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ユリウス・カエサル:「皇帝」の始祖

 ユリウス・カエサルは古代ローマの軍人で政治家(紀元前100ー44)。ガリア遠征によってローマの支配圏を拡大した。独裁政治に至る際に、ルビコン川を渡ってローマに攻め入る時の「賽は投げられた」の言が有名。最後は独裁ゆえに親友で共和主義者のブルートゥスらに討たれた。これからみていくように、甥には古代ローマを代表するあの政治家がいる。なお、英語での読み方はジュリアス・シーザーである。

カエサル(Julius Caesar)の生涯

 カエサルはローマで名門の家庭に生まれた。叔母は将軍の妻だった。ロドスで修辞学を学んだ。

 紀元前80年頃、ローマは独裁者スッラが支配していた。カエサルは彼と対立したため、ローマから離れなければならなくなった。小アジアなどでの軍事作戦に参加し、武名をあげた。紀元前78年にスッラが没した後、ローマに戻ってきた。

 政治家としての出世

 30代から政治的キャリアが軌道に乗ってきた。紀元前68年には財務官に任命された。その後も、紀元前65年に按察官、紀元前63年には大神官に、紀元前62年に法務官に、紀元前61年にはヒスパニア総督に任命され、数々の戦いで手柄をあげた。かくして、カエサルは頭角を現していった。

 第一次三頭政治

 紀元前60年、カエサルは当時のライバルだったポンペイウスとクラッススとともに、いわゆる第一次三頭政治を開始した。紀元前59年には、彼らの支持のもとで、カエサルは執政官に就任した。人民に国有地を配分するなどした。軍事的成功もあいまって、カエサルはさらに人気を高めていった。

 ガリア戦争

 紀元前58年より、カエサルはガリア地方の平定を開始した。ガリア人は手強かったので、反乱が生じるなど、スムーズではなかった。それでも、ゲルマン人など、ガリアの諸部族を支配下におさめるのに成功した。現在のイギリスにまで遠征を行った。

 カエサルはガリア戦争の進捗にかんして元老院に報告書を作成した。これを後に直したものが『ガリア戦記』である。本書はガリア人の習俗や諸制度を知るための重要な史料として認知されている。だが、実際の戦争の展開については、カエサルは自身の活躍を強調するよう書いていた。

 ガリア征服によって、ローマの財政が強化された。さらに、カエサル自身もさらなる名声をえて、豊かな財力や軍隊をえた。

 三頭政治の崩壊

 その頃、第一次三頭政治に次第に亀裂が入っていた。クラッススは対外戦争で没した。カエサルの娘とポンペイウスの政略結婚も終りを迎えた。その結果、カエサルとポンペイウスが対立するようになった。

ルビコン川で「賽は投げられた」

 ポンペイウス派はカエサルの強大な軍隊を解散させようとするなど、両者の対立は深まっていった。そのような中で、紀元前49年、元老院は非常事態宣言を決議した。そこで、ついに、カエサルはルビコン川を越えて、ローマに進軍した。「賽は投げられた」はこのときの言葉である。カエサルはローマ進軍で結果がどちらに転ぶのかについて明確な考えをもたないまま、ローマ進軍を開始したのだった。

ルビコン川を越えるカエサル

ルビコン川を越えるカエサル 利用条件はウェブサイトで確認

 カエサルの軍隊はポンペイウス軍に勝利した。ポンペイウスはギリシャに逃亡した。だが、カエサルの追撃によって、エジプトに逃れた。カエサルはエジプトへさらに追撃に向かった。その頃、エジプトは政治的に混乱していた。カエサルはその混乱を終わらせようとし、クレオパトラ7世を妻に迎えた。その後も、アフリカ北部やヒスパニアへとポンペイウス派を追撃し、ついに撲滅した。

 カエサルの独裁

 
 紀元前46年、カエサルは独裁官に就任した。これは緊急時の危機を乗り越えるための一時的な官職として設置されていた。だが、カエサルはその任期を10年間に引きのばした。これはローマの共和政の伝統に反するものだった。さらに、紀元前44年には、「終身独裁官」となった。これが暗殺前のカエサル(英語ではジュリアス・シーザー)の称号だった。ローマの王になろうとしたかのようだった。

 カエサル(ジュリアス・シーザー)の最後の称号はなんであったか:その称号がローマ史にもたらした大きな転換とはなにか

 以上のように、カエサルは終身独裁官に任命された。この称号あるいは役職は古代ローマの歴史において、大きな意味をもつものである。なぜか。それを知るには、そもそも独裁官の役割を知る必要がある。
 古代ローマでは、平時において、独裁官はいなかった。平時においては護民官などの一般的な統治者たちが政治を行っていた。重要な点として、統治者たちは法律によって縛られていた。現在も憲法や様々な法律によって、統治者(首相や大臣など)は縛られている。古代ローマでも、この法治主義が実践されていた。
 しかし、法律は万能ではない。不測の事態が怒った場合に、既存の法律ではうまく対処できないことがある。特に、国家の危機とも言えるような不測な事態がおこった場合に、どうすべきか。古代ローマでは、そのような特別な危機的状況を乗り越えるために、独裁官という役職を設立した。
 独裁官は一般的な統治者たちと異なり、様々な法律によって縛られない。既存の法律がうまく機能しないので、そのかわりに設立された役職だからである。独裁官は法律によってではなく、自らの命令によって、この難局を乗り越えることが期待される。
 問題は、独裁官に権力が集中しすぎることである。そもそも法律が統治者を縛るのは、統治者が私利私欲にはしるなどして、暴走する恐れが当然あるからだ。独裁官はその法律の縛りがほとんどない。だから暴走する恐れがある。
 ローマ人は国が不測の事態で滅ぶリスクと独裁官の暴走というリスクを天秤にかけた。国が滅ぶよりは独裁官が暴走するほうがマシだと判断した。そのため、独裁官という役職をあらかじめ(すなわち、不測の事態の前に)設立した。
 とはいえ、独裁官の暴走を予防する仕組みもつくった。それは独裁官の任期をあらかじめ設定することだ。
 たとえば、独裁官は1年間の任期しか与えられないとすれば、独裁官は1年間で暴走したとしても、1年後には必ずその罪で罰せられることになる。そのため、独裁官は好き勝手するのをそれなりに自制することになると期待される。あるいは、1年間でできることには限界があるので、暴走の被害もその程度ですむようになる。1年後には、従来の古代ローマの制度に戻すことができる。
 独裁官の任期はこのような暴走への歯止めであり、古代ローマの法治主義を維持する最後の砦ともいうべきものだった。カエサルが行ったのは、この任期をなくすことだった。
 「終身独裁官」という称号は、カエサルが死ぬ最後の日まで独裁官だということを意味する。死ぬ日まで独裁官をやめなくてよいなら、カエサルを誰が合法的に罰することができるのか。
 このように、カエサルは古代ローマの伝統的な立憲主義・法治主義の制度に大きな打撃を加えた。カエサル以後、ローマは共和制から帝制に移行することになる。カエサル自身の名前から、ヨーロッパでの「皇帝」という単語が誕生することになる。終身独裁官はその大きな転機となった。

カエサルの死

 カエサルは実質的に独裁者となった。国内や国外で、毀誉褒貶の様々な政策を実行した。だが、ローマの共和制の伝統を守ろうとする人々によって、紀元前44年、カエサルは元老院で暗殺された。

カエサルの暗殺 利用条件はウェブサイトで確認
カエサルの暗殺

 カエサルと縁のある人物

アウグストゥス:カエサルの甥。カエサル以来のローマの内乱に終止符を打ち、古代ローマに黄金時代をもたらす。

クラッスス:カエサルとともに第一次三頭政治を行った人物。ローマで権勢をふるった大物政治家。

カエサルの肖像画

ユリウス・カエサル 利用条件はウェブサイトで確認

ガリア戦争

カエサルのガリア戦争 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

カエサル『ガリア戦記』高橋宏幸訳, 岩波書店, 2015

小池和子『カエサル』岩波書店, 2020

Robert Morstein-Marx, Julius Caesar and the Roman people, Cambridge University Press, 2023

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