セネカの『人生の短さについて』は、人生が短すぎて困ると嘆くような人たちを対象とした古典的名著です。
執筆されたのは今から2000年ほど前の古代ローマです。しかし、同じような問題意識は今日もよくみられます。
あなたも同じように、人生が短すぎると感じていますか?このままではいけないと気づいていますか?本書はそういう方々にとって大いに示唆的であり、心に刺さる一冊として広く知られています。
この記事では、本書の特徴を説明します。
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著者はどんな人?
著者のセネカはストア主義の代表的な哲学者として知られています。哲学者という事実はよく知られています。しかし、ネットでの評判をみていると、セネカはいわば象牙の塔に籠もる哲学者であり、世間知らずの哲学者だと誤解されることも多いようです。しかし、これは事実に反します。
『人生の短さについて』が執筆されたのは49年頃だといわれています。それまでのセネカは、たしかに、哲学などを学んでいました。しかし、学者として世間から距離をとったわけではありませんでした。
政治の中枢へ
反対に、セネカは政治の道に進出しました。元老院の議員(国会議員のようなもの)になり、弁舌に長けた政治家として名声を博すほどでした。そのため、当時の皇帝カリグラに嫉妬されました。陰謀をしかけられて、失脚することになったのです。
セネカは死刑に処される寸前までいきました。セネカは健康を害し、余命が少ないとみなされたため、追放の刑ですまされたのです。
コルシカ島で流刑になった頃、セネカは学問に打ち込みました。『慰めについて』を書き、自分自身の現在の境遇に関して母を慰めています。
挫折からの再起へ
その後、49年頃、セネカはローマに呼び戻されます。のちに暴君として有名になるネロの家庭教師に任命されたためです。セネカはネロに教育を行う一方で、再び政治家として最前線に立つことになります。
学識を備えた政治家の経験を背景に
実のところ、『時間の短さについて』はこのような時期に書かれたものだとされています。
よって、セネカは政治や公的な生活に疎いどころか、そのど真ん中で活躍した経験がありました。一度は、皇帝の陰謀などで、追放という大きな挫折を味わいました。そこから、再び政治の道へ、権力の中心へと戻っていき、活躍する。その頃に、本書は書かれたのです。
このように、『人生の短さについて』は象牙の塔にこもる学者によって書かれたのではありません。古代ローマの第一線で活躍した政治家によって、大きな挫折から立ち直りつつある人物によって書かれたものです。
本書はどんな内容?
本書の内容を少し紹介しましょう。
人生は短い。いな、短すぎる。そのような不満が古代ローマでもよく聞かれました。セネカはこれにたいし、適切な仕方で時間を使えば、人生は十分に長く、偉大な事業を成し遂げることもできると反論します。
セネカからすれば、人生が短すぎると思うのは、そう思う人たちの時間の間違った使い方に原因があります。では、どのような使い方が不適切であり、あるいは適切なのか。本書はこの点を主題としています。
セネカの示唆的な主張を少しみてみましょう。
時間という財産
時間というものはいつまでも自分に与えられているものであるかのごとく思い込んでいる人が多いです。だが、時間は明らかに無限ではなく、有限です。
時間は貴重な財産のようなものです。自分のお金という財産を他人に無際限に与えようとする者はいません。しかし、しっかりと考えずに、自分の時間という財産を他者に与えてしまう者は多いのです。
時間という限られた財産の真の価値を知らなければなりません。この財産の有効な使い方を知ることが肝心です。
時間の特徴とは
セネカは時間の特徴をこう説明しています。自分の人生の長さがどのくらいかは誰にもわかりません。常に不確かなものです。未来は不確かであり、現在は短く、過去は確かです。いつ未来がなくなるかわかりません。現在は貴重なものです。
ここで、セネカは夢中になることや没頭することの問題を指摘します。なにかに没頭するような余暇のない人ほど、人生は極めて短いものになります。没頭する対象が仕事だろうと娯楽だろうと同じことです。
そのような人たちは時間の使い方を知りません。常に一つのことから別のことに逃避しています。常に意識が未来に向かい続けています。このように人生を先送りし続けることは、人生に空虚感をもたらしてしまいます。
ほかにも、セネカは「人生が短い」と思う人たちの様々な問題を指摘します。そのうえで、その解決策を示します。その内容は、本書で確認してみましょう。
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参考文献
セネカ『人生の短さについて』中澤 務訳, 光文社, 2017