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フェリペ2世:スペイン黄金時代の絶頂

 フェリペ2世はスペイン国王(1527ー1598)。スペインの黄金時代を築いた王。レパント海戦でオスマン帝国を退け、ポルトガルを併合して「日の沈まぬ帝国」を構築した。スペインの植民地を中南米から東アジアにも拡大し、日本からの天正遣欧少年使節を応接した。だがイギリスにアルマダ海戦で負け、オランダの反乱に苦しんだ。この時代のスペインは絶対王政ではなく複合君主制だと理解されている。

フェリペ2世(Felipe II )の生涯

 フェリペ2世の父は神聖ローマ帝国のカール5世。カールはスペイン王としてはカルロス1世を名乗っていた。母はポルトガル王女のイサベル。フェリペは幼少期から後継者となるべく教育を受けた。宗教教育や騎士道、狩猟技術などを学んだ。カール5世とは反対に、教養ある人物として育ったと評されている。 

 1543年、フェリペはポルトガルのマヌエラと結婚した。これが1580年のポルトガル併合の布石となる。1545年、マヌエラは没した。その後、フェリペはイギリス女王のメアリー1世と結婚した。だが、イギリス議会の猛反発により、イギリス国王にはなれなかった。1554年にイギリスにわたり、1年間滞在した。1558年、メアリーが逝去した。

スペイン王へ

 その頃、カール5世はカトリックの守護者を自認し、プロテスタント勢力と戦ってきた。1517年のルターの宗教改革以降、神聖ローマ帝国では宗教対立が生じていたのである。

 だが、結局、カールはこの勢力を抑え込むことができなかった。1555年、アウグスブルクの宗教和議が結ばれ、ルター派がドイツで公認された。カールは失意の中で退位した。

 帝国は弟に継承された。1556年、フェリペはカールから広大な地域を継承した。すなわち、スペイン、中南米の植民地、ネーデルラント(現在のベネルクスあたり)、イタリアのミラノ・ナポリ・シチリア、フランシュ・コンテなどだった。

 フェリペ2世の広大な帝国支配

 フェリペ2世は即位してまもなく、長らく続いていたイタリア戦争を終結させた。すなわち、フランスとカトー・カンブレッジ条約を結んだ(1559)。1561年、マドリードを恒久的な宮廷の所在地に、すなわち首都に選んだ。

 この首都選択によって、マドリードが属するカスティーリャが他の諸地域への優位を確立した。国家の権力装置は著しくカスティーリャ色に染められていった。カスティーリャこそスペインという傲慢な態度が他地域の怒りをかうことになる。

 フェリペ2世はカール5世と同様に、カトリックの守護者を自認していた。それゆえ、自らの領地のみならず、ヨーロッパ全体を視野に入れた上で、カトリックを守るために数多の戦争を行った。その莫大な戦費が重荷となる。

 レパントの海戦での勝利

 スペインはオスマン帝国と地中海周辺で戦った。1571年、レパントの海戦で大きな勝利を挙げた。それまで、ヨーロッパ勢はスレイマン一世以降のオスマン帝国にたいして明確に勝利したことがなかった。だが、この戦いでようやくオスマン帝国に勝利をあげた。

 ただし、これによってオスマン帝国の海軍が消滅したわけではない。むしろ、アフリカ北部の重要拠点は依然としてオスマン帝国の支配下に置かれ続けることになる。モロッコのサレーなどがヨーロッパ船への海賊行為の拠点だった。

 ネーデルラントでの反乱開始

 1568年、ネーデルラントでオラニエ公ウィレム1世などが反乱を開始した。フェリペ2世の宗教政策や、土着の貴族などの権益を削ぐ政策が主な原因だった。フェリペはアルバ公を派遣した。

 だが、反乱は収まらず、むしろ1572年から反乱側が一定の成功を収めるようになる。フェリペは多方面で同時に戦争を行っていたので、1575年には二度目の破産を経験した。そのため、ネーデルラントに十分な戦力を供給できない時期が続いた。かくして、政情が不安定な時期が続いた。

 1580年頃には、反乱側がネーデルラントの北部に主要拠点を定めるようになる。1581年、反乱側の議会がフェリペ2世を主君とは認めないと宣言する。フランスやイギリスから新たな王を迎えようと画策する。これらの混乱した状況の中で、戦いが続く。
 1580年代には、中南米植民地から金銀がスペイン本国へ流れ込むようになった。フェリペは潤沢な戦費を利用できるようになった。そこで、パルマ公をネーデルラントに派遣した。

 パルマ公は快進撃を続け、ネーデルラントでの支配地域を拡大していった。だが、フェリペはパルマ公をフランスへ転戦させた。後述のフランス宗教戦争のためである。その結果、ネーデルラントでの戦いは再び膠着した。

 それまで流動的だった友敵関係は、1580年代末には固定的になってきた。北部はオランダ共和国として、南部はスペインの一部として、分かれる流れとなる。フェリペの最晩年には、この構図が事実上ほぼ固定的になる。ただし、戦争はウェストファリア条約まで完全には終結しないが。

 ポルトガルの併合(1580年)

 ポルトガルでは、高齢の国王が跡継ぎもなく没した。そこで、1580年、フェリペ2世が正統な王位後継者を自認して、リスボンにアルバ公を派遣した。

 他の王位後継者候補だったアントニオは、すぐには譲らなかった。スペインと敵対するイギリスやネーデルラント北部の支援もえた。だが、1581年、フェリペがポルトガル王にそのまま即位するのに成功した。1583年までリスボンの王宮に滞在した。
 その結果、フェリペはポルトガルとそのアジアの広大な植民地を入手した。かくして、日の沈まぬ帝国が誕生した。24時間、フェリペの領地のどこかしらで日が昇っているのだ。

 海外植民地の支配:中南米やフィリピン、日本の天正遣欧少年使節

 コロンブス以降、中南米に拡大したスペインの植民地をフェリペは継承した。1570年代から、中南米での金銀山の採掘が軌道に乗り始めた。大量の貴金属がスペイン本国の国庫を潤した。その結果、戦争が有利に展開することもあった。

 だが、多方面で同時に戦争により、これらの資金は消費された。莫大な借金の利子が支払えず、破産することもあった。これが戦況に響いた。

 1565年頃から、スペインは東南アジアの拠点形成にも成功する。フィリピン植民地の設立だ。フィリピンの名前はフェリペ2世の名前にちなんでつけられた。フィリピンのマニラに植民地政府が置かれた。マニラとメキシコでは、毎年定期便が運行された。以後、200年間続くことになる。マニラには日本人町も作られることになる。

 なお、ポルトガルが設立していたマカオや日本などの貿易もフェリペの支配下に置かれることになる。その流れで、日本の天正遣欧使節団がヨーロッパへ派遣された。ザビエル以来、日本ではキリスト教が広まっていった

 1584年、彼らはフェリペに謁見した。フェリペ2世と日本との関係を言い直せば、日本やマカオに拠点をおいたポルトガル人およびフィリピンのマニラに拠点を置いたスペイン人の王である。

文書による統治

 そもそも、フェリペはこれほど広大な領地をどのようにして支配したのか。当時はインターネットもない。そもそも電気も利用できないので、電話や電信もなかった。

 その代わりに、フェリペは書簡や文書の広大なネットワークで、日の沈まぬ帝国の統治を行った。たとえば、ネーデルラントで反乱が起こり始めた際には、フェリペはネーデルラント総督に書簡を出して対応を指示した。

 あるいは、南米の植民地からは、植民地政府の不正を訴える植民地住民からの書簡が届き、フェリペが目を通すこともあった。このように、フェリペは文書を通して広大な帝国を統治しようと試みた。

 フェリペはそれまでの君主と異なり、領地を遍歴することをしなかった。従来の君主は、カール5世のように、支配が広大であってもそれぞれの地域を遍歴した。そうすることで、君主とその地域の絆を再確認し、強めた。

 それまでの時代はまだまだ新聞などのニュース媒体が発展していなかったので、君主がほとんど到来しないならば、君主への忠誠心も薄れていった。しかしフェリペは遍歴を行わなかった。必要に応じて行おうと考えたこともあった。だが、実際にはスペインに留まって広大な帝国を統治し続けた。

 とはいえ、この広大な帝国をたった一人で統治しようとしたのではない。様々な顧問会議を利用し、その秘書官たちの助言を重視した。秘書官たちは大貴族出身ではなく、下級貴族や商人家系の出身だった。

 プロテスタントとの戦争

 イギリス(イングランド)は16世紀前半にプロテスタントになった。だが、メアリー1世のさいに、カトリックに戻った。フェリペはそのときにイギリス国王だった。だが、エリザベス1世の即位により、プロテスタントに戻った。

アルマダの海戦:エリザベス1世との対決

 フェリペはイギリスのカトリック化を推進し、支援した。それゆえ、両国は対立関係に至った。さらに、イギリスはネーデルラント北部の反乱側を支援した。彼らの主要勢力がプロテスタントだったのも一因だった。これも対立を激化させた。

 このような背景のもと、1588年、スペインは無敵艦隊アルマダをイギリスへ派遣した。だが、アルマダの海戦では、イギリスが勝利した。とはいえ、スペインは海上支配権を失ったわけではなかった。だが、威信は大きく傷ついた。また、この敗北がスペイン没落の一つの契機と評されることになる。

フランス宗教戦争

 フェリペはフランスの宗教戦争にも介入するようになる。フランスでは、1562年から宗教戦争が始まった。当初、王権はカトリックであり、カルヴァン主義プロテスタント勢力と戦った。さらに、王権はカトリックのギーズ家とも対立した。ギーズ家がカトリック同盟を結成した際に、フェリペはギーズ家を支援した。

 1589年に国王アンリ3世が没した後、次の王位継承者のアンリ4世はプロテスタントだった。そこで、フェリペはアンリ4世の即位を阻止するために、上述のパルマ公をフランスへ転戦させた。

 だが、パルマ公は負傷し、没した。結果としては、アンリ4世がカトリックに改宗し、1598年にナントの勅令を出すことで、フランス宗教戦争が終わった。同年、フェリペはアンリ4世とヴェルヴァン条約で和平に至った。

黒い伝説

 以上みてきたように、スペインは広範な地域を支配した。同時に、様々な国や地域に派兵して戦争を行った。スペインが世界帝国として君臨するのではないかという恐怖が生じた。そこでスペインの敵対者がスペインに対抗するために或る言説を生み出し、大々的に喧伝した。この政治的な道具が黒い伝説である。

 具体的には、スペイン人は残虐で貪欲かつ専制的であり、ローマ教皇庁と結託して異端審問による迫害を行う野蛮人だといわれるようになった。特に、イギリスやフランス、ネーデルラントでの敵対者によってこのスペインの黒いイメージが流布された。

 その影響は18世紀にも残る。たとえば啓蒙主義の哲学者ヴォルテールはフェリペ2世のことを「南の悪魔」と呼ぶことになる。

 他方で、黒い伝説の主な原因の一つはスペイン人の聖職者ラスカサスにあった。ラスカサスは16世紀前半にスペイン領の中南米植民地で宣教活動を行った。その際に、先住民をスペイン人の征服者や植民者から守ろうとしたことで有名である。ラス・カサスはスペインに帰国して、先住民の惨状をスペイン王権に訴え、改善を求めた。

 その過程で、16世紀なかばに、スペイン植民者や征服者がいかに残酷で暴君的かを著作にして公刊した。これが16世紀後半にヨーロッパの諸言語に翻訳され、黒い伝説の根拠として利用されたのだった。スペイン人は黒い伝説に苦しみ、他国での自国の評判を気にするようになった。

 最晩年

 フェリペは最晩年、エル・エスコリアル宮殿を建造させ、そこに住んだ。これはもともとは修道院として建てられた。普段から、黒衣を着ていた。1598年、死を迎えた。息子のフェリペ3世がスペインの後継者となる。

 フェリペ2世のスペインは絶対王政?複合君主制という対案

 フェリペ2世の時代はスペインの最盛期と考えられてきた。ながらく、この時期のスペインはヨーロッパの絶対主義や絶対王政の初期段階として位置づけられてきた。だが、歴史研究の発展により、この位置づけは後景に退いた。そのかわりに、複合国家や複合王制という理解が主流的となっている。この転換をより詳しくみてみよう。

 第二次世界大戦後、日本の歴史学は敗戦の失敗を踏まえて、ヨーロッパ列強の発展の原因を探した。その際に、ヨーロッパの近代化の過程を明らかにしようとした。次のような過程がそこにあると考えられた。16−18世紀のヨーロッパでは、中世の封建制から近代の資本主義への移行がなされ、政治的には絶対主義や絶対王政が出現した、と。

 この近世の過程から逸脱するものは例外とみなされ、無視されるか低く評価された。この理論枠組みにおいて、フェリペのスペインは絶対王政の確立を試みたが不十分だったと考えられた。よって、初期の絶対主義として位置づけられた。
 だが、近世ヨーロッパの歴史学では、この絶対王政の理解に挑戦する歴史家がでてきた。その新たな試みの成果の一つが複合国家論である。
 絶対王政論では、王が自国の全ての地域や民衆を同一の統一的な制度や方法で支配する。同一国の内部においては、地域間の制度などの違いはほとんどないものと考えられている。王が絶対的な権力をこれらの地域や人民にたいして上から行使する。たとえば、様々な税金や法律、制度などを上からこれらに押し付け、矯正する。
 これにたいし、複合国家論では、王国には複数の自律的な地域が存在しており、それらの地域は独自の制度をもつ。同一国の内部でも、地域間で制度などの違いが大きい。むしろ、王国全体に共通の制度がほとんどない。

 王はこれらの地域や人民にたいして同一の制度や方法を上から無理やり押し付けようとしても、うまくいかない。それらの地域はそれなりに自律性を維持した政治社会を形成しており、王に対抗する力を備えているからである。

 そのため、王は貴族のようなそれらの地域の有力者と駆け引きや交渉を行う。特別な利益の供与のようなアメとムチなどを通して、貴族の忠誠を確保する。そのようにして、それぞれ異なる諸制度の諸地域を一つの王国としてまとめあげ、支配し続ける。
 フェリペ2世のスペインはこのような複合王制だと考えられている。フェリペ2世は外交の場面ではスペインの王というよりも諸地域の王(カスティーリャやアラゴンやインディアスや・・・・などの王)を名乗っていた。スペイン王が正式な名称となるのは19世紀になってからである。

 スペインはアラゴンやインディアスのような独自の制度をもつ諸地域から構成されていた。異端審問以外に、スペイン全体に共通する制度は存在しなかった。スペイン全体を代表する機関もなかった。アウディエンシアなどの制度は王国全体に設置されたが、地域によって内実が異なった。

 フェリペは様々な評議会や文書でのやり取りによって、諸地域のエリートとの交渉を通して、王国全体をまとめあげようとした。このように、この時代のスペインは絶対王政ではなく複合王制として理解するのが適切だと考えられている。

 フェリペ2世と縁のある場所:エル・エスコリアル宮殿

 エル・エスコリアル宮殿は、上述のように、これはフェリペ自身が建築を命じて建造させた。この宮殿は王宮と修道院を兼ね備えたものである。内部には、カール5世やフェリペ2世など、歴代の国王の墓もある。建物は修道院として、十字架の構造をしている。カトリックの守護者を自認したフェリペの終の棲家にふさわしいといえるだろう。

 見どころの一つは、フェリペが普段使用していた執務室だ。上述のように、フェリペは文書を通して広大な帝国を支配しようとした。帝国の広大さと対照をなすかのように、この執務室は実に狭い。これもフェリペの性格を現しているのだろう。どの程度のものかはぜひ実見してみることをおすすめする。

 エル・エスコリアルはマドリッドから電車で一時間くらいのところにある。山脈の麓にあり、その街並みもまた面白い。

 フェリペ2世と縁のある人物

☆カール5世:フェリペの父で、スペイン王かつ神聖ローマ皇帝。フェリペが対峙しなければならなかった問題の多くは、カールの時代から引き継いだものだった。よって、フェリペを理解するにはカールについても知ることが望ましい。

●フェリペ3世:フェリペ2世の息子で、次のスペイン王。フェリペ2世で最盛期を迎えたスペインはその後どのような運命を辿ることになるのか。フェリペ3世の時代に、はるばる日本からスペインに到来したのは何者か。

 

●エリザベス1世:アルマダで戦ったイギリスの女王。このとき、イギリスはどのような状況にあったのか。

https://rekishi-to-monogatari.net/eliz4

●オラニエ公ウィレム1世:ネーデルラントの反乱の首謀者。フェリペとは当初の主従関係から因縁の対決へ

フェリペ2世の肖像画

フェリペ2世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

西川和子『スペインフェリペ二世の生涯 : 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』彩流社, 2005

立石博高編『スペイン帝国と複合君主政』昭和堂, 2018

立石博高『フェリペ2世 : スペイン帝国のカトリック王』山川出版社, 2020

Laura Fernández-González, Philip II of Spain and the architecture of empire, The Pennsylvania State University Press, 2021

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