいして、ナショナリストの美術史家はデューラーが古典古代やイタリアの芸術を吸収したのは裏切りだと論じることもあった。あるいは、そもそもデューラーの芸術の発展にはイタリア旅行など必要なかったと論じられた。
20世紀前半、ナチスが台頭する中で、デューラーの評価はますます国粋主義的な色合いに染められていった。
デューラーをルネサンスの芸術家と位置づけることは、このナショナリズムの流れに対抗する意味合いも持っていた。デューラーがドイツ人だけの芸術家ではないという批判である。すなわち、イタリア・ルネサンスを理解し、ドイツへもたらす国際人であり、橋渡し役であり、仲介者であった。
20世紀後半には、この人文主義的な理解が民族主義的な理解よりも優勢になっていった。
デューラーと縁のある人物
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デューラーの肖像画
デューラーの代表的な作品
『ヨハネの黙示録』(1498)
『死と悪魔と騎士』(1513)
『書斎の聖ヒエロニムス』(1514)
『メランコリア』(1514)
『四人の使徒』(1526)
おすすめ参考文献
田辺幹之助編『ドイツ・ルネサンスの挑戦 : デューラーとクラーナハ』東京美術, 2016
岡山敦彦『ブリューゲル・デューラー・クラーナハ 』いのちのことば社 , 2012.
Andrea Bubenik, Reframing Albrecht Dürer : the appropriation of art, 1528-1700, Ashgate, 2013
Alexander Lee(ed.), Renaissance? : perceptions of continuity and discontinuity in Europe, c.1300-c.1550, Brill, 2010