大日本帝国憲法は明治時代の中頃に制定された日本の憲法。明治憲法とも呼ばれる。幕末時にヨーロッパ諸外国と締結した不平等条約を改正するなどのために、制定に至った。それまでには、憲法制定と国会開設をめぐって自由民権運動の長い戦いがあった。
大日本帝国憲法制定の背景
1876年、明治政府は元老院に憲法の草案を作成するよう命じた。その少し前から、板垣退助らが自由民権運動を起こし、憲法制定と国会開設を求めていた。これがその一因となった。
また、西洋列強との不平等条約も一因だった。明治政府は幕末にアメリカやイギリスなどと不平等条約を締結させられていた。明治政府は樹立からすぐにその改正を試みていた。だが、失敗し続けた。
だが、西洋列強の言い分としては、憲法すら存在しない国との対等な関係など考えられなかった。西洋の通俗的な見方からすれば、アジアは野蛮な地域だった。野蛮な国ではなく文明国として認知されるには、権力の恣意的行使を防止する憲法などが求められた。
明治政府の命令を受けて、元老院は、国憲取調委員を設けた。様々な国の憲法を調査した。日本国憲按を起草し、手直しを行った。だが、これは民主主義的な要素が強かったため、岩倉具視らが反対した。1880年には、日本国憲按の確定案が生みだされた。だが、これは死産となった。なお、同時期には、私擬憲法の制作が各地で行われた。
明治政府は憲法制定と国会開設を公に約束した。その調査のために、伊藤博文を欧米に派遣した。伊藤はドイツの法律学者のグナイストらの影響を受けて、プロイセンの憲法を参考にした。
調査旅行から戻った後、伊藤は井上毅や金子堅太郎らと草案の作成に取り掛かった。1888年、確定案が完成した。1889年2月11日に欽定憲法として公布された。
大日本帝国憲法の発布の浮世絵

帝国憲法の内容
内容としては、天皇が主権や様々な大権をもつ欽定憲法だた。現在の人民主権とことなり、主権は天皇にあった。ほかにも、軍隊の統帥権や外交にかんする大権などが天皇に帰属した。ただし、司法権の独立や議会の設置にのように、君主大権を抑制する要素もみられた。
帝国憲法は1890年11月29日に施行された。同年、大日本帝国議会が召集された。現在の日本国憲法が施行される1947年5月3日まで効力を保った。
帝国議会の開設へ:その背景
明治政府が樹立されてまもなく、「五か条のご誓文」が公布された。その中では、合議のもとで決定を下すべしと定められていた。その後、実際に下ノ議事所や公議所などが設立された。1875年、元老院が設立された。とはいえ、今日の議会と異なり、これらの議員は国民が選ぶものではなかった。そのため、国民を代表する議会とはいえないものだった。
だが、1870年代から、板垣退助らは自由民権運動を組織して、民撰議院設立建白書を出した。すなわち、国民の選ぶ議員たちによる議会を設立するよう求めた。1880年には、区町村会法などの制定により、地方議会が開かれるようになった。また、明治政府の汚職事件などを契機に、政府は憲法制定と議会設立を約束することになった。
そこで、政府代表として伊藤博文が欧米へと調査に向かった。彼はとくに鉄血宰相ビスマルクのプロイセンの憲法を参考にした。1889年には、大日本帝国憲法が発布された。1890年、憲法が施行され、帝国議会が開会された。
帝国議会の特徴
当時のヨーロッパの諸憲法と比べても、君主たる天皇の大権と特権が帝国議会の権限よりも大幅に大きい。たとえば、議会は立法を行う場でありながらも、天皇は緊急時などに議会なしに立法できた。議会は主に法律と予算について発案や討議、承諾などをする機関とされた。総合的に見れば、帝国議会はあくまで天皇制の一つの機関であった。
議会は貴族院と衆議院で構成された。貴族院は皇族と貴族と勅撰の議員で構成された。衆議院は国民の選挙で議員を選んだ。だが、選挙権は財産や性別によって大きく制限された。どちらの議員の条件ものちに法律の改正で変更された。
帝国議会の様子を報じる浮世絵

おすすめ参考文献
坂野潤治『明治憲法史』筑摩書房, 2020
久保田哲『帝国議会 : 西洋の衝撃から誕生までの格闘』中央公論新社, 2018

