ジュール・マザランはフランスで活躍した政治家(1602ー1661)。リシュリューとともに、フランスの絶対王政の確立に貢献した。宰相として莫大な財産を築き、宝石などの圧巻のコレクターとなった。とはいえ、もともとはイタリア人として生まれた。ではマザランはどのようにしてフランスの宰相にまで昇りつめ、栄華を極めたのか。
ちなみに、初めて世界一周を達成した航海士のマゼランとは別人物である。
マザラン(Jules Mazarin)の生涯
マザランはイタリアで貴族の家庭に生まれた。父がローマ教皇庁の官吏だったので、マザランも当初は教皇庁に仕えるという同じ道を歩んだ。まずイエズス会のローマ学院で、次にスペインのアルカラ大学で学んだ。彼は生涯、カトリックの信奉者だった。ちなみに、16世紀に世界一周を達成したマゼランとは全くの別人。
教皇庁の外交官へ
1623年から、ローマ教皇に仕えた。ただし、当初は教皇国軍の軍人としてだった。だが、外交官としての才能が見出されたので、外交官として起用されることになる。
1630年から、マザランはフランスにて教皇の外交官として活躍する。この時期、ヨーロッパでは30年戦争が繰り広げられていた。ヨーロッパで最後の宗教戦争と呼ばれた戦争である。スペインや神聖ローマ皇帝のカトリック陣営と、帝国のプロテスタント諸侯やデンマークなどのプロテスタント陣営が戦っていた。
この状況で、フランスとスペインが対立を深めていた。ローマ教皇庁はこれらカトリックの大国同士の戦争を抑止したかった。そのためにマザランが外交官として活躍し、戦争の勃発を防いだ。
リシュリューとの出会い
その交渉の際に、マザランはフランスの宰相リシュリューと知り合った。リシュリューがはマザランの卓越した外交手腕に感心した。
1634年、マザランは教皇の特使としてパリに派遣された。様々な課題をこなさなければならなかった。中でも、最重要だったのは30年戦争へのフランスの参加を防ぐことだった。
この頃、リシュリューはプロテスタント諸侯を支援していたためである。だが、スペインの思惑により、マザランはこの任務から外され、アヴィニョンに移された。1635年、フランスはプロテスタント側で30年戦争に参加した。
フランス国王ルイ13世の外交官へ
1639年、フランスのルイ13世がマザランをフランスに招いた。マザランはこれに応じ、フランスに帰化した。1641年には枢機卿に選ばれた。当初は、イタリアなどに派遣され、外交官として活躍した。
1642年、リシュリューが没した後、マザランは国王評議会のメンバーになった。ルイ13世はマザランをリシュリューの後継者とみなした。かくして、マザランは宰相リシュリーに外交手腕を見込まれてフランスに引き抜かれ、その後継者となった。
フランス宰相へ:30年戦争の終結
1643年、ルイ13世が没した。後継者のルイ14世は幼かったので、母が摂政になった。彼女はマザランを宰相に選び、政策を一任した。マザランはルイ14世の教育係も担った。マザランを罷免させようとする諸侯の陰謀が企てられた。だが、マザランはこれを阻止した。
諸侯に自己援護するマザラン
30年戦争の中で、マザランは外交手腕を発揮した。1635年のフランスの参戦で、潮目が大きく変わっていた。マザランはフランスに有利な仕方で外交を進めることに成功し、1648年のウェストファリア条約に至った。マザランはヨーロッパの平和を臨んでいたので、その点も達成された。
マザランへの反動とフロンドの乱:ルイ14世の教育
しかし、外国生まれのマザランへの貴族らの反感は強まっていった。30年戦争のための税負担の増大が貴族や民衆の不満を増大させた。また、リシュリューとマザランは王権を強化するために、貴族などの既得権益を侵害してきたのも、不満を一層増大させた。
それらの原因が相まって、1648年からフランスでフロンドの乱が生じた。当初はパリの高等法院が王権と対決した。それが各地に飛び火していった。マザランは各地を訪れて王権への服従を求めた。
1651年には、ドイツのケルンに亡命した。だが、王の摂政と書簡でやり取りし、指示を送った。若き王が短期間だが政務を担うことになった。1652年には、フロンドの乱を起こした勢力が内部分裂を始めた。マザランはこの好機を待っていた。そこで、フランスに戻り、1653年にはフロンドの乱を鎮圧した。
マザラン、再び権力の座へ
マザランは宰相に返り咲いた。国内では中央集権体制の構築を推進した。対外的には、強国のスペインと戦争を続けていた。1659年、ついにスペインに打ち勝ち、ピレネー条約を結んだ。その際に、ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサとの政略結婚が決まった。これがのちのスペイン継承戦争の遠因となる。翌年、ルイは結婚式を執り行った。
1660年、マザランはバルト海エリアの平和を確保するために、外交手腕をさらに発揮した。
莫大な財産とコレクション
1661年、マザランは没した。その遺産は3500万リーヴルを超えていた。というのも、マザランは宰相として実験を握っていた頃に、莫大な富を蓄積していたからだった。宝石のコレクターとして有名になった。
彼は芸術を好んだため、様々な優れた美術品を収集した。フランスへのイタリアのオペラの導入を促し、モリエールを支援した。すなわち、芸術のパトロンでもあった。
マザランと縁のある人物
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マザランの肖像画
おすすめ参考文献
ミシュレ『17世紀 : ルイ14世の世紀』大野一道, 金光仁三郎編, 藤原書店, 2010
David J. Sturdy, Richelieu and Mazarin : a study in statesmanship, Palgrave Macmillan, 2004
Olivier Poncet, Mazarin : l’art de gouverner, Bibliothèque national de france, 2021