ボストン茶会事件は1773年にイギリスの北米植民地で起きた事件である。この事件の背景と展開および評価を、この事件の再現映像などともに、簡潔に説明する。これからみていくように、あの同時代の著名な政治家はボストン茶会事件を歴史上の特別な出来事として認識した。
事件の背景
18世紀後半、イギリスは北米植民地への従来の方針を転換した。放任主義から支配の強化へ、課税などの負担の強化へと転換し始めた。1765年の印紙法や1767年のタウンゼント法などがその例である。
だが、北米植民地の人々はイギリス政府のこれらの試みに強く反発した。印紙法を撤回させた。タウンゼント法による新たな関税は、1770年のボストン虐殺事件をへて、茶税以外、すべて廃止させた。
ボストン茶会事件のきっかけ:茶税法
このような中で、1773年、イギリス政府は茶税法を制定した。これは、財政難に陥っていたイギリス東インド会社を支援するための措置だった。茶税法によって、東インド会社が北米植民地への茶の独占的輸出を許可された。
しかも、輸出税を免除された。その結果、東インド会社だけが北米植民地へと茶を輸出し、その正規販売店だけがそこで茶を売ることができるようになった。東インド会社は輸出税を免除されたので、植民地の商人たちとの競争で有利になった。
ボストン茶会事件へ
北米植民地は茶税法に強く反発した。この時期の植民地ではイギリス政府による支配や税の強化に対抗すべく、「自由の子」という組織を形成していた。自由を求める彼らにとって、東インド会社の「独占」は認め難いものだった。
1773年10月、イギリス東インド会社の船が茶を積載して北米植民地に到来した。だが、ニューヨークやフィラデルフィアなどでは、植民者が団結して、茶の荷揚げなどを阻止した。
それまでの不買運動の延長線上の行動ともいえるこれらの行動によって、東インド会社を追い返すのに成功した。
だが、ボストンでは、異なる展開がみられた。ボストンの総督は茶税法を遵守することを決めた。その結果、同年12月16日、三隻の東インド会社の船がボストンに入港した。
これにたいし、60名ほどのボストン市民は先住民インディアンに変装して、停泊していた東インド会社の船に乗り込んだ。積み荷の342箱の茶箱を一気に海に投げ捨てた。1万8千ポンドのほどの巨額の損失となった。
なぜ彼らは先住民インディアンの服装に変装したのか
彼らがそのような「犯行」に及んだ際に、なぜアメリカ先住民インディアンに変装したのか。
理由は一つではない。というのも、一人の人間が全員分のインディアンの服装を用意して、参加者に配って着させたわけではないからだ。
むしろ、参加者の多くがそれぞれインディアンの服装を準備し、顔にインディアンらしいメイクをして、参加したのである。そのため、変装した理由も一つではない。
まず理由としてよく指摘されるのは、自分の身元がばれないようにするためだ。会社の積荷を海に投げ捨てるのは、犯罪である。しかも、あれほど大量の積荷をダメにした。被害額も相当大きかった。逮捕されれば、厳しい処罰が待っている。
そのため、自分が誰だかバレないよう、変装したのである。この理由はよく知られたものである。他にも重要な理由がある。2つあげよう。
ここで、そもそも知っておくべき点がある。インディアンの変装は当時のカーニバルの伝統に基づいていたことだ。中世ヨーロッパのカーニバルの伝統が背景にある。
中世のカーニバルでは、日本の祭りと同様に、日常的な序列関係は無視される。祭りの間は、偉い人とそうでない人の関係が逆転したりする。そのため、カーニバルは権威や国家への組織的な反対のための手段としても利用されてきた。
ボストンでも、カーニバルの伝統が根付いていた。たとえば、プロテスタントのイギリスや北米植民地では、カトリックへの勝利を祝うために、カーニバルが行われた。カトリックの教皇などは悪魔のように忌み嫌われた。ハロウィンでお化けの衣装を着るように、ボストン人は悪魔やカトリックの衣装を着た。
では、ボストン茶会事件ではなぜ変装したのか。それはイギリス本国への組織的な反対のためである。カーニバルの延長線上である。
なぜインディアンの衣装だったのか。それはボストン人にとって、インディアンが悪魔やおばけのような怖い存在だったからだ。
ボストン人は本物のインディアンとの接触が少なかった。だが、インディアンが植民地人を襲撃することを知っていた。よって、彼らを怖い存在とみなした。ボストン茶会事件では、彼らはインディアンの変装において、炭を顔や腕などに塗って、「怖い」存在に扮したのだ。
別の理由でインディアンに変装した人もいた。彼らはこう考える。
ある地域でのルールを決めることができるのは、その住民である。よって、アメリカの土地で通用する法律は、アメリカのネイティブが決める。最もアメリカのネイティブだといえるのは、もちろん、先住民インディアンである。
そこで、ボストン人はインディアンの格好をした。自分たちがイギリス本国人と違うアメリカのネイティブだと示そうとした。
そうすることで、自分たち「アメリカ人」こそ、ボストンの法律を決めることができるのだと示そうとした。よって、海外から送られてきた商品に対する法律を決めるのも、自分たちである、と。「アメリカの先住民」の格好をすることで、ボストン茶会事件での反抗を正当化したのだ。
イギリスと植民地の対立の悪化
イギリス議会はこれに激怒した。報復として、ボストン港封鎖法を制定し、茶の損害賠償をマサチューセッツ州に要求した。さらに、海軍司令官を総督として派遣し、軍隊を駐屯させた。
これにたいし、1774年、植民地側は団結して大陸会議を開催した。そこでは、北米植民地の13州が団結してイギリス政府に立ち向かう仕組みを構築した。
ボストン茶会事件の重要性:その評価
翌年、アメリカ独立革命が起こることになる。よって、一般的には、ボストン茶会事件はその過程として重要とみなされている。
ここでは、それ以外の評価も紹介しよう。
歴史学的な評価としては、この事件がこの時期の出来事のなかでも特に革命的であったと評されている。なぜなら、この行為が意図的であり、軍事的によく組織されていたからである。
さらに、明らかに違法であったにもかかわらず、表向きには、ボストンのタウンミーティングで表明された民意によって正当化されたからである。すなわち、イギリスの法律にたいする力づくの違反行為を、ボストンの植民地共同体の民主的決定は正当だと断じたのである。
同時代人の評価
ジョン・アダムズの評価をみてみよう。アダムズはマサチューセッツの農家出身であり、アメリカ独立革命を戦う。アメリカ独立後に、ワシントン大統領のもとでは副大統領に、その後は第二代大統領となる人物である。それほどの大物政治家だ。
アダムズはボストン茶会事件について、その当日の日記でこう評している。アダムズは、茶箱を投げ捨てたボストン市民を、非常に尊敬すべき愛国者と呼ぶ。彼らのこの試みには崇高さや威厳がみられる、と称賛する。
さらに、この行動は非常に大胆になされ、今後永続するような重要な結果を間違いなくもたらすものである。よって、この事件は歴史の新たな段階を示すものだという。
このように、アダムズのような同時代の人物から、ボストン茶会事件は発生した事典においても特別な出来事として認識されていた。
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ボストン茶会事件の再現映像(画像をクリックすると始まります)
ボストン茶会事件の絵
おすすめ参考文献
ハワード・H・ペッカム『アメリカ独立戦争 : 知られざる戦い』松田武訳, 彩流社, 2002
Edward G. Gray(ed.), The Oxford handbook of the American Revolution, Oxford University Press, 2015
Trevor Burnard, Writing early America : from empire to Revolution, University of Virginia Press, 2023
Farah Peterson, “Show Notes: Native American Costumes and the Unwritten Constitution” https://www.law.virginia.edu/commonlaw/show-notes-native-american-costumes-and-unwritten-constitution