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エンリケ航海王子: なぜポルトガルは大航海時代に突入したのか

 エンリケ航海王子は15世紀ポルトガルの王子(1394‐1460)。ジョアン1世の子で、死ぬまでポルトガル国王に即位することはなかった。モロッコのセウタを攻略し、ヴェルデ岬やマデイラ諸島、シオラレオネなどを探検航海した。エンリケ航海王子の生涯と功績を知ることで、ポルトガルがどのような背景や目的で大航海時代に乗り出し、なぜインド貿易を途中から欲するようになったのかを理解することができる。

エンリケ航海王子(Infante Don Enrique)の生涯

 エンリケはポルトガルのオポルトで、ポルトガル王ジョアン1世の三男として生まれた。母はイギリスのランカスタ公の娘だった。幼い頃は宮廷で育てられた。早くから騎士道物語や占星術に没頭していた。

 占星術は星を読む技術であり、当時の航海技術の一つでもあった。騎士道物語は騎士がドラゴンを倒してお姫様を救出するような冒険物語の性質を帯びており、当時のイベリア半島で流行していた。

 大航海時代の始まり:セウタ攻略

 1415年、ポルトガルがアフリカ北部のモロッコの主要都市セウタを攻略し、陥落させた。これが大航海時代の始まりとされている。
 エンリケ航海王子は兄弟とともにこれに参加した。なぜポルトガルはモロッコ進出を始めたのか。主な理由として、ここでは2点挙げよう。

王権の安定化のために

 第一の理由は、当時のポルトガル王権が支配を安定させる手段として選んだことである。
 エンリケの父ジョアン1世はアヴィス朝という新しい王朝をポルトガルで開始した人物だった。1383−85年の政変で新たな王として誕生したばかりであり、その支配は不安定だった。

 ジョアンはこれを安定させるために様々な手段をとった。たとえば、伝統的な同盟相手のイギリスとの関係を強化しようとした。そのため、上述のランカスター公の娘と結婚し、エンリケ航海王子などがうまれた。
 支配安定化の手段の一つが対外拡張だった。その背景として、ジョアン1世を国王として支持した有力貴族たちは、ジョアンに見返りを求めた。だが、ジョアンは新たな国王であり、十分な財力を保持していなかった。
 そのため、対外的に征服戦争を行い、新たな土地を獲得して、その土地や権益を彼らに見返りとして配分することにした。
 同時に、1410年代には、ジョアン1世に不満を抱く貴族も多くいた。ジョアン1世の主な敵がスペイン王だったが、これらの貴族はスペイン王に味方する恐れもあった。
 ジョアンはこれらの不満分子を国内から遠ざけたかった。だが、スペインには行かせたくなかった。そこで、別の戦地に送り込もうとした。
 このように、ジョアン1世が新たな王権を安定化させるために、対外拡張を選んだ。1411年にスペインとの和平が成立したため、1415年にセウタ攻略に踏み切ったのである。

レコンキスタの延長線

 第二の理由は、セウタ攻略がレコンキスタの延長線上にあったことである。レコンキスタとはなにか。
 ポルトガルとスペインはイベリア半島に位置している。8世紀にイスラム勢力が南方からイベリア半島に進出し、ヨーロッパ人の土地を整復して奪っていった。レコンキスタとは、この奪われた土地を奪い返すという再征服運動である。
 これはイベリア半島の北部から始まり南部に至る運動だった。ポルトガルでは、これは父ジョアン1世の頃にはすでに完了していた(スペインでは1492年に完了することになる)。
 レコンキスタは十字軍の精神で行われるようになっていた。さらに、上述の騎士道物語によって活性化された。
 ポルトガルはイベリア半島からイスラム教徒を追い出すだけでなく、さらに、海を越えて、アフリカ北部に進出を開始した。この活動はローマ教皇庁によっても推奨された。そのため、十字軍に準じるような活動とみなされた。
 かくして、ポルトガルのアフリカ北部進出はレコンキスタの十字軍の延長線上として行われた。

 レコンキスタがかつてのポルトガル王朝の誇りや威信となったように、アフリカ大陸でのイスラム勢力との戦いはアヴィス朝の威信として喧伝されることになる。よって、モロッコ進出はこのような仕方で王権安定化の手段にもなった。
 モロッコ進出の理由にも触れておこう。リスボンなどの商人が貿易の拡大を望んでいたことも挙げられる。ジブラルタル海峡を貿易船が安全に通過できるようにするためでもある。あるいは、エンリケ航海王子らが騎士道物語の影響もあって、武勲を立てたいという願望もあったようだ。

 探検航海:ヴェルデ岬やボジャドール岬を越えて

 ジョアン1世は新たなアヴィス朝を安定化させるために、自身の子供たちに重要な役職や領地を授けた。そのため、1415年、エンリケはヴィゼウ公となった。1420年、キリスト騎士修道会の統轄者になった。

 この修道会は、レコンキスタの際にはテンプル騎士修道会だった。エンリケはキリスト騎士修道会の資金などを用いて、アフリカでのさらなる探検航海を主導した。アフリカ西海岸の南下を開始した。
 ただし、エンリケ自身は航海王子と呼ばれながらも、自ら探検航海と遠征に参加しなかった。船酔いがひどかったためだと言われることもある。
 エンリケはこれらの事業を推進し、成功した。1427年には、ポルトガル人はアゾレス諸島に到達した。1434年、ボジャドール岬を通過した。ここはそれまでヨーロッパ人が越えることのできなかった地点だった。

 1443年には、ギニアに到達した。1456年、ヴェルデ岬諸島を発見した。1460年、ポルトガルはシエラレオネまで到達した。この年、エンリケは没した。その後のポルトガルの探検航海によって喜望峰が発見されることになる。

 探検事業の目的

 エンリケらは上述の理由でセウタを攻略した。その後、アフリカ探検には他の目的も追加されるようになる。主に三点あげよう。

アフリカの金と奴隷の貿易

 まず、アフリカの黄金や奴隷の貿易に参加して、大きな収益を得ようという狙いが挙げられる。上述のセウタで黄金が取引されていたので、ポルトガルは黄金を欲したのである。

 その背景として、とくに中国の元朝が滅んだ後、15世紀のヨーロッパでは金銀の貴金属不足が深刻だった。そのため、黄金のニーズは非常に高かった。ポルトガルは貪欲に黄金を探し求め、ギニア沿岸の金産出エリアに到達した。
 奴隷についてはアフリカの探検航海が進むにつれて、ポルトガル人は黒人奴隷の商品価値に目をつけるようになった。1440年代頃から、探検・征服事業は金と奴隷の貿易によって財政的に支えられるようになった。

インド貿易

 次に、インド貿易である。エンリケらは当初からインド貿易の実現を主要な目標としていたわけではない。
 エンリケらはアフリカ大陸の南下を勧める中で、航海によってインドに到達できる可能性を知るようになった。

 というのも、イスラム教徒はすでにアフリカからインドそして東南アジアにまたがるエリアで貿易を行っており、アフリカとインドの貿易ルートを知っていたためである。
 さらにインド貿易の願望を後押ししたのはヨーロッパでの胡椒の価格の急騰である。ヨーロッパでは、東方のビザンツ帝国を通して、インドから胡椒がヨーロッパに運ばれていた。ヴェネチアがこのルートの胡椒貿易で莫大な利益をあげていた。

 だが、1453年、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼした。この貿易ルートは一時的ではあれ使えなくなった。この結果、その時期に、胡椒の価格は40%以上も値上がりした。これがエンリケたちを大いに刺激したのである。
 ほかにも、兄のペドロがエンリケに与えたマルコ・ポーロの『東方見聞録』もエンリケを刺激したことだろう。かくして、、ポルトガルがインドの香辛料貿易を本格的に推進しようとしたのはこの時期からである。
 同時に、ポルトガルの探検事業がエンリケ航海王子の個人事業に近いものからポルトガルの国家事業へと本格的に変わっていった。

プレスター・ジョンを探して

 最後に、プレスター・ジョンとの同盟も目的だった。プレスター・ジョンはアフリカ南部に実在すると噂されたキリスト教の王であり、実在はしなかった。
 エンリケは彼の実在を信じ、彼と同盟してアフリカのイスラム勢力を駆逐しようと考えた。十字軍の精神がここにみられた。

 エンリケ航海王子と縁のある人物

●マヌエル1世:ポルトガルの国王。ヴァスコ・ダ・ガマがついに東インド航路を開拓してインド貿易を実現した頃の王。ポルトガルの黄金時代を知るためには欠かせない人物。

https://rekishi-to-monogatari.net/man143kdj

●ジョアン3世:ポルトガルの国王。マヌエル1世の死後、ポルトガルの海洋帝国がどうなったのかを知るのに欠かせない人物。フランシスコ・ザビエルを東アジアに派遣したことでも有名。そもそも、なぜ派遣したのだろうか。

●プレスター・ジョン:キリスト教の伝説上の王。計り知れない富と権力をもつキリスト教王国を治め、東地中海エリアの争いで他のキリスト教徒を助けに来ると期待された強大な王。

エンリケ航海王子の肖像画

エンリケ航海王子 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

金七紀男『エンリケ航海王子 : 大航海時代の先駆者とその時代』刀水書房, 2004

A.R. Disney, A history of Portugal and the Portuguese Empire : from beginnings to 1807, Cambridge University Press, 2009
Leonor Freire Costa, An economic history of Portugal, 1143-2010, Cambridge University Press, 2018

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