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オリバー・クロムウェル:イギリスの激動の時代をどう乗り切ったのか

 オリバー・クロムウェルは17世紀イギリスの政治家(1599ー1658)。清教徒革命では議会側の軍隊を鍛え上げ、指揮して、チャールズ1世の軍を打ち倒すのに貢献した。共和国時代には、初代の護国卿になり、独裁政権を運営した。当初は冴えない政治家だったクロムウェルはいかにして護国卿にまで登りつめたのか。

クロムウェル(Oliver Cromwell)の生涯

 クロムウェルはイギリスのハンティンドン地方でジェントリの家庭に生まれた。祖先には、トマス・クロムウェルがいる。クロムウェルは地元のグラマー・スクールに通った。その後、ケンブリッジ大学で学んだ。

 1617年、父が没した。そのため、クロムウェルは所領に戻って、所領の経営に従事した。1620年には結婚した。

 政治家としてのキャリア

 1628年、クロムウェルは下院の議員に選出された。英国教会の主教制度を批判するなどした。

 イギリス王チャールズ1世と議会勢力の対立は次第に深まっていった。チャールズは長らく議会を開かずに、寵臣を利用して政治を行った。チャールズはカトリックに近い宗教政策をとりはじめた。イギリスはヘンリ8世の時代からプロテスタントの英国教会を採用していた。そのため、チャールズのカトリック政策はイギリスをカトリックに引き戻すのではないかと恐れられた。

 チャールズはスコットランドでの宗教政策をきっかけに、スコットランドとの戦争を開始した。1640年、イギリス王チャールズ1世はその戦費を得るために、11年ぶりに議会を召集した。だが、チャールズの統治にたいする不満が噴出したため、チャールズは3ヶ月ほどで議会を閉幕した(短期議会)。

 チャールズはスコットランドとの戦争に敗北し、賠償金を支払うことになった。この費用を得るために、チャールズは同年に再び議会を召集せざるをえなくなった。この議会は10年以上開かれることになるため、長期議会と呼ばれる。

 この長期議会において、ピューリタン革命が進展していった。クロムウェルは一連の短期議会と長期議会に議員として参加した。だが、主導的地位にあったとはいえなかった。

 ピューリタン革命

 1642年、ついに王と議会の戦闘が始まった。クロムウェルは議会軍のリーダーの一人として戦った。だが、当初、議会軍は兵士として素人と大差がなかった。クロムウェルは兵士には適切な人材が選ばれ、厳格な規律を伴う十分な訓練が必要だと訴えた。彼自身がこの軍隊の改革を実践していった。このようにして頭角を現していった。

軍事的活躍

 クロムウェルは議会のニュー・モデル軍を率いて王党軍と戦い、勝利を重ねていった。それらの功績により、いまや議会側の主な指導者の一人となった。

 内戦がひとまず落ち着くと、議会は議会軍を解散させようとした。議会軍は、自分たちの功績が十分に認められていないと思い、不満が高まっていた。クロムウェルは議会軍をコントロールするようつとめた。

 同時に、王に反対する勢力の中でも意見の違いが明らかになってきた。たとえば、水平派は急進的な民主的考えを表明していた。また、長老派はカルヴァン主義的な教会の制度を支持した。クロムウェルは水平派と長老派に反対した。

 1648年、チャールズ1世は形勢を逆転させるために、スコットランドと密約を結んで、再び議会軍と戦闘を開始した。クロムウェルは王党軍を再び撃退した。1649年、ついにチャールズ1世が処刑された。イギリスは共和政を宣言した。

 だが、すぐにイギリスに平穏が戻ったわけではなかった。1650年、クロムウェルはアイルランドでの反乱に対処した。さらに、1651年、スコットランド軍の侵攻を防いだ。かくして、ようやくイギリスの内戦は終わった。イギリスは王政から共和政となった。

 対外政策

 1652年、アイルランド土地処分法と償還法で、アイルランド反乱の参加者やカトリック地主の土地が大量に没収された。これらはロンドン商人やプロテスタントのもとに移された。このようにアイルランドを植民地化した。

 1652年、イギリスはオランダと海洋貿易の覇権争いのために、また、チャールズ1世の残党による新たな反乱を防止するために、第一次英蘭戦争を開始した。1654年、ウェンストミンスター条約の締結により、戦争はイギリスの勝利で終わった。

 護国卿へ

 国内政治はなかなか安定しなかった。1653年、議会はクロムウェルらによって解散された。選挙ではなく軍と教会の推薦で議員を選出する指名議会が開会された。そこでは、終末論的な千年王国的なビジョンが強まっていった。

 だが議会の政策が急進的すぎるとして、穏健派とクロムウェルが議会に対立し、これを解散した。革命を成立させたプロテスタントが明らかに分裂し対立するようになっていった。

 同年、クロムウェルは軍幹部の用意した成分憲法にもとづき護国卿になった。イングランドのみならず、スコットランドやアイルランド、他国のプロテスタントの保護を目指した。

 1654年、イングランドとスコットランドの合同を条例化した。その一方で、宗教政策としては、国王至上法や礼拝統一法を廃止した。また、教会に日曜に通う義務をなくし、洗礼や結婚を私的事柄に移行させた。

 クロムウェルの独裁政治は続いた。議会を追われた千年王国論者の第五王国派はクロムウェル批判を展開した。平等派なども脅威であり続けた。1655年には、王党派が反乱を起こした。

 このような状況下で、クロムウェルは軍事独裁を強化していく。議会は次第にクロムウェルを新たな王として擁立することを望むようになっていった。しかし、クロムウェルはこれを拒否した。1658年、病没した。

クロムウェルと縁のある人物や事物

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クロムウェルの肖像画

オリヴァー・クロムウェル 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院, 2018

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

Ronald Hutton, The making of Oliver Cromwell, Yale University Press, 2021

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