ミケランジェロはイタリアの芸術家で建築家(1475ー1564 )。建築や彫刻、絵画や詩などで多才さを発揮し、数多くの傑作を生み出した。ダ・ヴィンチやラファエロとともに、イタリアのルネサンスの巨匠である。古典古代の作品を模倣し、翻案し、最後にキリスト教と融合させて創作した。ヴァチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井のフレスコ画などが有名である。サン・ピエトロ大聖堂の増改築も行った。
ミケランジェロ(Michelangelo)の生涯
ミケランジェロはイタリア中部のカプレーゼで生まれた。まずフィレンツェでギルランダイヨに師事して、絵を学んだ。まもなく、画才を開花させた。そのため、14歳の頃から、ロレンツォ・デ・メディチの庇護を受けた。
ロレンツォは当時のフィレンツェでイタリア・ルネサンスを推進する最大のパトロンだった。古典古代の様々な芸術作品を所有していた。ミケランジェロはそれらを模写しながら、腕を磨いた。また、メディチ家の人文主義者サークルから様々な刺激と知識を得た。
その後、ミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョバンニに師事して、彫刻を学んだ。フィレンツェのルネサンスの文化を存分に吸収した。この時期には、『バッカス』などの古代の神話を題材とする作品などを制作した。完璧な人間像のモデルを古代の作品に求め、吸収し、これ以降も利用することになる。
彫刻家としての活躍:『ピエタ』や『ダビデ』
1496年、ミケランジェロは21歳のとき、ヴェネチアやボローニャを経て、ローマに移った。この若さですでに『ディオニソス』や代表作の『ピエタ』を制作した。
1501年、ミケランジェロはフィレンツェに戻った。フィレンツェ市当局に、『ダビデ』像の制作を依頼された。吸収した古典古代の美術をキリスト教と融合させた。完成した『ダビデ』像はヴェッキオ宮殿の前に設置された。
ヴェッキオ宮殿はフィレンツェ政庁で使用されていた建物である。そのため、ミケランジェロはフィレンツェ政府から自国の主要な芸術家だと認められたことになる。この頃、フレスコ画や絵画も制作した。
1505年、ミケランジェロは再びローマに移った。教皇ユリウス2世の墓碑を制作するよう依頼されたためである。これは当初壮大な墓碑となる計画だった。だが、作業の途中で中断され、ミケランジェロはフィレンツェに呼び戻された。
画家としての活躍:システィナ礼拝堂の天井画
1508年、ミケランジェロは再び教皇ユリウス2世によってローマに呼び戻された。彼の代表作となるシスティナ礼拝堂の天井画を依頼されたためだ。ミケランジェロは幅が13メートルほどで奥行40メートルほどの大きな壁画を描くことになった。この天井画の完成には3年間を要した。そこでは、旧約聖書の創世記の物語がルネサンスの様式で描かれた。
1516年、ミケランジェロはメディチ家出身の教皇レオ10世から、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード装飾を依頼された。この聖堂はメディチ家の菩提寺だった。かくして、建築も行うようになった。
1520年、ミケランジェロはメディチ家から、サン・ロレンツォ聖堂にメディチ家の墓碑を制作するよう依頼された。このメディチ家の墓碑と、上述のユリウス2世の墓碑の制作で忙しい日々を送ることになった。
名声の確立:カヴァリエーリのデッサンのエピソード
1530年代にもなると、ミケランジェロの名声は完全に確立されていた。たとえば、次のような逸話がある。ミケランジェロはカヴァリエーリという男性と知り合い、親しい間柄になった。
この時代、画家が親しい友人に親密さの証としてデッサンをプレゼントするという習慣があった。そのため、カヴァリエーリに対して、古代の神話を利用した男性のヌードのデッサンをプレゼントした。これは彼への親しさとエロティックな男性の友愛を表現したものだった。ミケランジェロはこのデッサンを彼だけに見せるために贈った。
しかし、カヴァリエーリがミケランジェロのデッサンを所有していることはすぐに噂として広まった。ミケランジェロのオリジナル作品はもはや入手困難となっており、貴重だったからである。
そこで、枢機卿などの有力貴族たちがそれを見たいとカヴァリエーリにこぞって要望した。結局、カヴァリエーリはこれをしぶしぶ枢機卿に貸し出した。すると、すぐにこのデッサンはコピーがつくられ、拡散するようになった。ミケランジェロの人気はこれほど高かった。
1536年、ミケランジェロは教皇パウルス3世の依頼で、システィナ礼拝堂の『最後の審判』を描くことになった。これにはおよそ5年間かかった。
建築家としての活躍:サン・ピエトロ大聖堂
晩年には、それまでと比べるとミケランジェロは彫刻や絵画の制作からは遠ざかり、主に建築の仕事に従事した。1547年には、教皇の依頼により、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の造営主任となった。
ミケランジェロがこの建築事業を任されたとき、サン・ピエトロ大聖堂は危険な状態だった。すでに橋脚は目に見えてたわみ、渡り廊下には亀裂が入っていた。ミケランジェロはすぐにそれらの部分から作業に取り掛かった。
だが、早速問題が生じた。建築労働者はミケランジェロの建築者としての能力を信用していなかったのである。サン・ピエトロ大聖堂は複雑な作業を必要としていたので、彼らはすぐにはミケランジェロの指示に従おうとしなかった。
優れた現場監督としての顔
だが、ミケランジェロは現場監督としての手腕を彼らに見せつけることで、彼らを従わせるのに成功した。ミケランジェロはこの複雑な建築プロジェクト全体を細部まで把握し、監督する能力で彼らを驚かせた。
ミケランジェロは高貴な血筋でありながら、職人としての実践的な知識を備えていた。例えば、日雇い労働者と同じように、足場の組み方を知っていた。 良質なロープの価値、材料のコスト、定期的な水の供給の必要性なども同様に熟知していた。
ミケランジェロは建材として、フォロ・ロマーノの古代の建物から柱などを運び、利用した。フォロ・ロマーノは古代ローマの政治的中心部だったエリアである。よって、古代ローマの由緒ある建築物がサン・ピエトロ大聖堂で再利用されたことになる。その石材の運搬などのコストの削除でも、ミケランジェロは才覚を示した。
ほかにも、ミケランジェロは多くの工夫をした。たとえば、時間を知らせる鐘を購入した。ミケランジェロは週の労働時間を6日と定め、労働時間を規則正しくした。石彫職人のために、ノミを研ぎ、道具を修理するための鍛冶場を敷地内に設置した。 最も重要な彫刻家たちのために、敷地内の適切な場所に簡単な屋根付きの小屋を建てた。
建物の装飾
ミケランジェロは現場監督やプロジェクトの責任者をつとめるだけでなく、建物の装飾も担当した。建物の細部の図面や、型紙となる図面を何枚も描いた。 熟練したアシスタントはそれらをもとに、彫刻家たちが使用する原寸大の型紙を作る。
この型紙はトタン板で作られ、彫刻家たちに配られる。このようにして、彫刻家たちがミケランジェロの指示通りに建物を装飾していった。
ミケランジェロはサン・ピエトロ大聖堂のドームの設計を行った。
ほかにも、ファルネーゼ宮殿やカンピドリオ広場の整備なども手掛けた。
ミケランジェロが携わった建築プロジェクトの大部分は彼の存命中には完成しなかった。それでも、ミケランジェロはそれらのプロジェクトの立案や推進、監督などを行った。彼の携わったプロジェクトは実に多かった。そのため、ローマの景観の刷新に大きく貢献した。
ミケランジェロと縁のある人物
ミケランジェロの肖像画
こういう面白い解説もあります
美術評論家として人気の山田五郎さんがYoutube公式チャンネルにてお送りするミケランジェロの解説
ミケランジェロの代表的な作品
『ピエタ』 (1496−1501)
『ダビデ』 (1501ー05)
システィナ礼拝堂の『最後の審判』(1533)
おすすめ参考文献
ローナ・ゴッフェン『ルネサンスのライヴァルたち : ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ、ティツィアーノ』塚本博, 二階堂充訳, 三元社, 2019
William E. Wallace, Michelangelo, God’s architect, Princeton University Press, 2019
Alexander Lee(ed.), Renaissance? : perceptions of continuity and discontinuity in Europe, c.1300-c.1550, Brill, 2010