ウジェーヌ・ドラクロワはフランスの画家(1798ー1863)。19世紀フランスの画壇でロマン主義を主導した意義をもつ。新古典主義のアングルのライバルと目された。パリ万博に出展するほど成功し、絵画以外の仕事も行った。代表作には「民衆を率いる自由の女神」がある。これからみていくように、この作品は1789年のフランス革命に関する作品ではなく、別の革命に関するものである。
ドラクロワの生涯
ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)はパリに生まれた。戸籍上の父は外務大臣をつとめたシャルルである。本当の父は著名な政治家タレーランだともいわれている。
1816年、美術学校で学び始める。同時に、ルーブル美術館でミケランジェロやルーベンス、ヴェネツィア派に影響を受けた。
画才の開花:ロマン主義の代表者へ
1822年、ドラクロワは20代なかばにして、サロンに『ダンテの小舟』を初出展した。これが早くも高い評価を得た。1824年の『キオス島の虐殺』もまた大きな話題となった。この作品はドラクロワの東洋への趣味・関心を反映していた。そもそも、この時代、フランスでは東洋趣味が広く共有されていたのである。
この時期、ドミニク・アングルがフランスに帰国し、『ルイ13世の誓い』を出展した。アングルは新古典主義の代表者として名声を確立していった。ドラクロワはロマン主義の代表者と位置づけられるようになっていた。かくして、アングルのライバルとして認知された。ただし、ドラクロワ自身は古典主義者を自認することもあった。
イギリス旅行での影響
1825年、ドラクロワはイギリスに旅行した。コンスタブルらのイギリスの絵画表現に影響を受けた。また、シェイクスピアやゲーテ、バイロンの文学からも影響を受けた。彼らの文学作品にかんする石版画も制作している。
『民衆を導く自由の女神』
1830年、フランスでは7月革命が起こった。ドラクロワはこの新たな気運に感銘を受けた。そこで、1831年、彼の代表作として知られる『民衆を導く自由の女神』をサロンに出品し、革命の成功を祝した。
東方趣味の深まり
1831年から半年ほど、ドラクロワはフランスの外交使節に随行するなたちで、モロッコやアルジェリア、スペインを訪れた。旅先で様々なスケッチを描いた。現地の強い光と鮮明な色彩などに影響を受けた。帰国後、『アルジェの女たち』(1834)や現地の習俗などについて絵を描いた。

ドラクロワの多彩な側面の開花
この時期から、ドラクロワは通常の絵画以外に、公共の建築物の装飾を依頼されるようになった。たとえば、リュクサンブール宮殿の図書室や、ルーブル美術館のアポロンの間の天井画、当時のパリ市庁舎の平和の間などである。これらの仕事を通して、古典古代や宗教の作品にドラクロワが精通していたこともうかがえる。
いまや名声を確立したドラクロワは、1855年のパリ万博にも専用の部屋を与えられて出展した。アングルも同様の待遇だった(クールベが出展を拒否されて反発したことも有名である)。2年後には、アカデミーの会員になった。
ドラクロワは様々な優れた作家や芸術家と親交をもった。たとえば、作家のスタンダールやバルザック、ユーゴー、詩人のボードレールや作曲家のショパンである。ドラクロワはショパンの絵画も制作している。ボードレールはドラクロワの絵画を「ルネサンスの終わりで近代の始まり」と評している。
絵画としては、宗教画や動物の絵なども描いた。1863年、アトリエで没した。彼の作品は若き印象派の形成に寄与することになる。

ドラクロワの肖像画

ドラクロワと縁のある人物
●ドミニク・アングル:ドラクロワのよきライバルとみなされた画家。新古典主義の巨匠。両者の関係は良好だったようである。
ドラクロワの代表的な作品
『地獄のダンテとウェルギリウス』 (1822)
『キオス島の虐殺』 (1824)
『民衆を導く自由の女神』(1831)
『アルジェの女たち』 (1834)
おすすめ参考文献
ウジェーヌ・ドラクロワ『ドラクロワ色彩の饗宴』高橋明也訳, 二玄社, 1999
岡谷公二『絵画のなかの熱帯 : ドラクロワからゴーギャンへ』平凡社, 2005
Barthélémy Jobert, Delacroix, Princeton University Press, 2018
