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ブリュッセルの歴史:貴重な歴史画像をふんだんに使って紹介

 ベルギーの首都ブリュッセルは西欧のほぼ中心に位置している。中世から、地の利を活かして商業都市として発展してきた。ブラバント公国、ブルゴーニュ公国、ハプスブルクのスペインやオーストリア、フランス、オランダ王国をへて、19世紀前半に現在のベルギー王国になった。20世紀には現在のEUの本拠地が置かれたため、ブリュッセルはヨーロッパの首都ともいわれる。ヨーロッパの諸列強に挟まれ、それらの影響を受けながら発展してきたブリュッセルの歴史をみていこう。

ブリュッセルの歴史

 ブリュッセルの形成

 ブリュッセルについて比較的正確なことがわかっているのは、10世紀頃からである。当時、この地はブリュオセッラ(Bruocsella)と呼ばれていた。これは「沼地の集落」という意味である。この集落は低ロレーヌ地方に属していた。

 中世ヨーロッパにおいて、都市の形成や発展には二つの要因が深く関わっていた。一つは、交易である。移動が現在より困難であった時代、集落間を中長距離で移動する人は限られていた。そのような距離を定期的に移動した最たる例は商人である。そのため、交易ルート上には集落や市場が形成され、都市として発展する可能性があった。

 もう一つはキリスト教の巡礼である。日本でも、江戸時代に伊勢神宮への伊勢参りが流行した。伊勢神宮へと至るルート上の町は巡礼客によって賑わった。同様に、中世ヨーロッパでも巡礼地やそのルート上に都市が形成された。

 ブリュッセルは両方の要素をもっていた。交易ルートにかんしては、近隣のブルッヘ(ブルージュ)やヘントとルーヴァン、ケルンなどをつなぐ東西の交易ルートに属した。ライン川やセンヌ川などの交差路として好立地にあったのである。

 巡礼にかんしては、11世紀に聖グドルのレリックがサン・ミシェル教会に移された。これにより、この教会がブリュッセルの主な大聖堂として発展していく。聖グドルはブリュッセル近郊出身の女性であるが、カロリング王朝と関係があると考えられている。

 ブラバント公国の都市としての発展

 ブリュッセルはブラバント公爵の支配下で主要都市の一つとして発展していく。11世紀には最初の城壁が築かれ、多くの塔が建てられた。12世紀にはクーデンベルク城が建設された。18世紀前半に焼失するまで、これは歴代の公爵の居城となる。

 ブリュッセルは織物産業によって発展していった。その製品はパリやヴェネチアなどへ輸出された。ブラバントの主要な都市の一つに発展した。ブラバント公からは、私的財産の保護や住居の不可侵のような特権を獲得した。ギルドの結成も許可された。

 織物の交易により、7つの家系がブリュッセルで莫大な財産を築いた。これらの貴族はギルドで徒弟たちを経済的に管理した。ギルドは商品の品質管理や取引の規制のみならず、問題が起こった場合の裁定も行った。

 さらに、それらの貴族はブリュッセルを政治的に支配しようとした。だが、圧政をしいたため、13世紀から15世紀にかけて、職人たちによる反乱が生じた。民衆と貴族の対立と駆け引きが繰り返された。だが、15世紀前半までは貴族の支配がしかれていた。彼らがブリュッセルの主だった役職を独占していた。

 また、ブリュッセルはブラバント公からより多くの権益と権利を獲得しようと試みた。1356年には、ブラバント公国の後継者問題が起こっていた。このような状況で、新たな公爵から戦争や平和の問題、貨幣の鋳造などには都市の同意が必要になるなどの特権をえた。

 そのような中で、14世紀に、近隣のフランドル伯爵がブラバント公国に攻め込んできた。ブリュッセルも短期間だが占領された。従来の城壁では十分に防衛できなかった。

 解放された後、1357年から第二の城壁建設が始まった。この建設には別の原因もあった。既存の居住エリアが手狭になっていたことである。第一の城壁の外に集落が形成され、発展していった。この地域をも防衛するために、第二の城壁が求められた。この城壁は8キロメートルに及び、五角形の形をしていた。現在の大通りがこれに該当する。

 ブルゴーニュ公国へ

 1430年、ブラバント公国はブルゴーニュ公国と結びついた。 この時代のブルゴーニュ公国は劇場国家と呼ばれるように、華やかな儀礼や祝祭で彩られた。ブリュッセルはその政治と文化の中心地として発展した。ブリュッセル産のタペストリーや木版画などの作品がヨーロッパで人気を博した。

オーリーのタペストリー『最後の審判』

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 1454年に市庁舎が完成した。中世ヨーロッパにおいて、市庁舎は都市の威信を体現する非常に重要な公共建築物だった。ブリュッセルの市庁舎の高い尖塔には、ブリュッセルの守護聖人の大天使ミカエルの像が設置されていた。

 芸術の発展:フランドル派の絵画

 この時期、ブリュッセルはブルゴーニュ公国の文化的中心地の一つとして発展した。とくに、フランドル派の絵画が注目に値する。15世紀前半には、油彩画の開発や改良で有名なファン・エイク兄弟やウェイデンらの第一世代が活躍した。

ウェイデンの『祈る男』

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15世紀後半にはメムリンクらの第二世代が活躍した。

メムリンクの『聖母子』

メムリンクの『聖母子』 利用条件はウェブサイトで確認

彼らは北方ルネサンス(南方のイタリア・ルネサンスと対比されている)の原動力の一つとなった。16世紀には、ブリューゲルらの第三世代がアントワープで活躍することになる。

 ハプスブルク家の支配の始まり

 1477年、ブルゴーニュ公爵のシャルル豪胆公が戦死した。ブリュッセルの民衆はこれを好機と見て、反乱を起こした。市庁舎に押し入り、従来の統治を改善するよう強く求めた。ブルゴーニュ公の娘マリーは自国での民衆の反乱に気圧されて、大特権を彼らに認めた。その後、マリーは神聖ローマ皇帝のマキシミリアン1世と結婚した。かくして、ブリュッセルはハプスブルク家の支配下に置かれた。

マキシミリアン1世とマリー

 16世紀に入り、ブリュッセルは神聖ローマ皇帝カール5世のもとで発展した。カールは近隣のヘント出身だった。スペイン王カルロス1世として即位し、「発見」されて間もないアメリカの植民地を相続した。その後、神聖ローマ皇帝に即位した。低地諸国(現在のベネルクスに相当)の征服を完了させ、それらの地域を支配下においた。

 カールはブリュッセルには国務評議会などの重要な機関を設置し、この地域の主要拠点とした。カールのもとで、ブリュッセルの人口は5万人ほどまで増大した。ブリュッセルと北部のアントワープを運河で結びつけるなどの事業も推進した。

 ハプスブルク家への反乱と服従

 1555年、カール5世が退位した。主な原因は、ドイツでの宗教戦争で敵対するルター派の諸侯に勝利できなかったことである。退位の式典はブリュッセルのクーデンベルク宮殿で行われた。各国の代表者らも出席し、大々的に行われた。

カール5世の退位式

 1556年、息子がスペイン王のフェリペ2世として即位した。フェリペ2世はアメリカ植民地や低地諸国をも相続した。フェリペがブリュッセルなどに到来し、新たな君主としての統治を開始した。1559年、フェリペは低地諸国を去り、スペインに戻った。ブリュッセルが再びこの地域の首都になった。低地諸国では重税が課され、異端審問でプロテスタントなどへの弾圧が強まった。低地諸国の総督と要職は低地諸国以外の人々によって占められるようになった。これらは低地諸国の貴族たちの権益を大いに損ねた。そのため、彼らは総督政府と対立した。

 この流れでエフモント公やホールン公などの貴族は低地諸国での異端審問制度や宗教的弾圧の緩和や廃止を求めた。1566年、プロテスタントがカトリック教会の破壊運動を展開した。これをきっかけに、スペインからアルバ公が派遣された。1567年から、エフモント公とホールン公らの貴族の処刑や財産没収などを行った(血の評議会)。かれらの処刑はグランプラスで行われた。

貴族たちの処刑

それらの結果、1568年、オラニエ公が反乱を開始した。ここから、80年戦争が始まる。

ブリュッセルでの戦闘

 反乱側は勢力拡大に成功していった。ブリュッセルは1578年には反乱側に与した。しかし、スペインからファルネーゼ公が派遣され、スペイン側の巻き返しが図られた。1585年、アントワープやブリュッセルは再びスペインの支配下に置かれた。反乱側は次第に低地諸国の北部を拠点とするようになった。1579年、ブリュッセルやアントワープなど、低地諸国の南部はアラス同盟を結成し、フェリペ2世への服従を誓った。北部はユトレヒト同盟を結成し、彼への敵対を誓った。両者は戦争を続け、1648年にはユトレヒト同盟はオランダ共和国として独立することになる。ブリュッセルなどの地域(現在のベルギーに相当)は18世紀に入るまでスペインの一部に属した。

バロック美術の発展

 17世紀、このスペイン領のネーデルラントでは、文化が多面的に発展した。カトリックの対抗宗教改革がその動力となっていた。オランダはプロテスタントが優位の国になった。スペインやそのネーデルラントはこれに対抗するために、カトリックの信仰や教会を守り再活性化する運動を大々的に推進した。そのために豪華な教会建築が建てられ、素晴らしい宗教画が制作された。今日のベルギーでは、それらの文化遺産を見ることができる。ルーベンスらがその代表であり、バロック美術が華やいだ。また、織物産業が発展した。

17世紀のブリュッセル

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1686年の花火

 1686年、ブリュッセルで祝祭が開かれた。これはオーストリアのハプスブルク家が天敵のオスマン帝国軍にブダベストで勝利したことの記念行事だった。オーストリアとスペインはともにハプスブルク家として友好関係にあった。

 サブロンでは花火が打ち上げられ、観光客で大いに賑わった。周辺の邸宅では豪華な祝宴が催された。この様子は版画で描かれ、他国にも知れ渡った。

1686年の花火

 1695年の大損害

 1695年、ブリュッセルは危機的状況にあった。背景として、17世紀後半、フランスが絶対王政を確立した。ルイ14世が対外的な征服を開始した。スペイン領のネーデルラントは主な侵略の対象となった。1695年8月、ブリュッセルはフランス軍の砲弾の雨にさらされた。特に木造建築は全焼し、5000ほどの建物が破壊された。

1695年のブリュッセルの被害状況

1695年のブリュッセルの被害状況

グランプラスもまた甚大な被害を被った。市庁舎と王の家はファサードだけが残った。多くの公文書が燃えてしまった。

1695年のグランプラス

1695年のグランプラス 利用条件はウェブサイトで確認

 この災厄の後、ブリュッセルは急ピッチで復興をとげた。グランプラスは1697年から再建を開始した。焼失を防ぐために、石造りの建造物の建設が義務付けられた。広場は長方形になり、ギルドなどの素晴らしい建物などが建造された。ブリュッセル全体の復興は5年間ほどで完了した。

 オーストリアの支配下へ

 17世紀末、スペイン国王カルロス2世には、直系の後継者がいなかった。彼は次のスペイン国王として、ルイ14世の孫フィリップを指名した。イギリスなどは、当時の列強国フランスとスペインの結合を恐れた。この結合を阻止するために、1701年からスペイン継承戦争を起こした。これは1713年のユトレヒト条約で終わった。その結果、スペイン領のネーデルラントはオーストリア領になった。

18世紀のブリュッセル

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 当初、ブリュッセルはオーストリア総督の支配に抵抗し、両者は対立を深めた。オーストリアの女帝マリア・テレジアは宥和政策をとったため、ブリュッセルの情勢も安定した。1730年代に、これまで宮廷が置かれていたクーデンベルク宮殿が焼失してしまった。

クーデンベルク宮殿の焼失

クーデンベルク宮殿の焼失

そこで、都市再建計画が実施された。宮殿の跡地には、ロワイヤル広場とブリュッセル公園が造成された。18世紀後半には経済が回復し、金融の中心地として発展した。陶磁器の産業が発展した。1767年には、国勢調査が初めて行われた。18歳以上の成人が対象だった。

 

 しかし、18世紀末には、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が地域の自由と権利を制限する政策をとった。その頃、1789年、フランスではフランス革命が起こった。この革命に触発され、同年10月、オーストリア領のネーデルラントでヨーゼフ2世への反乱が起こった。当初、反乱軍はブリュッセルやヘントなどの主だった都市で勝利した。1790年には独立も宣言した。だが、内部対立が生じた。

 フランスの支配下へ

 その後、フランスが革命の動乱の中で、周辺国への対外戦争を始めた。オーストリア領のネーデルラントを征服し、支配下においた。

18世紀末にグランプラスを占領したフランス軍

18世紀末にグランプラスを占領したフランス軍 利用条件はウェブサイトで確認

その結果、ブリュッセルはダイル県の県庁所在地に格下げされた。ナポレオンがフランス皇帝となり、ヨーロッパを席巻した。だが、1815年、現ベルギーのワーテルローでの戦いで敗北し、完全に失脚した。

 オランダ連合王国へ

 1815年、ウィーン会議により、ヨーロッパではフランス革命以前の政治状況に戻す方針が決定された。しかし、オランダやオーストリア領のネーデルラントはその例外だった。同年、これらの地域が統合され、オランダ連合王国が誕生した。

オランダ王ウィレム1世のブリュッセルでの即位式

オランダ王ウィレム1世のブリュッセルでの即位式 利用条件はウェブサイトで確認

 ブリュッセルとオランダのハーグが首都になった。オランダ国王は隔年でブリュッセルの居城に滞在した。その居城として、王宮が建てられ、現在も残っている。この時期に、ブリュッセルの城壁が取り壊されるなどによって、外観が大きく変わった。

 ベルギーの独立へ

 しかし、かつてのオランダとベルギー地域の溝は深く、宗教政策や経済政策などで対立を深めた。1830年、フランスで7月革命が起こった。ベルギー地域の人々はこれに触発された。

 同年8月末、1700年に設立された由緒あるモネ劇場で、オペラ『ポルティチの啞娘』が上演された。これは17世紀にスペインの支配に立ち向かったナポリ人を題材としていた。17世紀には、上述のように、ベルギもまたスペインの支配下にあった。この歌劇と同じ状況である。劇中、「聖なる祖国愛」や「自由」というフレーズが歌われた。聴衆たちはこれらを聞くと、スペインの次にオランダの支配下に置かれた祖国のために、街に繰り出し、オランダ関連の建物を攻撃し始めた。かくして、ベルギーの独立革命が始まった。

オペラ『ポルティチの啞娘』の上演(左)とベルギー革命(右)を結びつけた1830年の記念コイン。

1830年のベルギー独立革命

1830年のベルギー独立革命 利用条件はウェブサイトで確認

1831年、レオポルト1世が国王として即位した。なお、モネ劇場は現在、国立オペラ座となっている。その後、オランダとの戦争は1833年にまで続き、最終的には1839年にオランダとの講和条約が結ばれた。かくして、ベルギーは正式に独立国となった。この戦いでの犠牲者を追悼するために、殉教者広場が整備された。

19世紀なかばの殉教者広場

 ベルギーの首都としての発展

 ブリュッセルは新生ベルギーの首都となった。政治の中心地としてのみならず、経済の中心地としても発展していった。ベルギーは産業革命の時代を迎え、工業国として発展していった。

 この時期、フランスではナポレオン3世の主導により、パリが大規模な都市計画を実施し、近代化を図った。ブリュッセルはこれに触発され、大規模な都市計画を実施し、都市の近代化を図った。公共交通機関や道路および上下水道の整備、新たな住宅地の開発などを推進し、インフラが近代化した。このようなインフラ整備の前には、たとえば川や運河の氾濫がときどき起きていた。1850年の氾濫は、ブリュッセルの大部分が浸水するほどだった。

19世紀後半のブリュッセル

19世紀後半のブリュッセル 利用条件はウェブサイトで確認

 また、ブリュッセルを中心として、ベルギー全体へと道路や鉄道のネットワークが形成された。1835年、ベルギーで最初の鉄道がブリュッセルとメヘレンの間で開通した。20キロほどの距離で1時間程度かかった。1841年からブリュッセル北駅の建設が始まった。1859年に旧・ブリュッセル南駅が建設された。だが、戦後に取り壊され、現在の南駅に取って代わられる。

19世紀後半のブリュッセル北駅

19世紀後半のブリュッセル北駅 利用条件はウェブサイトで確認

 世紀末に近づくと、ブリュッセルではアール・ヌーヴォー芸術が絵画や工芸、建築などで多面的に開花した。現在、これらはオルタ邸や世紀末美術館でみることができる。

 二つの世界大戦

 第一次世界大戦では、ブリュッセルは1914年8月からドイツによって占領された。この時期のドイツ占領軍への抵抗運動にかんして、ブリュッセル市長のアドルフ・マックスが有名である。1918年11月には占領軍から解放された。

 その後、都市ブリュッセルは拡大を続けた。1932年には16市町村で構成され、正式に二言語を公用語として採用とした。

 第二次世界大戦では、ブリュッセルは1940年5月からドイツ軍に占領された。 抵抗運動は排除された。連合軍の爆撃で大きな被害が出た。1944年には連合軍によって解放された。

ナチスのドイツ支配下のブリュッセルの映像(画像をクリックすると始まります)

 ヨーロッパの中心都市へ

 戦後、1958年、ブリュッセルには欧州共同体の本部が置かれた。これは現在のEU(欧州連合)の前身である。同年、万国博覧会が開催され、経済復興にはずみをつけた。1967年、北大西洋条約機構(NATO)の本部がブリュッセルに移った。その後も、欧州委員会や欧州議会などのEU関連機関がブリュッセルに設置された。そのため、ヨーロッパの首都として発展していった。

 国内では、1989年、ベルギーは連邦国家になった。ブリュッセル首都圏、フランドル地方、ワロン地方の三つの自治州から構成されることになった。

 21世紀のブリュッセルでのテロ

 2015年、パリで同時多発テロが起こった。2016年3月、その実行犯はブリュッセルのモレンベークで逮捕された。彼はこの地域出身と思われている。

 逮捕からまもなく、ブリュッセル空港で爆弾テロが起こった。10名が死亡し、100名ほどが負傷した。1時間後、地下鉄の車内でも爆弾テロが起こった。20名の死者がでた。EU諸機関が置かれた地区から比較的近い場所でのテロ事件だったこともあり、ヨーロッパをいっそう震撼させた。

テロ当時のニュース映像(画像をクリックすると始まります)

ブリュッセル旅行の魅力を紹介

 ブリュッセル観光の魅力を紹介した記事はこちら。ブリュッセルの歴史を理解したうえでの旅行の体験は格別です。

おすすめ参考文献

谷克二, 朝倉利恵『ブリュッセル歴史散歩 : 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP出版センター, 2009
森洋子『図説ベルギー : 美術と歴史の旅』河出書房新社, 2015
今井澄子編『ネーデルラント美術の精華 : ロヒール・ファン・デル・ウェイデンからペーテル・パウル・ルーベンスへ』ありな書房, 2019

Georges-Henri Dumont, Histoire de Bruxelles : biographie d’une capitale des origines à nos jours, Le Cri édition, 2005

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