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太宰治:生の不協和音

 太宰治は20世紀前半の作家(1909―1948)。無頼派の代表的な作家。若い頃に共産主義思想に影響を受け、非合法活動にも関わった。自殺未遂を経て、文筆活動を本格的に開始する。『走れメロス』や『斜陽』、『人間失格』などが代表作として知られる。戦前には小説論や映画論も展開した。『ハムレット』の翻案を行い、古典作品にも関心をいだいた。昭和の文壇で独特な地位を占める作家となった。

太宰治(だざいおさむ)の生涯

 太宰治は青森県で大地主の家庭に六男として生まれた。本名は津島修治(つしましゅうじ)である。青森中学で学んだ頃には、太宰は文学に強く惹かれるようになり、特に芥川龍之介の影響を受けた。弘前高校に進んだ。

 この頃、日本では社会主義運動が活発になっていた。太宰もまた社会主義の思想や文学の影響を受けた。社会主義では、工場主や地主がしばしば敵視されていた。太宰は自身が大地主の家庭出身であることに苦悶するようになった。

 井伏鱒二との出会い

 1930年、太宰は東京に移り、東京帝国大学の仏文科に入った。中学校の頃から深く影響を受けていた井伏鱒二に師事した。生涯、井伏との親交は続くことになる。

 太宰は井伏鱒二の作品との出会いについて、後にこう書いている。太宰の兄が東京から帰郷した際に、30冊くらいの同人雑誌を持ち帰った。井伏鱒二の『山椒魚』がその中で掲載されていた。太宰はたまたま井伏の作品を見つけて読み、「坐っておられないくらいに興奮し」、「天才の作品」だと思った。その後も、井伏の作品を読むごとに喜びを感じた。

 太宰は井伏の短編集『夜ふけと梅の花』を読んだときは、次のように感銘を受けた。「私はいまでも、はっきり記憶しているが、私はその短篇集を読んで感慨に堪えず、その短篇集を懐にいれて、故郷の野原の沼のほとりに出て、うなだれて徘徊し、その短篇集の中の全部の作品を、はじめから一つ一つ、反すうしてみて、何か天の啓示のように、本当に、何だか肉体的な実感みたいに、『大丈夫だ』という確信を得たのである。もう誰が、どんなところから突いて来たって、この作家は大丈夫なのだという安心感を得て、実に私は満足であった」(『井伏鱒二選集』後記)。

 心中の試みと非合法活動と

 左翼の非合法運動に関わるようになった。これが家族に露見したため、除籍された。太宰はバーの女給と江の島で心中を図ったが、女給だけが死んだ。

 その後、太宰は芸妓の小山初代(おやまはつよ)と同棲を始めた。依然として非合法活動に関与していた。だが、1932年、警察署に自首し、その後は非合法活動から離れた。井伏鱒二のもとに頻繁に通うようになった。井伏鱒二とともに著作活動をすることもあった。

 作家としての開花:『走れメロス』

 この頃、太宰は同人誌『海豹(かいひょう)』に『思ひ出』などの作品を発表し始めた。1935年には、都(みやこ)新聞社の採用試験に失敗し、鎌倉で自殺を図った。一命をとりとめたが、別の病気での治療中に鎮痛剤を多用し、中毒になる。中毒の治療で井伏鱒二の支援を受けた。

 同年、太宰の『逆行』が第1回芥川賞の候補となった。だが、落選した。太宰は芥川賞をどうしても獲得したかったが、その後も得られなかった。『道化の華』などを発表し、徐々に作家としての文名を高めていた。

 この頃、初代と離婚した。1939年には、井伏鱒二の媒酌で、石原美知子と結婚した。太宰は心機一転、新たに再出発しようと思った。同年の『女生徒』で北村透谷賞をえた。1940年には、教科書でおなじみの『走れメロス』 を発表した。

 古典への関心:シェイクスピアとおとぎ話と

 1941年、太宰は、シェイクスピアの『ハムレット』に着想を得た『新ハムレット』や『お伽草紙(とぎぞうし)』のように、古典の翻案作品も制作した。

 『お伽草紙』では、瘤とり爺さんや舌切雀、浦島太郎やカチカチ山を扱っている。その前書きは実に戦時中の状況を反映している。すなわち、空襲警報が出て、一家は防空壕に入る。

 危険が去ったように思われると、「五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は繪本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に讀んで聞かせる」。そこから、太宰の翻案作品が始まる。

 『新ハムレット』を制作するにあたって、太宰は当然ながらシェイクスピアの『ハムレット』を和訳で、原文も参照しながら、読んだ。『新ハムレット』の中で、シェイクスピアとハムレットについてはこう述べている。

 「沙翁の『ハムレット』を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った」。これにたいし、太宰の『新ハムレット』は「かすかな室内楽に過ぎない」と自ら評している。

 その『新ハムレット』では、太宰は次のような二つの試みを行ったという。一つは新しいタイプのハムレット像をつくることである。

 もうもう一つは、クローディアスによって近代の悪を描き出そうとしたことだ。太宰自身によれば、本作でのクローディアスは従来の典型的な悪とは大いに異なる。一見すると気の弱い善人のようにさえ見える。だが、実際には先王を殺害し、不潔な恋に成功した。しかも、その照れ隠しのために戦争を始めている。今日において我々を苦しめてきた悪人はこのような人々である。

『新ハムレット』の冒頭部分を紹介

 王(クローディアス)「皆も疲れたろうね。御苦労でした。先王が、まことに突然、くなって、その涙も乾かぬうちに、わしのような者が位を継ぎ、またの度はガーツルードと新婚の式を行い、わしとしても具合の悪い事でしたが、すべて此のデンマークのためです。

 皆とも充分に相談の上で、いろいろ取りきめた事ですから、地下の兄、先王も、皆の私心無き憂国の情にめんじて、わしたちを許してくれるだろうと思う。まことに此のごろのデンマークは、ノーウエーとも不仲であり、いつ戦争が起るかも知れず、王位は、一日も空けて置く事が出来なかったのです。

 王子ハムレットは若冠ゆえ、皆のすすめにって、わしが王位にのぼったのですが、わしとても先王ほどの手腕は無し、徳望も無ければ、また、ごらんのとおり風采ふうさいもあがらず、血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから、果して此の重責に堪え得るかどうか、外国のあなどりを受けずにすむかどうかすこぶる不安に思ってりましたところ、かねて令徳のほまれ高いガーツルードどのが、一生わしの傍にいて、国の為、わしの力になってくれる事になりましたので、もはや王城の基礎も確固たり、デンマークも安泰と思います(以下続く)」

 太宰の小説論

 1942年、第二次世界対戦の真っ只中で、太宰は「風の便り」という書簡体小説の中で、自身の小説論を開示した。太宰によれば、「『芸術的』という、あやふやな装飾の観念を捨てたらよい。生きる事は、芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません」。それにもかかわらず、小説を芸術の一環とみなす小説家がいる。そのために、今日の小説は堕落してしまった。
 小説を書くうえで最も肝要なことは芸術らしさを表現することではない。それは「『正確を期する事』であります。その他には、何もありません」。正確を期するとは、どういうことか。

 具体的には、「風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなす」ことである。あるいは、「風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をする」ことである。
 では、小説で芸術らしさを追求しようとするとどのような愚を犯すのか。このケースであれば、「風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ『芸術的 』でないかと思って、さまざま見え透いた工夫を」することになる。このような場合、小説家はただ表面的な理解しかせず、何もつかむことができない。よって見るべき点がなにもない。駄作となる。
 したがって、小説の創作で求められるのは「印象の正確を期する事一つ」である。ただし、その「印象」は他人からの借り物であってはならない。もっとも、駆け出しの小説家であれば、誰かをお手本にするのはもっともである。だが、一人前になるには、自分自身の印象をもたなければならない。

 さもなければ、「いつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない」。では、どうすればよいか。「主観的たれ!強い一つの主観を持ってすすめ。単純な眼を持て」。これが小説を書くことである。

 太宰の映画論

 1944年、太宰は雑誌『映画評論』に「芸術ぎらい」を掲載した。上述の議論を敷衍して、映画についても同様の見方を展開した。太宰は、「映画は芸術であってはならぬ。芸術的雰囲気などといういい加減なものに目を細めているから、ろくな映画が出来ない」と論じる。そのうえで、「かつて私は次のような文章を発表した事がある」として、上で引用した文章を自ら引用している。
 太宰は最近みた映画を念頭に置きながら言う。「昔の傑作をお手本にして作った映画ではないのである。表現したい現実をムキになって追いかけているのである。そのムキなところが、新鮮なのである。(中略)いやらしい『芸術的』な装飾をつい失念したから、かえって成功しちゃったのだ。重ねて言う。映画は、『芸術』であってはならぬ」。

 戦後の活躍:『人間失格』や『斜陽』

 終戦後も、太宰は名作を生み出していった。代表作として知られる『ヴィヨンの妻』や『斜陽』、『人間失格』は戦後の3年間のうちに次々と発表していった。『斜陽』は敗戦によって没落していく貴族の物語である。

 本書によって、実際に敗戦で没落した華族などを指す「斜陽族」という流行語が生まれた。『人間失格』は一般的な人間生活への適合に困難を感じる主人公が妻の事件でついに人間的生活の失格者となる物語。太宰の人生を題材にもしている。これらの作品が世間の注目を引いた。

 そのかたわら、1947年、太宰は戦後の新しい社会の雰囲気を感じ取り、「新しい形の個人主義」を執筆した。そこでは、こう述べている。

 「所謂社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に於いても、新しい形の個人主義の擡頭たいとうしているこの現実を直視し、肯定するところにわれらの生き方があるかも知れぬと思案することも必要かと思われる」。

 最期と遺書

 1948年、太宰は山崎富栄(とみえ)と玉川上水で自殺した。遺書では、お世話になった鶴巻夫妻宛にこう書いている。「永いあいだ、いろいろと身近く親切にして下さいました。忘れません。おやじにも世話になった。おまえたち夫婦は、商売をはなれて僕たちにつくして下さった」。

太宰治の有名作品を紹介

『ヴィヨンの妻』の冒頭部分

 あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけてきまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、
「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」
 と申しますと、
「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。
 これも珍らしい事でございました(以下つづく)

『ヴィヨンの妻』の朗読を聞く(画像をクリックすると始まります)

『斜陽』の冒頭部分

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 とかすかな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治なおじがいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。
爵位しゃくいがあるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民せんみんにちかいのもいる。(以下、続く)

『斜陽』を朗読で聞く(クリックすると始まります)

『人間失格』の冒頭部分

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞のはかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざらからお世辞に聞えないくらいの、わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、(以下、つづく)

『人間失格』の朗読を聞く

『女生徒』の冒頭部分

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっとふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばんみにくい。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶みもだえしちゃう。
 朝は、意地悪いじわる

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 太宰治と縁のある人物

芥川龍之介:太宰の憧れだった作家。学生時代から『羅生門』などで文名を高めた。芥川自身が憧れたのは明治文学を代表するあの人物だった。

太宰治の肖像写真

太宰治 利用条件はウェブサイトで確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

太宰治の代表的作品

『逆行』(1935)
『女生徒』(1939)
『走れメロス』 (1940)
『新ハムレット』(1941)
『津軽』(1944)
『お伽草紙』(1945)
『ヴィヨンの妻』(1947)
『斜陽』(1947)
『人間失格』(1948)

おすすめ参考文献と青空文庫


千葉一幹『失格でもいいじゃないの : 太宰治の罪と愛』講談社, 2023

安藤宏『太宰治論』東京大学出版会, 2021

福田清人『太宰治』清水書院, 2016

※太宰治の作品は青空文庫で無料で読めます。
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html

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