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エドガー・アラン・ポー

19世紀

 エドガー・アラン・ポーは19世紀前半のアメリカの作家や詩人(1809ー1849 ) 。代表作である『モルグ街の殺人』(1841年) は今日の探偵小説の始まりとして知られる。詩人としても成功していた。フランスではむしろ詩人として知られている。エドガー・アラン・ポーのファンだった日本人が、江戸川乱歩というペンネームで日本の探偵小説を開拓していったことも有名である。

 

ポーの生涯

 ポーはアメリカのボストンで旅役者の家庭に生まれた。だが、母を早くに亡くし、父は失踪した。そこで、アラン夫妻に引き取られた。

 1826年、ポーはヴァージニア大学に入った。だが、賭博で借金を抱えるようになった。そのため、養父の怒りをかい、退学させられた。

文学者としての活動:推理小説『モルグ街の殺人』など

 1827年、ポーは養父のもとから出奔して、ボストンに移った。そこで、処女作『タマレーン』を公刊した。陸軍に入隊したり、士官学校に入ったりするも、長続きしなかった。その間にも、著述を続けた。だが、世間には認められなかった。その後、ポーは叔母のいるボルティモアに移った。

 1832年、彼の『瓶のなかの手記』が『ボルティモア・サタデー・クーリア』誌の懸賞小説として当選した。また、1835年、ポーは批評活動も開始した。『サザン・リテラリ・メッセンジャー』誌に編集や批評などで参加した。だが、1837年にはこの仕事も辞めた。

 1838年、ポーはフィラデルフィアに移った。そこで、『ジェントルマンズ・マガジン』の編集に加わった。同時に、小説の制作に打ち込んだ。この時期に、『アッシャー家の崩壊』などを発表した

 1841年、ポーは『グレアムズ・マガジン』の編集に移った。本誌において、世界初の推理小説として知られる『モルグ街の殺人』を発表した。これは後に、日本で江戸川乱歩のような熱烈な愛好者をうむことになる。

 同時に、批評や評論も行った。だが、1842年には『グレアムズ・マガジン』の職も辞した。その後も精力的に小説を公刊した。1843年には『黄金虫』が懸賞小説として当選し、広く注目を集めた。また、『黒猫』などを世に送り出した。

 1844年、ポーはニューヨークに移った。『イブニング・ミラー』紙の編集者となった。小説や詩の制作を続けた。1845年、『ブロードウェー・ジャーナル』誌の編集に加わった。

 詩人としての活躍

 詩集『大鴉その他』を公刊した。その後も、詩論の『構成の原理』や散文詩の『ユリイカ』などを公刊した。フランスでは、ポーは小説家というより詩人として名声を博した。ボードレールマラルメなどはポーを絶賛した。

 1849年、自身の雑誌を創刊するという長年の夢を実現できぬまま、ボルティモアで没した。

エドガー・アラン・ポーの肖像画

エドガー・アラン・ポー 利用条件はウェブサイトで確認

画像は有名な画家マネの作品

 ポーの主な著作・作品

『タマレーン』 (1827)
『詩集』(1831)
『瓶の中の手稿』 (1832)
『アーサー・ゴードン・ピムの物語』(1838)
『大鴉その他』(1845)
『モルグ街の殺人』 (1841)
『黒猫』(1843)
『ユリイカ』 (1848)
『詩の原理』 (1848ー49)

おすすめ参考文献

西山けい子『エドガー・アラン・ポー : 極限の体験、リアルとの出会い』新曜社, 2020

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