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コジモ・デ・メディチ:フィレンツェの黄金時代

 コジモ・デ・メディチは15世紀イタリアの政治家で銀行家(1389ー1464)。コジモ・イル・ヴェッキオとも呼ばれた。15世紀前半のカトリック教会のコンスタンツ公会議にメディチ銀行の代表者として加わり、そこからローマ教皇庁の財政を担当するようになり、メディチ銀行とメディチ家の繁栄の基礎を築いた。さらに、フィレンツェの市政を掌握して、都市の発展とルネサンスの開花に大きく貢献した。

コジモ・デ・メディチ(Cosimo de’ Medici)の生涯

 コジモはイタリアのフィレンツェで商人の家庭に生まれた。父はジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチである。今や有名なメディチ家の繁栄はこの父から始まった。
 父ジョバンニは銀行家として起業した。特に、ローマ教皇庁との商取引を通じて、メディチ銀行をイタリアの代表的な銀行の一つにまで発展させた。

 銀行家としての成功

 コジモは父ジョバンニの銀行業や両替業を受け継ぎ、さらに発展させた。引き続き、教皇庁との取引はその発展に大きな役割を果たした。
 さらに、コジモはイギリスやフランスなど国外に多くの支店を設立していった。かくして、メディチ銀行はヨーロッパでも最たる銀行の一つとなり、巨万の富を築いた。

 フィレンツェの統治者へ

 メディチ家はこのように銀行家として経済力を蓄えていった。これを背景に、フィレンツェの政界でも新興勢力として躍進した。その結果、フィレンツェの既存の有力者たちはコジモに脅威を感じるようになった。

 そこで、1433年、その代表格たるアルビッツィ家はコジモに計略をしかけた。コジモは逮捕され、追放刑に処され、ヴェネツィアに移った。

 それでも、1434年、フィレンツェの政情が変化した。コジモはフィレンツェ市民の支持をえて、フィレンツェにもどってきた。
 その後は巧みな政略で権力地盤を確固たるものにしていった。上述の計略によって自身を追放した旧支配層の貴族たちを追放するのに成功した。
 1435年には、コジモはゴンファロニエーレという要職に選ばれ、フィレンツェの実権を握るようになった。さらに、メディチ党派がフィレンツェの公職をほぼ独占していき、市政を掌握した。

 本来ならば、ギルドがその対抗勢力になりえたはずだった。だが、メディチ銀行が繁栄の絶頂にあったため、ギルドのの権限はむしろ著しく後退した。

 1453年、当方のビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされた。すぐ後で述べるように、ビザンツ帝国はイタリアなどに救援を求めていた。そのビザンツ帝国がついに滅ぼされてしまった。
 オスマン帝国の脅威はイタリアなどでいよいよ高まった。イタリア半島はこの時期に対内的に不安定だったが、コジモはこの脅威を背景に、イタリアに平和をもたらした。

 イタリア・ルネサンスへの貢献

 コジモは学芸の愛好者であり、保護者としても名を馳せた。すなわち、ヨーロッパ有数のパトロンとしても有名である。

フィレンツェのルネサンス

 まず、コジモがその発展に貢献したフィレンツェの壮麗な都市風景をみてみよう。

https://youtube.com/watch?v=DfW-Tn231Sk%3Frel%3D0

 フィレンツェのルネサンスのきっかけは1431年からフィレンツェで開催されたカトリック教会の公会議だった。1439年、この公会議に東方のビザンツ帝国から皇帝や神学者などが参加した。
 というのも、当時はビザンツ帝国がオスマン帝国の攻撃によって危機的状況にあったので、西欧諸国やカトリック教会に支援を求めていたためである。

 彼らの到来により、フィレンツェではギリシャ文化への関心が一挙に高まった。イタリアのルネサンスは、1453年にビザンツ帝国がついにオスマン帝国に滅ぼされ、多くの学者が古典古代の書物を持参してイタリアに移住することで、さらに発展した。

パトロンとしてのコジモ

 コジモはパトロンとして莫大な資産を用いて、フィレンツェの教会などの公共建築物の再建や建設に力を入れた。たとえば、サン・ロレンツォ聖堂である。コジモが資金を提供することで、主礼拝堂が完成した。

 そのため、この聖堂はメディチ家の家族聖堂になった。他にも、ドミニコ会やフランシスコ会の修道院の管理権も得た。そこでは、建物の再建や祭服や調度品などの費用を拠出した。フラ・アンジェリコがそこで優れた作品を制作した。
 なぜコジモは多くの公共建築物のパトロンとしてふるまったのか。それは、当時のフィレンツェにおいては、公共の建築や慈善行為そして税金への支出はすべて富裕層に課された義務とみなされていたからだった。

 富裕層は自身の富を使って公共建築物を再建あるいは建設することで、祖国(当時のフィレンツェは都市国家だった)や自身の家柄の名誉を世界に轟かせることができる。このような公への奉仕であり、後述のように、ある種の贖罪の行為でもあった。

 コジモのパトロンとしての華麗なる活躍は賛否を引き起こした。その規模などに賛嘆の声が漏れた。富と地位に応じて金を適切に使うのはよいともいわれた。
 だが、その費用が大きすぎると嫉妬をうむことや、教会の装飾がかびすぎて、世俗的栄光のために利用されている、といった批判もなされた。

学術への貢献:プラトン・アカデミーの学芸サークル

 コジモはイタリア・ルネサンスには学術の面でも貢献した。ヨーロッパ中から古典古代の書物などを収集し、メディチ家の図書館に所蔵した。これを優秀な学者たちに利用させたのである。
 また、所有する邸宅を彼らの活動の場として提供した。たとえば、哲学者フィチーノがプラトン研究やプラトン・アカデミーを主宰できたのも彼のおかげだった。
 なお、プラトン・アカデミーは正規の学校のようななんらかの体系的な教育機関ではなく、学芸サークルのようなものだった。このような大規模な文芸保護・育成がイタリア・ルネサンスの発展に大きく寄与した。
 この方針はコジモの後継者にも引き継がれた。同時に、ピーコ・デラ・ミランドラのように、優れた学者がメディチ家の家庭教師として選ばれることにもなった。

 コジモは1464年に没した。フィレンツェの事実上の統治者となり、フィレンツェの文化面でも大きな貢献をした。そのため、「祖国の父」の称号をフィレンツェ市当局から贈られた。

コジモ・デ・メディチと縁のある都市:フィレンツェ

 上述のように、コジモは本業で稼いだ潤沢な資金を用いて、祖国フィレンツェをイタリア・ルネサンスの華麗な都市に仕立てていった。

 当時のキリスト教の倫理観では、現世においてお金を稼ぐことは魂の救済にとって妨げになると考えられがちだった。特に、高利貸しは古代から批判の的になっていたが、中世においても同様だった。

 とはいえ、ルネサンスの時代には、イタリア諸都市で金融業が盛んになった。そこで、金融で一財をなした人々は、教会や公共の建物などの新築や再建などに私財を投じた。
 その一つの理由としては、莫大なお金を金融業で稼いだことへの後ろめたさがあった。死後に魂が天国に行けるよう、財産をそれらの建築に捧げた。

 その結果、フィレンツェにも壮麗な教会などの建物が生みだされた。それらが時を超えて都市の遺産となり、今日においても世界中の人々を惹き寄せている。そういった意味では、コジモは現在もフィレンツェの父といえるだろう。

現在のフィレンツェの動画(画像をクリックすると始まります)

コジモと縁のある人物

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コジモ・デ・メディチの肖像画

コジモ・デ・メディチ ヴェッキオ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

西藤洋『神からの借財人コジモ・デ・メディチ : 十五世紀フィレンツェにおける一事業家の成功と罪』法政大学出版局, 2015

松本典昭『パトロンたちのルネサンス : フィレンツェ美術の舞台裏 』日本放送出版協会, 2007

Dale Kent, Cosimo de’ Medici and the Florentine Renaissance : the patron’s oeuvre, Yale University Press, 2000

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