ヨハネス・ブラームスはドイツの音楽家(1833ー1897)。ドイツのロマン派の代表的人物の一人として知られる。交響曲やピアノ曲など数多くの作品をうみだした。シューマン夫妻などと交流をもった。ワーグナーやリストがドイツ音楽の革新を推進するのに対し、ブラームスは古典的音楽の維持を訴えた。だが、これからみていくように、実際には単なる保守派ではなかった。
ブラームスの生涯
ブラームスはドイツのハンブルクで、音楽家の家に生まれた。幼少期、父から音楽を学んだ。早熟であり、10歳にしてピアノ奏者としてデビューした。
作曲家としての活躍
20歳の頃から、ブラームスは優れた音楽家たちと知り合い、成長を遂げていく。たとえば、当時ヴァイオリニストとして名高かったヨアヒムやシューマン夫妻、さらにフランツ・リストなどである。とくに、シューマン夫妻とは親交を深めた。
1857年から、宮廷のピアニストなど、様々な職を転々とした。
1860年、ブラームスは『 ベルリン音楽新聞』に「新ドイツ音楽反対宣言」を投稿した。これは当時のドイツ音楽での新たな潮流に反対するものだった。当時、ワーグナーやフランツ・リストは音楽劇や交響詩のような新しいジャンルを推進し、詩的あるいは哲学的概念を音楽で表現することを重視した。
ブラームスはこのような新たな試みに反対した。ベートーヴェンやシューベルトらの古典的形式を守り、交響曲や四重奏などの抽象的なジャンルを維持しようとした。また、楽器に関する技術革新も受け入れようとしなかった。そのため、ブラームスは長らく保守的な音楽家として理解されてきた。ブラームスらの守旧派とワーグナーらの革新派の論争は国際的に発展していく。
ただし、ブラームスには革新的な側面も指摘されている。たとえば、ワーグナーらの新しい半音階的な音楽語法を峻拒していたわけではなかった。また、音楽資料の編纂によってドイツ音楽に新たな風を送り込んだ。たとえば、ドイツの民族音楽を収集して出版したり、ヘンデルやシューマンなどの全集を出版したことである。その編集方法もまた革新的であり、当時の編集法の問題を回避した優れたものだった。この編集方法は20世紀の音楽家に継承されることになった。
1862年から、ブラームスはウィーンに移った。次第に名声を高め、ワーグナーの対抗馬と目されるようになった。1871年には、プロイセンがフランスで勝利したのを記念して、鉄血宰相ビスマルクに合唱曲を捧げた。1876年、ブラームスの代表曲として知られる交響曲第一番が完成した。その後も、交響曲第二番やバイオリン協奏曲などを制作していった。だが交響詩などは受け入れなかった。
1878年には、ブラームスはボヘミアのドボルザークと知り合い、彼を支援した。
ブラームスの名声はいよいよ高まっていった。ブレスラウ大学から名誉博士号を授与されたり、ドイツ皇帝とオーストリア皇帝からは勲章を授与されたりした。
最晩年には、ガンで没した
ブラームスの肖像画

ブラームスの代表曲「ヴァイオリン協奏曲」(クリックすると始まります)
おすすめ参考文献
西原稔『ブラームスの協奏曲とドイツ・ロマン派の音楽』芸術現代社, 2020
Eva Kolinsky(ed.), The Cambridge Companion to Modern German Culture, Cambridge University Press, 2006
