科学革命とはなにか:実験主義編

 科学革命は中世哲学から近代科学への転機となった出来事や時期を指す。だいたい1500−1800年頃の西洋で起こったものと考えられてきた。
 この記事では、科学革命の中で特に研究されてきたものの中でも、実験主義に着目する。実験主義の導入という点で、科学革命とはどのようなものだったかを説明する。その主な人物や理論を具体的にみていく。

実験主義の導入

 16世紀から17世紀にかけて、実験は自然的事実を探求する際に、非常に重要な役割を担うようになった。それまで、自然的事実の探求は古代ギリシャのアリストテレスの理論のもとでなされた。アリストテレス理論においても、経験が重視された。だが、実験はむしろ回避された。
 たとえば、りんごが木から落ちるところを観察したとしよう。アリストテレス主義者はこのりんごの落下を観察する。この落下の事実をアリストテレス理論のもとで解釈し、その仕組を説明する。だが、実験はしない。

 この場合の実験とは、人工的に作り出された条件のもとで、なんらかの科学的な操作を対象に加えることである。このような実験はむしろアリストテレス理論では否定される。
 なぜなら、このような特異で、「不自然」で、人為的につくられた状況下での出来事によって、自然界の正常な機能やあり方を明らかにすることはできないと考えられたからである。
 これにたいし、科学革命では、そのような人為的につくられた条件下で、対象を科学的に操作し(熱を加えたり、切ったりなど)、観察した。自然的事実を確かめるために、実験がむしろ推奨されていく。

 このような実験主義が浸透していく。18世紀前半の有名なスフィフトの風刺小説『ガリヴァー旅行記』において、このような実験の流行が風刺されたほどである。

 実験主義の導入の原因

 では、この点での科学革命の原因はなんだったのか。まず伝統的によく知られたものからみてみよう。

 イギリス経験主義の発展:ベーコン

 実験主義の導入でよく研究されてきたのは、イギリス経験主義である。17世紀前半から、哲学者で政治家のフランシス・ベーコンが学問の刷新を図った。『ノウム・オルガヌム』などで、伝統的なアリストテレス理論の問題点を指摘し、新しい学問への刷新を訴えた。
 より具体的には、ベーコンは帰納法の重要性を訴えた。観察結果を多く集め、それを帰納的に集めて一般理論をつくるのである。ベーコンは演繹法も重要だと認め続けたが、帰納法と組み合わせる必要性を訴えた。
 さらに、ベーコンは生のデータを多く集め、ノートを取り、上述の意味での実験を行うべきと論じた。このようにして、自然科学の刷新を図ろうとした。ただし、ベーコン自体が実際に行えた実験には限界があった。

 ロバート・ボイルの活躍

 ベーコンの流れで重要なのは、「ボイルの法則」で知られる哲学者で化学者のロバート・ボイルである。ボイルもまた上述のベーコンの方針を受け継いだ。
 ボイルはさらに、実験主義を発展させた。実験のための空間を設け、実験のための大がかりな器具を制作して、実験した。つまり、実験室で実験器具を用いて実験した。これは今日からすれば当たり前だが、当時はそうでなかった。むしろ、ボイルとその仲間たちがこれを当たり前のものにしていった。
 ほかにも、ボイルは彼らとロンドンの王立協会を設立し、科学の営みを制度化するのに貢献した。ここでは、学者と職人などが交流を持ち、刺激を与えあった。これは実験主義が社会に定着するのに一定の役割を演じた。

 科学革命の産物としての発明品:産業革命とのつながり

 ボイルは実験の成果を利用して、たとえば、排水ポンプを発明した。これは王立協会での職人との相互交流の成果でもあった。
 排水ポンプは当時の運河を掘削するのに役立った。特に、当時の大国オランダでは、国土開発運動が本格化していた。そのために運河をより深く掘るための排水ポンプが求められた。ボイルの発明品はここで役立てられた。
 このように、学者と職人は王立協会などで刺激や知識を交換しあい、盛んに実験を行った。科学革命のこのような人的ネットワークや場所が18世紀後半のイギリスの産業革命の一因となっていく。

 数学と実践

 実験主義導入の他の原因について、学者と職人などの交流の場はロンドンの王立協会に限られなかった。この時代の数学と結びついた科学の分野でも、実験が行われていた。具体的には、工学、航海術、地図学、弾道学などである。
 これらの分野では、学者は職員や軍人などと協力した。たとえば弾道学である。この時代は幾何学が数学の中でも特に発展した。たとえば、幾何学の知識を利用して、大砲を何度の角度まで上方に傾ければ、弾が最も遠くまで飛ぶのかを理論的に計算した。

 実際に大砲を発射して、理論値が正しいかを確かめた。このように、これらの分野では、理論と実践の試行錯誤が頻繁にみられた。
 背景として、17世紀後半は戦争の盛んな時期でもあった。フランスの絶対王政の確立者ルイ14世はほぼ毎年のように戦争していた。この時代の大国オランダもまた、17世紀後半は戦争を繰り返していた。そのような中で、科学が戦争のために利用され、結果として発展していった。

 錬金術での実験

 ほかにも、錬金術が実験主義の導入で重要な役割を果たしたと指摘されている。錬金術をこの点で科学革命の原因とすることに反感を覚える人もいるだろう。ながらく、錬金術は疑似科学とみなされてきたからである。錬金術は科学革命の障害か、あるいは消し去るべき汚点とみなされてきた。
 だが、錬金術はオカルティックで宗教的なものではなく、自然界を真面目に合理的に調べるものだったという主張もある。ただし、当時の錬金術の実践自体が幅広かったので、どちらのパターンもあったというべきだろう。
 いずれにせよ、少なくとも錬金術は実験主義の導入に貢献した。たとえば、多くの場合、実験室というものは錬金術の実践の場として普及していった。
 錬金術といえば、鉛のような「卑」金属を金のような「貴」金属に変えるための実践的な技術をもともと指していた。中世では、その実践者はながらく冶金学の人々に限られていた。
 だが、錬金術は金属の性質に関する基礎理論を構築するようになった。さらに、16世紀のパラケルススの登場により、錬金術の対象は金属の生成と変質から自然界全体に拡大した。すべての物質の生成と変質を対象にしようとしたのだ。

 その結果、錬金術自体がもっていた試行錯誤の精神が他の分野にも広まっていく。錬金術の実践は大学だけでなく、王侯貴族の宮廷でも行われた。宮廷では、大学と異なり、男性だけでなく女性も実験を行った。

科学革命の時期の科学的営み


 彼女たちは高度に専門化された高価な化学設備を備えた蒸留所を持ち、日常業務を遂行するために助手を雇った。 さまざまな原料や調製法を試すことによって薬を改良しようとし、それを患者に試して結果を記録した。
 このように、17世紀のヨーロッパでも、女性が錬金術においては高度な知的職業につくことができ、活躍することができた。

 大航海時代の海外進出と実験主義

 実験主義導入の他の原因として、大航海時代にかんするものもある。周知のように、15世紀末、コロンブスがアメリカを「発見」した。その後、スペインが中南米の征服と植民地建設を開始した。
 コロンブスはスペイン王権に航海事業の出資などを得ていた。そのため、最初の航海の時点で、スペイン王権の役に立ちそうな原材料を見つけようとしていた。
 彼の航海日誌には、どこの島の木材が役に立ちそうだなどの記載がみられる。コロンブスにせよ、その後のスペイン人にせよ、金銀財宝だけを探し回っていたわけではなかったのである。
 アメリカはそれまでヨーロッパにとって未知の世界だった。具体的には、アメリカとヨーロッパでは、生息する動物や植物が大いに異なった。たとえば、トマトやジャガイモなどはアメリカ原産であり、ヨーロッパにはまだ存在しなかった。よって、スペイン人はアメリカ征服の際に、無数の新種の原料を発見することになった。
  スペインは新世界のこれらの資源を開発するために、新しい機器や技術の発明を積極的に奨励した。当時は胡椒やナツメグなどの香辛料貿易が盛んだったように、新しい薬種などが採取と開発の対象になった。新種の植物が有用であれば貴重な商品になるため、それらの実験的研究がスペイン王権によって推進された。
 また、大航海時代に、上述の(数学と結びついた)航海術が実験的方法で発展していったのも重要であった。

おすすめ参考文献

菅野礼司『科学はこうして発展した : 科学革命の論理』せせらぎ出版, 2002

Hamish Scott(ed.), The Oxford handbook of early modern European history, 1350-1750, Oxford University Press, 2018

Teich Mikuláš, The Scientific Revolution Revisited, Open Book Publishers, 2015

タイトルとURLをコピーしました