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アメリカ独立革命(1775−83)とはなにか

 アメリカ独立革命は、当時イギリスの北米植民地だった13の州が本国のイギリス相手に行った戦争。植民地側が勝利し、パリ条約を経て独立を承認され、アメリカ合衆国が成立した。アメリカ独立戦争とも呼ばれる。この記事では、アメリカ独立革命の背景や流れそして影響を、革命戦争の再現映像などとともに、簡潔に説明する。

アメリカ独立革命(American Revolution)の背景

 18世紀、北米の東海岸で、イギリスの植民地が発展していった。この時代はイギリスがフランス絶対王政と競争し、打ち勝っていく時代でもあった。フランスもまた北米のカナダに植民地をもっていた。

 両国の北米植民地をめぐる利害対立は、ついに、1754−63年のフレンチ・インディアン戦争へと発展した。イギリスがこの戦争で勝利し、北米からフランスを追い出すのに成功した。イギリスはフランス領だったカナダを獲得した。
 イギリスは広大な北米植民地への支配の確立を目指すようになった。それまで、イギリス政府は北米植民地の活動にたいしては比較的自由放任の姿勢だった。統治のための制度整備をあまり進めてこなかった。この新たな制度整備による締付が植民地では不評となっていく。
 他方で、イギリスはフレンチ・インディアン戦争の多額の費用によって財政的に圧迫されるようになっていた。この費用を北米植民地の人々に押し付けた。さらに、上述の新たな制度の整備にかんする軍事費用も植民地の人々に請求することにした。

 当然、北米植民者による反発が予想された。そのため、イギリス政府は植民地への支配を一層強化しようとした。以上のような財政負担と新たな制度的締めつけがアメリカ独立革命の主な原因となっていく。

 課税への反対:印紙法やボストン虐殺事件

 より具体的に、イギリス政府は北米植民地にたいして、課税という仕方で上述の戦費の負担を押し付けようとした。
 たとえば、1765年の印紙法が有名である。これは、北米植民地での証書や新聞などに(有料の)印紙を貼るよう義務付けた法である。この法律はイギリス議会で可決され、北米植民地で適用された。
 植民者は印紙法に強く反発した。主な理由の一つは、当時のイギリス議会には、北米植民者の代表者としての議員が一人も参加していなかったことにある。当時のイギリス議会の制度上、植民地の代表者は議会に組み込まれていなかった。

 イギリス議会がそれまで北米植民地にたいしてこのように直接的に課税することもほとんどなかった。そのため、植民者は「代表なくして課税なし」というスローガンのもとで、印紙法に強く反対した。
 この反対運動が成功し、印紙法は三ヶ月で廃止となった。ちなみに、「代表なくして課税なし」はイギリス憲法の伝統的な法理である。
 その後も、イギリス政府は1767年のタウンゼント法では、ガラスや茶にたいして輸入税を課した。さらに、イギリスの軍隊を北米植民地に常駐させるよう手配した。このような動きが1770年のボストン虐殺事件を生み出した。

 これはタウンゼント法に由来する植民者とイギリス兵の衝突である。このように、植民者とイギリス政府の対立は次第に深まっていった。

 ボストン茶会事件

 1773年、イギリス政府は茶税法を制定した。これは財政難に陥っていたイギリス東インド会社を支援するための措置であり、この会社を茶の販売で優遇した。北米植民地は茶税法に強く反発した。
 その流れで、1773年12月16日、60名ほどのボストン市民は停泊していた東インド会社の船に乗り込み、積み荷の茶箱を大量に海に投げ捨てた。
 イギリス議会はこれに激怒した。報復として、ボストンの海洋貿易の妨害を決定した。さらに、海軍司令官を総督として派遣した。
 これにたいし、1774年、植民地側は大陸会議を開催して、13州が団結してイギリス政府に立ち向かう仕組みを構築した。

 反乱・革命の始まり

 1775年4月、イギリスと北米植民地の対立はついに戦闘に至った。これは当時の視点でいえば、植民地による反乱の始まりである。これは事後的にみれば、アメリカ独立革命の始まりである。大陸会議は総司令官としてジョージ・ワシントンを選んだ。
 反乱当初において重要な点として、北米植民地の多くの人々はイギリスからの独立を望んでいたわけではなかった点である。たしかに、彼らは武器を取り、イギリスにたいして反乱を開始した。

 だが、その狙いは、北米植民地にたいする不当な税や法律をイギリス政府に撤回させることにあった。政府がこれを撤回するならば、彼らは以前のような植民地の生活に戻るつもりだった。では、なにが彼らを独立へと向かわせたのか。

 反乱から独立革命へ

 この反乱を独立革命に転換させる上で重要な役割を担ったのが、1776年1月のトマス・ペインの『コモン・センス』だった。ペインは自由のために、独立を求めてイギリスと戦うよう、同胞の植民者たちに訴えた。

 本書は50万部のベストセラーとなり、大きな影響を与えた。ペインやその他の作家たちはその後もアメリカ独立革命を推進すべく様々な著作を公刊していった。

 アメリカ独立宣言

 同年、大陸会議はアメリカの独立について議論を始めた。トマス・ジェファソンが独立宣言を起草した。同年7月4日、大陸会議が議論の末に、アメリカ独立宣言を採択した。
 その最初の部分は特に有名であり、重要である。まず、この部分の和訳をまず示そう。

 「われわれは以下の真理を自明のことだと考える。すべての人は平等に造られた。彼らは創造主によって、切り離すことのできない一定の権利を与えられている。これらの中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれる。

 これらの権利を守るために、人民の間に政府が設立され、その正当な権力を被治者の同意から得る。いかなる形態の政府であれ、これらの目的を破壊するようなものになるならばいつでも、それを変更あるいは廃止して新しい政府を設立することは人民の権利である」。
 
 すなわち、すべてのひとはみな、生命・自由・幸福追求の権利をもち、誰もこれらの権利を他者から奪うことはできない。政府の目的はこれらの権利を守ることである。政府の権力は人民の同意に基づく。よって、政府がこれらの権利を破壊するならば、人民は現行の政府を廃止して、新しい政府を樹立する権利をもつ。

 この部分はロックの人民主権と革命権の理論に概ね合致すると考えられてきた。

 アメリカ独立宣言のこの続きでは、こう論じられる。人はこのような権利(革命権)をもつにしても、安易にこれを使用しないものだ。政府の不正が耐えられる程度のものならば、耐えるものだ。

 だが、あまりに耐え難いものならば、人民はこの政府を新たな政府に取り替える権利と義務をもつ。現在のイギリス政府はまさにこのような政府である。そうだといえる根拠が列挙される。たとえば、植民者の同意なしに課税した。

 したがって、アメリカの13州はいまやイギリス国王への服従の義務から完全に解放された。そのかわりに、13州はそれぞれが独立した国家となり、国家としての諸権利(戦争と平和に関する権利など)をもつ、と。

 革命戦争の展開

 当初、イギリスの正規軍にたいして、アメリカの民兵や大陸軍は弱く、劣勢が続いた。だが、1778年にフランスが、1779年にスペインがアメリカの支援を開始し、イギリスと戦った。さらに、アメリカを長らく支援していたオランダもイギリスと戦争を開始した。

 ほかにも、各国から様々な人達がアメリカのために義勇兵として参加した。このように、アメリカ独立革命は国際戦争へと発展した。1781年頃には、アメリカの勝利がほぼ固まった。和平交渉の末に、1783年のパリ条約で、アメリカの13州が独立した。

 これら13州(厳密には13国)の連合体がアメリカ合衆国である。初代大統領には、ジョージ・ワシントンが就任した。

 アメリカ独立革命の影響

 アメリカ独立革命はフランス革命や中南米の独立革命などに広範な影響を与えた。ここでは、その影響を具体的に示そう。

 フランス革命への影響としては、理念や思想の影響がしばしば指摘される。ここでは、二種類の影響をみていこう。

フランス革命の実現可能なモデル

 ひとつ目の影響として、アメリカ独立革命はフランスの人民にたいして、人民が暴政に対抗するための革命というモデルを与えた。ただ単にそのような発想を与えたのではない。そのような発想ならば、ロックの『統治二論』ですでに示されていた。
 アメリカ独立革命はさらに、その実現可能なモデルとなったのである。人民は自分たちの根本的な権利を守るために、自分たちで政府を変える権利をもつ。しかも、それを実行して、成功したのである。

 アメリカ独立革命が失敗していれば、そのような革命の発想は単なる夢物語として忘れ去られていたかもしれない。だが、アメリカ独立革命は実際に成功した。
 しかも、フランスの義勇兵がアメリカとともに戦い、その成功に寄与した。ラファイエットのように、彼らの多くは独立革命後に、フランスに戻ってきた。独立革命の成功の体験をフランスに持ち帰った。
 さらに、アメリカ独立革命の理念は独立宣言などのかたちで公刊された。これらの公文書はすぐにフランスでも公刊され、普及していった。フランス革命を直接支援していなかったフランス人にも、その自由や解放の理念が広まっていった。
 以上のように、専制にたいする人民の革命の実現可能なモデルとして、アメリカ独立革命はフランスにおいて機能した。

 独立革命参戦による財政の悪化

 2つ目の影響として、フランスのアメリカ独立革命への参戦による財政悪化がフランス革命の一因となった。どういうことか。
 フランスは17世紀に絶対王政のピークを迎えていた。18世紀、フランス王権はすぐに弱体化したわけではなかった。
 だが、イギリスとの競争や戦争に負け、イギリスに覇権を奪われた。フレンチ・インディアン戦争はその一例である。そのような中で、財政が逼迫してきた。
 1774年、ルイ16世がフランス王に即位した。財政など様々な改革に着手した。翌年、アメリカ独立革命が始まった。フランスのラファイエットなどがアメリカ側の義勇兵として参戦した。ラファイエットらの説得により、ルイは宿敵イギリスを弱体化させるべく、独立革命に参戦した。
 結果として、アメリカは独立した。だが、莫大な戦費がフランス財政をさらに悪化させた。ルイは財政問題などを話し合うために、1789年、三部会の開催を余儀なくされた。これが国民議会となり、フランス革命が始まる。
 このように、フランスのアメリカ独立革命参戦による莫大な戦費がフランス革命の一因となった。

 アメリカ独立革命の問題点:革命の理念と人種差別

 上述のように、アメリカ独立宣言では、「すべての人は平等に造られた(all men are created equal)」と断言している。だが、黒人の奴隷制度は1863年のリンカーン大統領の奴隷廃止宣言まで合法的だった。

 よって、この宣言は白人のみ、特に白人男性のみに当てはまるものでしかなかった。アメリカ独立革命の理念は現実にかんして、このような問題を含んでいたといえる。
 だが他方で、そもそも、「すべての人は平等に造られた」という表現はアメリカ独立革命の時点において、そのような個人的平等を意味するものではなかったという指摘もある。この時点では、この宣言は各個人の権利よりも、集合体としての人民の権利に関わるものとして書き上げられた。

 北米植民者という人民は、イギリスやフランスなどのほかの人民と同様に、生命や自由などの権利をもち、政府を交替させる革命の権利も持つ。この主張が、この宣言のもともとの狙いだった。
 かくして、個人的権利の平等は二次的な問題だったので、建国当時のアメリカ合衆国の憲法では、奴隷制を合法としていた。
 だが、奴隷廃止宣言の頃になって、このアメリカ独立宣言の部分の解釈が変わっていった。個人的平等を意味するものとして解釈されるようになったのである。
 この指摘に基づくならば、奴隷制の存在は当初のアメリカ独立革命や宣言自体の問題とは言い難いのかもしれない。とはいえ、解釈は時代とともに変化しうるものである。結果として、その部分は個人的平等として解釈されるようになった。

 人種差別はやはり独立宣言あるいは独立革命の理念の解決されない問題として今日においても残り続けている。

 アメリカ独立革命の再現映像(画像をクリックすると始まります)

アメリカ独立革命と縁のある人物や事物

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おすすめ参考文献

ハワード・H・ペッカム『アメリカ独立戦争 : 知られざる戦い』松田武訳, 彩流社, 2002

David Andress(ed.) (2019) The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press

Edward G. Gray(ed.), The Oxford handbook of the American Revolution, Oxford University Press, 2015

Barry Alan Shain(ed.), The nature of rights at the American founding and beyond, University of Virginia Press, 2007

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