コンスタンティヌス1世は古代ローマの皇帝(280年頃ー337年)。ローマ帝国でのキリスト教にたいする態度を迫害から公認へと大きく転換させようとしたことで知られる。313 年のミラノ勅令でキリスト教の迫害を禁止しただけでなく、教会建設などを促進したり、公会議を召集して教義面での問題を解決しようとしたりした。以下では、コンスタンティヌスの寄進状や後のビザンツ帝国での彼の影響もみていく。
コンスタンティヌス1世(Constantinus I)の生涯
コンスタンティヌスは現在のセルビアのナイススで、貴族の家庭に生まれた。父はローマ帝国の西側の皇帝になった。コンスタンティヌス1世である。父コンスタンティヌス1世と本記事のコンスタンティヌス1世は別人であり、本記事のコンスタンティヌス1世は後に大帝と称された人物である。母はヘレナであり、キリスト教の歴史上で重要な人物である。
305年、父が西側の皇帝コンスタンティヌス1世に即位した。だが、306年に没した。そこで、軍隊は後の大帝コンスタンティヌスをその後継者として正帝だと宣言した。だが、東側の皇帝ガレリウスはコンスタンティヌスを副帝とし、西側の正帝として認めなかった。むしろ、308年には、リキニウスを正帝に選んだ。そのため、310年、コンスタンティヌスはついに自ら正帝だと宣言した。
皇帝への即位
311年、皇帝ガレリウスが没した。その結果、ローマ帝国では内乱が勃発した。コンスタンティヌスはリキニウスらと協力して、マクセンティウスらを滅ぼした。
コンスタンティヌスの逸話:キリスト教の皇帝になった理由?
コンスタンティヌスはマクセンティウスと激しい戦いを繰り広げていた時、キリスト教の印が空に現れ、その印で征服せよという幻をみたといわれている。このような不可思議な体験をしたのかは不明である。だが、コンスタンティヌスが上述のような戦いを勝ち抜くために、キリスト教の神に頼るようになったのはほぼ間違いない。
ローマの凱旋門
その後、コンスタンティヌスはローマの占領に成功し、西側の正帝として即位した。その際に、ローマにコンスタンティヌスの栄光を称えた凱旋門が建造された。同時に建てられた像には、コンスタンティヌスが十字架を掲げた姿が描かれた。
コンスタンティヌスがローマを暴君から救い出したと記されていた。まさしく、キリスト教の十字架という印でローマを征服したという構図である。
ミラノ勅令へ:その宗教政策
長らく、ローマ帝国では異教としてのキリスト教への迫害が続いていた。コンスタンティヌスはリキニウスとミラノで会談を行い、迫害をやめるよう説得した。その結果、313年にキリスト教の公認を認めるミラノ勅令を発した。その勅令では、キリスト教徒への寛容が取り決められた。さらに、迫害中に没収された個人や団体の財産が回復された。
さらに、コンスタンティヌスは独自のキリスト教優遇政策を展開していった。そこから、キリスト教の活動のあり方が変わっていく。たとえば、大きな教会のもとで堂々と集まり、宗教儀式を行えることができるようになった。また、普段の暦にも変更が加えられた。
それまで古代ローマの慣習では、日曜日は休日でなかった。これにたいし、日曜日はキリスト教では休日であり、礼拝の曜日だった。キリストが復活した曜日と考えられたためである。そこで、日曜日をローマ帝国において休日とすることが定められた。
唯一の皇帝へ
だが、リキニウスは帝国の東側の内乱を鎮圧した後、キリスト教への迫害を再開した。そのため、西側のコンスタンティヌスとの対立が深まり、武力衝突に発展していく。324年、コンスタンティヌスがついにリキニウスを滅ぼした。ローマ帝国を再統一し、その全体の単独の皇帝となった。
キリスト教の皇帝
キリスト教会はコンスタンティヌスの後ろ盾のもとで発展しようと試みた。そこで、コンスタンティヌスの帝権を正当化する動きをみせた。同時に、教会の問題を解決するために、コンスタンティヌスの助力を得ようとした。
325年、コンスタンティヌスはキリスト教の内部で生じていた諸問題を解決するため、ニケア公会議を開催した。そこでは、キリストを神とするアタナシウス派が正統と認められた。
他方で、アリウス派はキリストの神性を否定したという理由で、異端として断罪された。このような活動により、コンスタンティヌスはキリスト教の皇帝というイメージが形成されていった。
テオドシウス帝との違い
ただし、コンスタンティヌス自身がどれほどキリスト教の教義を理解していたかは意見が割れている。また、コンスタンティヌスは古代ローマの古来の宗教を廃止したわけではなく、その存続を認めていた。
この点で、のちのテオドシウス帝とは異なっていた。というのも、テオドシウス帝は381年のテサロニケ勅令においてキリスト教を公認するだけでなく、391年にはローマの宗教を禁止したためである。
首都コンスタンティノープルの建設
当時、帝国はローマのある西側では民族大移動などの影響で混乱もあり、東側のほうが発展に向かっていた。そこで、コンスタンティヌスは東側に本拠地を移すことにした。
330年、自身の名前にちなんだコンスタンティノープルを建設し、ローマ帝国の首都とした。元老院を置くなどして、首都として整備していった。全体的には専制的な支配体制を構築した。
337年に病で亡くなった。その死の直前に、コンスタンティヌス自身もキリスト教徒としておそらくアリウス派の司教から洗礼を受けたといわれている。
周知の通り、キリスト教は西欧やビザンツ帝国で根付き、広範な影響力をもつようになる。では、コンスタンティヌス帝は後代の人々にどのような影響をもつようになったのか。。
コンスタンティヌスの寄進状とは
後代への影響として重要なものとして、「コンスタンティヌスの寄進状」が挙げられる。上述のように、コンスタンティヌスはコンスタンティノープルを帝国の新たな首都として建設し、本拠地をそこを移した。
この首都移転の際に、コンスタンティヌスがそれまでの帝国の首都ローマを皇帝としてローマ教皇に寄進した。コンスタンティヌスの寄進状はこのような寄進の事実があったと称する文書である。
だが、実際にはこのような寄進の事実はなかった。また、この寄進状の信憑性は中世の時点でも皇帝や王などによって疑われていた。しかし、ローマ教皇庁は自身の世俗的権威を強化するために、この寄進状を中世において利用しようとした(ルネサンスの時期に、教皇は教皇国という世俗国家の世俗君主も兼ねていた)。
そのため、ダンテのように、この文書は教皇の世俗的野心を示すものとして、教皇への敵対者によって批判を受けていた。
ようやく15世紀になって、ヴァッラがこの寄進状を偽書であると批判した。それ以降、この寄進状がすぐさま偽書として認知されたわけではなかった。教皇国は当時の国際政治の主要なアクターの一つであり、有敵関係が頻繁に変わったのも一因だろう。それでも、この文書は次第に偽書として広く認知されていった。
ビザンツ帝国でのコンスタンティヌスの受容
6世紀頃の年代記では、コンスタンティヌスは最初のキリスト教皇帝とコンスタンティノープルの創始者として描かれた。神の摂理計画のもとでコンスタンティヌスという皇帝がキリスト教に改宗することで、キリスト教が勝利したという物語が描かれた。
その際に、コンスタンティヌスの洗礼にかんする新たな神話がうまれた。上述のように、コンスタンティヌスは死に際にアリウス派のもとで洗礼を受けた。だが、この年代記では、コンスタンティヌスがアリウス派という異端ではなく、正統派の教皇シルヴェステルから人生の初期に洗礼を受けたと記された。ただし、この神話はすぐに受け入れられたわけではなかった。
9世紀頃には、教会内部で異端との対決が激しくなってきた。そのため、最初のキリスト教皇帝コンスタンティヌス帝はぜひとも異端派ではなく正統派であるべきと考えられた。そこで、この神話が受け入れる土壌が形成されていった。アリウス派によるコンスタンティヌスの洗礼はアリウス派が捏造した話だという反論もみられた。
さらに、コンスタンティヌスの正統性を裏付けるような逸話がうまれていった。たとえば、癩病で苦しむコンスタンティヌスが聖ペトロと聖パウロを幻視し、聖シルヴェステルを探し出せば肉体と霊の健康を得られると教えられ、実際に探し出し、シルヴェルテルから洗礼を受けたという逸話もうまれた。
同時に、シルヴェステルの神話化も進んだ。たとえば、ドラゴン殺しや、大勢の異教徒を宗論で打ち破りキリスト教に改宗させたという逸話が生まれた。
12世紀には、それらの逸話を利用したコンスタンティヌス像が形成された。その際に、コンスタンティヌスの役割は第二のエルサレムとしてのコンスタンティノープル建設で特に重要視された。
ユダヤ人が旧約聖書で神の民に選ばれエルサレムを建国したにもかかわらず、神への不従順を繰り返し、神に罰せられた。神はユダヤ人を見捨てて、正統派キリスト教徒を選ぶようになった。
神の摂理のもとで、皇帝コンスタンティヌスがシルヴェステルの洗礼を受けて、正統派キリスト教徒に改宗した。最初のキリスト教皇帝として、首都コンスタンティノープルを第二のエルサレムとして創建した。このように、コンスタンティヌスはビザンツ帝国の神の摂理の大いなる物語の中心的人物として描かれた。
コンスタンティヌス帝と縁のある人物
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コンスタンティヌス大帝の肖像画
おすすめ参考文献
ベルトラン・ランソン『コンスタンティヌス : その生涯と治世』大清水裕訳, 白水社, 2012
Amelia Brown(ed.), Byzantine culture in translation, Brill, 2017
Charles Matson Odahl, Constantine and the Christian empire, Routledge, 2013