レオナルド・ダ・ヴィンチは15世紀後半からイタリアで活躍した芸術家(1452 ー1519 )。ミケランジェロやラファエロとともに、イタリア・ルネサンス美術の巨匠として知られる。モナ・リザや最後の晩餐などの絵画が特に有名だろう。さらに、科学的探求にも熱心であり、ヘリコプターなどの原案を発明したともいわれ、芸術家の枠に収まりきらない面をもっていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチの出自と初期
ダヴィンチはイタリアのフィレンツェ近郊のヴィンチで公証人の家庭に生まれた。幼い頃は自邸で初歩的な教育を受けた。
15歳のころ、ダヴィンチはフィレンツェに移った。アンドレア・デル・ヴェロッキオに師事した。1472年、画家ギルドに登録した。1481年には独立した。この時期には、絵画や彫刻、兵器や機械などのスケッチなどを制作していた。
芸術家や技術者としての活躍:『モナリザ』や『最後の晩餐』
1482年、ダヴィンチは30歳のときに、ミラノに移った。ミラノ宮廷に仕え、画家や建築家などとして活動した。工房を構えて、弟子をとった。この時期に、代表作の『最後の晩餐』をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のために描いた。
1499年、フランス王ルイ12世がミラノを侵攻した。そのため、ダヴィンチのパトロンだったミラノ公爵が失脚した。ダヴィンチはミラノを離れた。マントヴァへ、さらにヴェネツィアをへて、フィレンツェに戻ってきた。
1502年、ダヴィンチはフィレンツェを去って、チェーザレ・ボルジアに仕えた。ボルジアは父の教皇アレクサンデル6世のために、ロマーニャ地方の征服を企てていた。ダヴィンチは彼のもとで軍事土木技師として働いた。また、この時期に、フィレンツェからボルジアのもとへ派遣されていたフィレンツェ大使のマキャヴェリにも会った。
1503年、ボルジアが戦争で敗北して失脚すると、ダヴィンチはフィレンツェに戻った。ヴェッキオ宮殿の壁画制作に取り組むが、未完に終わった。この時期に、『モナリザ』の制作を開始した。解剖学的な研究にも勤しんだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画

1506年、フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズに招かれて、ダヴィンチはミラノに移った。そこでルイ12世の宮廷画家・技師に任命された。だが、自ら絵画を描くことはほとんどなかった。だが、工房を開いて、弟子を取った。また、建築関連のしごとを担った。解剖学の研究を深めた。
1513年、ジュリアノ・デ・メディチに招かれて、ダヴィンチはローマに移った。まさに、ローマでミケランジェロやラファエロが活躍していた時期だった。
1516年、フランス王フランソワ1世に招かれて、ダヴィンチはフランスに移った。宮廷画家・建築家・技師に任命された。解剖学の研究などを行った。1519年に没した。
こういう面白い解説もあります
美術評論家として人気の山田五郎さんがYoutube公式チャンネルにてお送りするダヴィンチの解説
ダ・ヴィンチの代表的な作品
『最後の晩餐』(1495ー98)
『モナ・リザ』(1503ー06)
おすすめ参考文献
田辺清『レオナルド・ダ・ヴィンチの源泉 : 様式・文学・人物表現』春風社, 2023








