J.S.バッハ:バロック音楽の頂点

 ヨハン・セバスティアン・バッハはドイツの作曲家(1685−1750 )。バロック時代最大の作曲家として知られ、大バッハや音楽の父と呼ばれることもある。音楽一家に生まれた。非常に多産だが、G線上のアリアやブランデンブルク協奏曲やマタイ受難曲などが有名である。この記事では、バッハの生涯や音楽家としての特徴を紹介する。特に、チェンバロの奏者や作曲者としてのバッハの本領についてみていく。

バッハの生涯

 バッハはドイツのアイゼナハで音楽家の家庭に生まれた。父は弦楽奏者だった。バッハは幼い頃に両親を亡くし、兄の家で育てられるようになった。1700年、リューネブルクの聖ミハエル教会の少年合唱団に入った。

 音楽家としての成功:ワイマールの時代

 1703年、バッハはワイマール宮廷のヴァイオリニストに選ばれた。この頃には、オルガンの演奏でも熟達するようになった。アルンシュタットの新教会などを経て、1708年にはワイマールの宮廷オルガン奏者に任命された。また、その頃に結婚した。

 1714年頃には、ヴィヴァルディなどの当時のイタリア・オペラから影響を受けるようになった。この時期にバッハが作曲した楽曲には、その影響がみられるようになった。
 この時期、バッハは教会音楽の作品を30曲ほど制作した。特に、1714-1717年の間に、集中的に制作した。毎月新しい作品を演奏するよう指示されたためである。
 ワイマール宮廷楽長になれなかったので、職を辞した。

 ケーテンの時代

 1717年、バッハはケーテンに移り、その宮廷楽長に任命された。ケーテンの時代は、鍵盤楽器の作曲で実に実りの多かった。たとえば、代表曲の『ブランデンブルク協奏曲』を制作した。

『ブランデンブルク協奏曲』の演奏の動画(画像をクリックすると始まります)

 ほかにも、1722年には、『イギリス組曲』や『フランス組曲』、「平均律クラヴィーア曲集I」などの名作を世に送り出した。

 この頃、バッハはフランスの著名な演奏家ルイ・マルシャンとの競演が計画された。だが、実際にはマルシャンはやってこなかった。バッハは単独で演奏することになったが、その演奏は高い評判をえた。

 ライプツィヒの時代

 1722年、ヨハン・クーナウが没した。クーナウはライプツィヒの聖トマス教会の合唱長をつとめていた。そこで、教会は後任を探していた。当初はテレマンに打診したが、断られた。バッハがこれに応募し、採用された。

 この時期、バッハは必ずしも著名な音楽家ではなかった。トマス教会としては、すでに著名なテレマンを採用したかった。だが断られたので、仕方なくバッハを採用するというスタンスだった。

 1723年、バッハはライプツィヒに移り、上述の合唱長となった。また、ライプツィヒ市の音楽監督にも就任した。ライプツィヒの3年間で、多くの優れた教会音楽の作品をうみだした。

 たとえば、『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』などを制作した。だが、バッハは次第にライプツィヒ市当局と、自身の俸給や職務などをめぐって対立するようになった。ついに両者の関係は決裂した。

『マタイ受難曲』の演奏動画(画像をクリックすると始まります)

 1726年からは、バッハは鍵盤楽器の作曲を再開した。その成果が1731年から1741年に結実していく。たとえば、均律クラヴィーア曲集II』や『18のオルガン・コラール』である。

 ザクセンの時代

 1736年、バッハはザクセン侯の宮廷作曲家となった。引き続き、作曲活動に打ち込んだ。

 1747年には、ポツダム在住の息子を訪ねた。その機会で、プロイセン王フリードリヒ2世の宮廷で指揮とピアノの演奏をした。1750年、病没した。

音楽家としての特徴

 バッハとチェンバロ(ハープシコード)

 まず触れておくべきは、バッハとチェンバロの関係だろう。バッハは作曲家として実に多産だった。楽曲の多くはチェンバロのために書かれた。チェンバロはハープシコードやクラヴサンとも呼ばれる鍵盤楽器である。
 チェンバロは16−18世紀に全盛期を迎えた楽器である。トッカータなどでの独奏楽器や、合奏での通奏低音の楽器、そしてオペラなどの伴奏楽器として使用されていた。
 この時期にはピアノはまだ楽器として未熟であり、あまり普及していなかった。鍵盤楽器といえばチェンバロだったのである。

17世紀のチェンバロ
いわゆる「バッハ・チェンバロ」

 バッハは実際に、没したときには8台以上のチェンバロを所有していた。その中で特に有名なのは、「バッハ・チェンバロ」の名前で知られるものである。ベルリンの楽器博物館が所蔵している。

 1860年、この楽器が初めて世に紹介された。これは18世紀後半からヴォス家に属していた。1890年、ベルリンの王立楽器コレクションはこのチェンバロをヴォス家から譲り受けた。
  しかし、著名な学者ゲオルク・キンスキーは、1924年の『バッハ年譜』の論文で、このチェンバロがバッハのものだとする考えを神話として否定した。だが、1980年代以降の研究では、この楽器がかつてJ.バッハのものだったという考えを復活させてきている。

 バッハの音律やピッチ

 バッハの音律に関する見解は、キャリアの進展とともに変化していった。そのため、、バッハの音律に関する好みを正確に知ることはできない。
 チェンバロのピッチについては、音律と同様に、場所や作品のジャンルによって異なっていた。たとえば、木管楽器の室内楽作品では、通常は低いピッチだった。 ワイマールでは、宮廷礼拝堂の室内楽のピッチはいわゆる 「高いフレンチ・オペラ・ピッチ」(約415Hz)に調律されていた。
 ケーテンでは、通常のピッチはいわゆる 「低音フレンチ・オペラ・ピッチ」( 392Hz)だった。では、ケーテンでのバッハの鍵盤作品は、現代のコンサート・ピッチよりも低い音で演奏されていたのか。バッハが個人的に演奏した場合は自分の好みに合わせて調律できたので、そうだったとは限らないといえるだろう。

 バッハ の演奏方法

 バッハのチェンバロ演奏の仕方については、比較的よく知られている。バッハは生涯に何十人もの弟子を育て上げており、彼らの証言が残っているためである。ただし、バッハがオルガンのリサイタルを数多く行ったのにたいし、チェンバロのリサイタルは一度しか行わなかったようだ。

 バッハの演奏の仕方については、次のように報告されている。バッハは、指の動きが非常に簡単で小さく、ほとんど知覚できないほどで演奏した。 指の第一関節だけが動き、手は最も難しいパッセージでも丸みを帯びた形を保ち、指は鍵盤からほとんど上がらない。

 バッハは両手のすべての指を同じような仕方で強く使えるようにした。その結果、和音やパッセージだけでなく、装飾音も同じように簡単かつ繊細に演奏できた。一つの手だけで、ある指はメロディーを担当し、他の指が装飾音を担当するということもやってのけた。ほかにも、美しいタッチや、連続する音のつながりの明瞭さと正確さ、両手のすべての指の均等な発達と練習も特徴として挙げられる。
 ただし、バッハは親指を多用することで革新的だったという従来の評価は再検討されている。たとえば、バッハの弟子の写本では、次のような指使いが確認できる。
 親指を含むすべての指を均等に使うこと、2つの音で同じ指を連続して頻繁に使うこと、親指の上に指を通すという現代的な工夫があることである。親指の仕様に限定していえば、バッハが親指を使ったのは、多数の臨時記号がある場合か、5音を超えるような音階のパッセージをスムーズに演奏する際の軸指としてであった。

 バッハの音楽指導

 バッハの弟子はほとんどがプロの音楽家を目指していた。そのような弟子たちを生涯にわたって指導していた。その内容として、最初のレッスンは楽器を触る独特の方法を教えることである。

そのために、両手のすべての指を孤立させた練習だけを何カ月も続けさせた。これは少なくとも6ヶ月から12ヶ月は続けるべきと考えられた。もし弟子がこの練習に飽きてきたなら、その指使いの練習ができるような小さな連弾曲を準備した。

 これができるようになったら、さらに大きな楽曲に挑戦させた。バッハが練習用として提示した楽曲の通常の順序は、まずインヴェンション、次に組曲、そして平均律クラヴィーア曲である。

バッハの伴奏

 上述のように、チェンバロは伴奏でもよく利用されていた。バッハの伴奏がいかに巧みなものだったかを語る記録も残っている。彼がチェンバロで伴奏するとき、伴奏パートが即興のものであっても、あたかも事前に制作されていたかのような出来栄えだった。それほどのハーモニーを生み出していた。

 通常、バッハの伴奏は適切な時に上声が輝くように、上声の伴奏として加えられた。伴奏でありながら、そもそも伴奏自体がとても美しいと称賛された。
 教会音楽の作品では、バッハは通奏音の演奏でチェンバロやオルガンを使用した。バッハの伴奏は一群の和音を含んだ特徴的なものもある。これは最大で7つのパートに分かれる和音を含んでおり、「フルボイス」的と表現されることもある。

 『チェンバロ協奏曲ヘ長調(BWV1047)』や『フルート・ソナタ ロ短調(BWV1030)』にその例がみられる。バッハは教会音楽作品では指揮者をしながら、同時に通奏音の演奏も行ったようだ。

『チェンバロ協奏曲ヘ長調(BWV1047)』の演奏動画(クリックすると始まります)

バッハの音楽的特徴とチェンバロ

 バッハの音楽の特徴は総合であると評されている。すなわち、各国の音楽の楽派や様々な歴史的スタイル(スタイル・アンコやスタイル・モダンなど)、ホモフォニーとポリフォニーなどを、同一の作品の中で組み合わせ、融合させるのである。
 この総合は試行錯誤の賜物であった。そのための音楽的な「実験」の道具として、バッハは特にチェンバロを愛用していた。自身の音楽的な想像性と創造性を発揮する道具だった。
 バッハは音楽の限界を広げるために、様々な実験をしていた。調律システム、対位法とハーモニー、演奏者の肉体的限界、楽器の技術的限界などを探っていった。
 そのため、バッハは必ずしもチェンバロだけにこだわっていたわけでもない。バッハは楽器に強い関心をもっていた。そのため、リュート・チェンバロや、当時発展途中だった。ピアノの改良にも積極的に取り組んだ。「ヴィオラ・ポンポーザ」も発明した。
 そのような試行錯誤は当然ながら、楽曲にも反映された。バッハのチェンバロ楽曲としては、『ゴールドベルク変奏曲(BWV988) 』がまさにその賜物である。これはバッハのチェンバロ楽曲として最大のものであり、総合という特徴を見事に示した百科全書的な作品である。チェンバロの最大の作曲家バッハの特に重要なチェンバロ楽曲だと評されている。

『ゴールドベルク変奏曲(BWV988) 』の演奏動画

バッハと縁のある人物

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J. S. バッハの肖像画

バッハの代表曲「G線上のアリア」

バッハの代表曲「主よ、人の望みの喜びよ」

おすすめ参考文献

新井鷗子『バッハ : 音楽に人生を捧げた仕事人』音楽之友社, 2023

吉田秀和『バッハ』河出書房新社, 2023

Mark Kroll(ed.), The Cambridge companion to the harpsichord, Cambridge University Press, 2019

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