モクテスマ2世はアステカ帝国の最後の皇帝。皇帝の家庭にうまれ、幼い頃から英才教育を受けた。皇帝に即位し、アステカ帝国を絶頂期に至らせた。そこにスペインの征服者コルテスが到来した。アステカの征服が始まり、モクテスマは拿捕される。だが、モクテスマはコルテスに処刑されたのではない。これからみていくように、その最後は意外なものであった。
アステカ帝国はアメリカ大陸の二大文明の一つだった。よって、皇帝モクテスマの生涯を知ることで、ヨーロッパのアメリカ大陸侵出のありさまを知ることができる。
モクテスマ2世(Moctezuma II)の生涯
モクテスマ2世は高貴な家庭に生まれた。父アシャヤカトルはアステカ帝国の皇帝であった。曽祖父はモクテスマ1世であり、アステカ帝国の発展に大きく寄与した人物だった。この記事はモクテスマ2世についてみていく
モクテスマ2世はいずれ支配者となるべく、優れた教育を受けて育った。当時のアステカでは、王侯貴族の子弟は彼らのための学校で学んだ。
モクテスマはそこで政治のみならず宗教儀礼なども熱心に学んだ。規律や信仰を重んじる青年に育っていった。
アステカでは、王位継承者であっても、そのしかるべき地位を認められるためには、戦争で武勲を示す必要があった。そこで、モクテスマ自身も戦争に参加した。
まずは捕虜を一人捕らえることが一人前になる条件だった。さらに、4人以上の隊長を捕らえることが、上に立つ者として要求された。モクテスマはこれらを達成し、将軍に任命された。
アステカ帝国の皇帝へ
1502年、モクテスマはついにアステカ皇帝のモクテスマ2世として即位した。彼の支配はどのようなものだったか。
身分制の強化
モクテスマは王侯貴族の高貴な血筋を重視した。それまで、アステカ社会は全体的にみれば実力主義だった。だが、モクテスマは王侯貴族という高位の身分を優先した。
たとえば、モクテスマは帝国の重要な役職から平民出身者を排除し、王侯貴族の出身者に独占させた。これ以降、平民は宮殿への出入りを禁止され、王侯貴族だけが宮殿に出入りできるようになった。
モクテスマは他の王侯貴族にたいして、自身をいわば神のような特別な存在として処遇するよう命じた。たとえば、彼らは宮殿において、モクテスマの顔を直接的に見たり話しかけたりすることを禁じられた。
彼らは宮殿に出入りする際にも、モクテスマに敬意を示すために、様々な儀礼的な約束事を強いられた。それをおこなわなければ、皇帝への謁見を許されなかった。あるいは違反者は死刑とされた。
成果も求める
モクテスマは王侯貴族の出身者を優遇したとはいえ、彼らを甘やかしたわけではない。彼らには職務上の優れた成果を要求した。
この点で、モクテスマの規律重視の性格が見て取れた。自身の命令や法を貴族にも遵守させた。さらに、彼らが怠惰な生活を送ることがないよう、様々な職務を頻繁に与えた。
アステカ帝国による征服事業
モクテスマが生まれた頃は、アステカ帝国はまだ拡大を続けていた。そもそも、アステカ帝国は15世紀前半に誕生した。これを大いに拡大させたのは、上述のように、曽祖父のモクテスマ1世だった。
モクテスマ2世が生まれて間もなく、モクテスマ1世が没した。モクテスマ2世が学校で教育を受けていた頃も、アステカ帝国は周辺地域の征服を続けた。
同時に、アステカは圧政をしいていたので、反乱も起こった。これらを鎮圧しながら、拡大を続けていた。アステカは物資による徴税目当てで領土を拡大し続けた。
1502年にモクテスマ2世が即位したとき、臣下たちは彼に偉大なる征服者の役割を期待した。モクテスマはこの期待に応えていく。
アステカ帝国の絶頂へ
モクテスマはまずオアハカ地方を征服するのに成功した。この地域を自身の私的な領地とし、そこに宮殿を建設させた。他の地域の征服も進めていった。
1518年には、アステカ帝国は繁栄の絶頂にあった。広大な支配地域からは多種多様で豊かな貢物が献納された。帝国の中心はテノチティトランだった。この地は帝国の中心にふさわしく、政治や文化、宗教の面で発展していった。
アステカ帝国の問題点
とはいえ、モクテスマは全ての敵対国を征服したわけではなかった。たとえば、トラスカラ公国の征服には失敗した。このトラスカラ王国とは、人身御供という宗教儀式用の人質を得る戦争(花の戦争)を行った。
さらに、アステカ帝国は圧政をしいていたので、その支配が確固たるものではなかった。多くの先住民はモクテスマに力づくで抑えつけられていたので、仕方なく服従していた。
よって、誰かがこの状況から救ってくれるならば、その者の味方になったであろう。
スペインの征服者エルナン・コルテスの到来
モクテスマの、そしてアステカ帝国の運命の転機は1519年である。スペインの征服者エルナン・コルテスらがアステカ帝国に到来したのだ。
そもそも、周知のように、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」した。コロンブスはスペイン王の後ろ盾でこの航海事業を行った。そのため、スペインがアメリカの探検と征服を開始した。
当初、スペイン人はカリブ諸島を拠点とした。その先住民がスペイン人の強制労働などで急減した。そこで、スペイン人はアメリカの大陸部への進出を本格化させた。
1519年、コルテスの征服隊がメキシコのアステカ帝国に到達した。少数の兵と馬、そしてスペインの鉄製の武器を携えていた。
モクテスマの敗北:その理由
上述のように、コルテスが到来した1519年、アステカ帝国は絶頂にあった。だが、モクテスマはコルテスの征服にほとんど対抗できず、アステカ帝国は滅ぶことになる。
主な理由を3つあげよう。第一に、アステカの先住民内部の対立である。上述のように、アステカは圧政をしいていた。
この圧政からの解放を望む先住民は、コルテスを解放者とみなした。そのため、先住民の多くがスペイン人の同盟者として、アステカ帝国と戦った。
第二に、スペインの武器である。この時期、アメリカには鉄製の道具が存在していなかった。スペイン人の武器は鉄製であり、この点でアステカよりも有利だった。馬も見たことがなく、それほど大きな家畜に圧倒された。
さらに、先住民は大砲や銃を知らなかった。当初、銃がいったいなんなのかもわからなかった。これが第三の理由とも関わってくる。
第三の理由はアステカの宗教である。アステカ帝国の神話では、かつてこの世界で神々が戦争した。ケツァルコアトルという神が敗北した。「再び戻ってきて、復讐する」と言いながら、西の海に逃げていった。
ケツァルコアトルは「白い羽毛のヘビ」という意味合いの神であり、外見が白かった。コルテスらは白人であり、西の海からアステカ帝国に到来した。
さらに、スペイン人は鉄砲や大砲を用いた。先住民はスペイン人が雷や煙の魔術を使っていると思い込んだ。
このようにして、アステカ皇帝はコルテスをケツァルコアトルと勘違いした。コルテスらと戦う前から、戦意を喪失してしまったとされる。
モクテスマの拿捕
1519年11月、コルテスはテノチティトランに到着した。モクテスマは戦わずしてコルテスを歓迎した。もっとも、コルテスと戦うよう求める声もあがっていた。
コルテスはモクテスマを殺さず、幽閉した。その皇帝としての権威を利用しようとしたのである。彼を媒介として、帝国内の金銀財宝を得ようと画策した。先住民の間で反乱の兆候が現れたら、反逆者たちを懲罰として殺害した。
コルテスの宗教政策
コルテスは先住民にたいして、キリスト教への改宗を強力に推進していった。同時に、アステカの伝統的な宗教を廃止させた。
その中には、人身御供の儀式があった。ケツァルコアトルなどのために、生贄を捧げるというものだ。生贄の多くは、周辺国との戦争で得られる捕虜だった。
というより、この戦争の目的の一つは、この生贄をえることだった。人身御供の宗教儀式は圧政の一例だった。
ちなみに、スペインのアステカ征服はのちに有名なスペイン人宣教師のラスカサスによって批判されることになる。あまりに残虐で残酷な行いだ、と。フランスやイギリスなどが同様の批判を展開する。
スペイン政府はこのような批判にたいし、こう反論する。あわれな先住民をアステカの人身御供から救うために戦争したのだ、と。
モクテスマの最期
アステカの支配者層において、内部対立が生じた。ついに、1520年、スペイン人への大々的な反撃が始まった。この過程でモクテスマは死んだ。
モクテスマはコルテスに処刑されたわけではない。他の仕方で殺したわけでもない。意外な仕方で人生の膜を閉じた。
モクテスマはコルテスの命令によって、自身の宮廷のバルコニーから先住民に向かって、反乱をやめるよう説得を試みた。先住民はこの不甲斐ない皇帝に激怒した。彼らがモクテスマに石を投げつけた。これで負傷し、モクテスマは没した。
その後、反乱は本格化し、スペイン人は危機的な状況に陥った。1521年になって、コルテスはアステカの征服を完了させた。
モクテスマの子孫:イサベル
このように、モクテスマ自身は最後まで、スペインにたいして自ら武器をとることはなかった。彼の子孫はスペイン人の植民地政府と結びつき、植民地エリートとなっていく。
たとえば、1528年、モクテスマの娘のイサベルはエルナン・コルテスとの間にレオノール・コルテスという娘をもうけた。とはいえ、イサベルとコルテスは結婚しなかった。レオノールは1535年、スペイン王から貴族の身分をえた。
イサベル自身はコルテスからトラコパンの領地を与えられて領主となった。ほかのスペイン人と結婚して、子供を設けた。イサベルと同様に、アステカ帝国の貴族出身者の一部はスペイン人の貴族らと結婚して、植民地のエリート層を形成していく。
モクテスマと縁のある人物
●エルナン・コルテス:アステカ帝国の征服者。この征服はコルテスの視点において、どうみえるのか。
→エルナン・コルテスの記事をみる
●アタワルパ:ペルーのインカ帝国の最後の皇帝。アステカ帝国が滅亡して10年後、インカ帝国がスペイン人によって征服されていく。インカ帝国の征服はどのようなものだったのか。
→アタワルパの記事をみる
モクテスマの肖像画
アステカの人身御供
おすすめ参考文献
David Carrasco, Quetzalcoatl and the irony of empire : myths and prophecies in the Aztec tradition, University Press of Colorado, 2000
Michael E. Smith, The Aztecs, Wiley-Blackwell, 2012
Ross Hassig, Polygamy and the rise and demise of the Aztec empire, University of New Mexico Press, 2016
Stefan Rinke, Conquistadors and Aztecs : a history of the fall of Tenochtitlan, Oxford University Press, 2023