チェーザレ・ボルジアはイタリアの政治家(1475−1507)。教皇アレクサンデル6世の息子であり、父の威光のもとで高位聖職者となった。教皇軍の総司令官に就任し、イタリア中部で教皇国の確立に邁進した。父の死を転機に、逆境に陥り、不遇の最期となった。チェーザレの軍事行動にはマキャベリが同行していた。これからみていくように、マキャベリは『君主論』でチェーザレの特質を論じた。
チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)の生涯
チェーザレ・ボルジアはローマで高位聖職者の家庭に生まれた。父親はロドリゴ・ボルジア枢機卿であり、母は愛人のヴァンノッツァ・カタネイである。
聖職者としての出世
チェーザレは当時の出世コースの一つである高位聖職者の道を進んだ。幼い頃から家庭教師のもとで学んだ。1489年からペルージャ大学で法学を学んだ。
ピサ大学で学んだ後、教会法とローマ法の学位をとった。1491年、父の後ろ盾のおかげで、15歳にして、スペインのパンプローナの司教となった。
1492年、バレンシアの司教となった。同年、父が教皇アレクサンデル6世に即位した。1493年、チェーザレは18歳にして、枢機卿に就任した。枢機卿より上の地位はもはや教皇のみである。
政治の道へ
だが、チェーザレは聖職者に向いていなかった。協会の聖務を行うより、狩猟や情事に夢中になった。チェーザレは優れた容貌で知られていた。
1498年、チェーザレのキャリアに大きな転機が訪れた。当時、アレクサンデル6世はイタリア中部での教皇国の確立にいそしんでいた(当時のローマ教皇はカトリック教会のトップだっただけでなく、教皇国という世俗的な国の王でもあった)。
その確立のために信頼できる優れた部下を欲した。チェーザレはまさにうってつけだった。そのため、チェーザレは枢機卿を辞任し、政治家や将校として活躍することになる。
チェーザレはさっそく、教皇のよき同盟相手を得るために、政略結婚を行った。当初はナポリ王の娘との結婚を交渉したが、失敗した。
ナバラ王の妹シャルロット・ダルブレとの結婚が決まった。かくして、チェーザレとアレクサンデル6世はフランスとの協力関係をえた。チェーザレはフランス王により、ヴァレンティノワ公に叙された。
軍事的成功
チェーザレはフランス王の軍事的支援と教皇庁の財政的基盤のもとで、イタリア中部の教皇国の確立のために、戦争を開始した。さらに、この戦いはボルジア家の支配地を確立するためでもあった。
1499年、チェーザレは教皇軍の総司令官として、フランス軍の支援のもとロマーニャの攻略を開始した。
チェーザレはこれらの闘いで次々に勝利を収めていった。1499年にはイモラとフォルリ、1500年からはリミニやペーザロなどを、1502年にはウルビノやカメリーノなどを征服した。
父アレクサンデルが外交で条件を整備したうえで、チェーザレが果断な軍事作戦や外交手腕の巧みさによって勝利を重ねた。 アレクサンデルはチェーザレをロマーニャ公に任命した。チェーザレはこの広大なロマーニャ地域の領主となった。
チェーザレの才覚は、この軍事作戦にフィレンツェの外交使節として同行していたマキャベリに称賛された。マキャベリの考えについては、後述する。
チェーザレの性格:残酷な野心家
チェーザレは二面性のある人物だった。秘密主義で寡黙な面をもつとどうじに、饒舌で外交的な面ももった。また、傲慢であり、残酷で、野心的だった。チェーザレは「カエサルか無か」という二者択一を座右の銘にしていた。
ちなみに、イタリア語のチェーザレはラテン語のカエサルを意味する。カエサルはもともとは古代ローマの軍人ユリウス・カエサルの名前だが、皇帝を意味する一般名詞になっていた。よって、チェーザレはカエサルのような皇帝になるか、あるいは失敗して何も得ないかという覚悟だった。
チェーザレは様々な暗殺に関わったといわれる。たとえば、1500年の妹ルクレツィアの夫への暗殺がそうである。チェーザレはこのような残酷さを発揮した。だが同時に、チェーザレの残酷さは敵対者によって誇張されて喧伝されてもいた。
上述のチェーザレの成功や、アレクサンデル6世の七光りによる出世がその一因だった。ルクレツィアの夫の暗殺でも、チェーザレへの憎悪や恐怖が煽られた。
栄光から危機へ:父の死
1503年8月、父が没した。最大の後ろ盾である父を失ったのだ。
この頃、チェーザレは重病にかかっていた。それでも、直後の教皇選挙にたいして、チェーザレは影響力を行使するのに成功した。
チェーザレの政治的画策の影響で、ピウス3世が教皇に選ばれた。ピウスはチェーザレを引き続き教皇軍の総司令官に任命した。だが、ピウス3世は高齢だったため、1ヶ月と経たずに没した。
その後、それまでの強敵だったジュリアーノが教皇ユリウス2世に即位した。とはいえ、当初はジュリアーノとの間に協力関係が形成されたかのようだった。
ジュリアーノは即位後に、ヴェネチアとの対立でチェーザレを利用しようと考えた。だが、チェーザレが役に立たないと判断し、彼を裏切った。
教皇との対立
その結果、チェーザレは父アレクサンデル6世という教皇の後ろ盾を失っただけでなく、新たな教皇という敵と対峙することになった。
ここから、チェーザレは強烈な逆風に晒されていく。教皇軍の総司令官やロマーニャ公の地位から追い出された。
チェーザレはロマーニャ地方の諸都市の支配権を維持していた。チェーザレに残されたのはこれだけだった。だが、ユリウス2世はロマーニャ諸都市の返還を要求した。
最期
チェーザレは逮捕された。上述の返還に応じて、一時ナポリに逃れた。だが、教皇の要請を受けて、スペイン王がチェーザレを逮捕した。チェーザレはスペインへ移送され、幽閉された。
ナバラ王が彼の解放を嘆願していたが、無視された。1506年、どうにか脱出した。
チェーザレはイタリアには戻れそうになかったので、義兄のナバラ王のいるナバラに移った。1507年、ナバラで反乱が起こった際に、これを鎮圧しようとして戦死した。あるいは、待ち伏せの計略によって殺されたともいわれる。
マキャベリの『君主論』におけるチェーザレ・ボルジア
イタリアの政治家で学者のマキャベリは著名な『君主論』の中で、チェーザレ・ボルジアを新しいタイプの君主として提示したことは有名である。
本書は、政治的に不安定だった当時のイタリアを背景に、メディチ家にたいして新しいタイプの君主となってイタリアの統一と安定を確保するよう訴えている。
マキャベリが推奨するこの新しいタイプの君主の主なモデルがチェーザレだった。では、より具体的に、マキャベリはチェーザレをどう捉えていたのか。
マキャベリからすれば、チェーザレは他者の軍事力と財産によって国を獲得した人物の模範例である。言い換えれば、チェーザレはフランス王の軍事力と父アレクサンドル6世の財政力によって、ロマーニャ地方の諸都市を自国として獲得した人物である。
より重要な点は、このようにして他力本願で国家を獲得した後に、チェーザレは自身の支配をそこに確立する力量や手腕が卓越していたことだった。政治家としても軍人としても非常に卓越していた。
そもそも、チェーザレによって支配される前、これらの諸都市は暴君によって支配され、荒廃していた。チェーザレは征服によってそれらの暴君を追い出した。
チェーザレはその注目すべき手腕と手法によって、これらの都市の民衆に平和と安全と団結を与えた。その点で、新しい君主の模範とされている。
エピソード:チェーザレが発揮した「手腕」とは
では、チェーザレはどのような手腕を発揮したのか。マキャベリ自身が外交使節として実見した次のようなエピソードが説明されている。
チェーザレはロマーニャ地方にレミーロ・デ・オルコを派遣した。オルコは 残酷で迅速な人物 であり、すぐにロマーニャ地方を統一し、平定した。
この地方の征服が完了した今、 チェーザレは自身にたいして民衆が憎悪を抱くようになることを心配するようになった。チェーザレ自身のかつての征服や平定での厳しさがその憎悪の一因となっていた。
そこで、チェーザレはこれらの厳しい行動の責任をオルコに転嫁することにした。オルコがこのような行き過ぎたことを実行したという口実で、チェーザレはオルコを裁判で裁いた。
そのうえで、チェーザレはオルコに残酷な処罰をおこなった。チェゼーナの町の広場で、オルコは頭と首のない胴体の二つに切り分けられた状態になって、晒された。
マキャベリによれば、この獰猛な見世物は民衆を満足させると同時に唖然とさせた。このような仕方でチェーザレは民衆の人心を掌握するのに成功していった。
チェーザレの難しい位置づけ
だが、結局は、上述のように、チェーザレは失脚した。マキャベリはその原因を、チェーザレがあまりに運が悪かったことにあるという。あるいは、当初はユリウス2世を同盟者として信用した点が誤りだったという。
それでも、マキャベリはチェーザレに失敗の責任をあまり負わせない姿勢をとっている。
チェーザレに対するマキャベリの態度には曖昧な部分も少なくない。そのため、この態度は後の読者たちによって様々に、相互に矛盾するような仕方でも解釈されてきた。
マキャベリがチェーザレを新しい君主の模範例として提示したのは確かである。だが、チェーザレが短期間で最終的に失敗した点からして,マキャベリの態度は純粋な称賛だけに終始しがたい状況にもあったといえる。
チェーザレと縁のある人物
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チェーザレ・ボルジアの肖像画
おすすめ参考文献
John T. Scott, The Routledge guidebook to Machiavelli’s The Prince, Routledge, 2016
Marcel Brion, Les Borgia : le pape et le prince, J. Tallandier, 1979
Sarah Bradford, Cesare Borgia : his life and times, Macmillan, 1976