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フェリペ3世:偉大なるフェリペ2世の後のスペイン黄金時代とは?

 フェリペ3世はスペインとポルトガルの国王(1578 ー1621)。在位は1598ー1621 。スペイン黄金時代の国王の一人。対外的には、当面は和平政策を進めた。国内では諸制度の合理化を図ると同時に、モリスコなどの追放を進めた。怠惰で臆病な君主と評されてきたが、これは変わりつつある。日本とのつながりでは、これからみていくように、日本から遠路はるばるあの施設が到来してきた。

フェリペ3世(Felipe III)の生涯

 フェリペ3世はスペインのマドリードでスペイン国王フェリペ2世の息子として生まれた。若い頃から敬虔なことで知られた。幼少期からラテン語やフランス語などを学び、哲学や幾何学、歴史学なども学んだ。

 1590年代から政治的な経験をつむために、フェリペ2世の補佐をつとめるようになった。だが、スペイン帝国の確立に邁進したフェリペ2世と異なり、フェリペ3世は政治への関心が薄かった。そのため、フェリペ2世はフェリペ3世が王としての資質に乏しいと嘆いたとされる。

 スペイン王へ:レルマ公の寵臣政治

 1598年、フェリペ2世が没し、フェリペ3世がスペイン王およびポルトガル王に即位した。フェリペ3世はすぐに政治を寵臣のレルマ公に委ねるようになった。ただし、最終的な決定権を保持し続けたので、統治を完全に放棄したわけではない。

 それでも、決定を下すための中核的な議論はレルマ公を中心とした枢密委員会によって事前になされた。フェリペは枢密委員会の報告や助言に基づいて最終的に決定を下した。よって、フェリペ3世の治世では、レルマ公が実権を握ったと評されている。

 対外政策

 政策としては、当面は平和外交政策が基調だった。スペインはフェリペ2世の時代に多方面で同時に戦争を行ってきた。そのため、財政が逼迫していた。フェリペ3世は財政制度をふくめ諸制度の合理化を迫られた。

 そのような状況で、現在進行中の戦争や対立を終わらせようとした。同時に、スペイン帝国の名声や名誉を維持することが外交政策の中心を占めた。

和平政策:イギリス

 スペインはイギリスと1604年にロンドン条約を結び、和平に至った。それまでは、アルマダの海戦のように、両国は敵対関係にあった。フェリペはこれに終止符を打った。ただし、明確に敵対関係が終わったのはヨーロッパにおいてだけだった。ヨーロッパ外部の植民地についてはそうではなかった。

 そもそも、スペインは1492年のコロンブスによるアメリカ「発見」以来、中南米の征服と植民地化を進めていた。イギリスは16世紀後半になってアメリカ進出を本格的に企て始めた。だが、スペインは中南米へのイギリスの進出を妨害した。そのため、イギリスは北米植民地建設を試みた。

 1604年の和約では、アメリカにかんして明確な取り決めがなされなかった。だが、1605年、フェリペはイギリスのアメリカ進出を認めないとイギリスに通達した。イギリスはそれを不当と訴えた。建設し始めていた北米植民地の防備を進めた。そのため、イギリスは植民地建設に徐々に成功していく。

フランス

 フランスとは、フェリペ2世の時代にヴェルヴァン条約が結ばれ、戦争は終わっていた。しかし、フランス王アンリ4世はスペインを強く警戒していたため、両者の関係は不安定だった。そこで、フェリペ3世は自身の娘をのちのルイ13世に嫁がせた。同時に、自身の息子でのちのフェリペ4世にブルボン朝のイサベルと結婚させた。

オランダ

 ほかに、1609年、スペインはオランダと12年間の休戦条約を結んだ。1568年、ネーデルラント(だいたい現在のベネルクスに相当)では、主君だったスペイン王フェリペ2世への反乱が起こった。反乱軍がネーデルラント北部へ、すなわちオランダで拠点を形成するようになった。
 
 1580年代終わり頃から、この反乱側が明確に独立を目指すようになった。だが、オランダへの最大の支援国イギリスが上述のようにスペインと和平に至った。オランダとスペインは財政難や戦局の硬直などにより和平条約の交渉を始めた。

 フェリペ3世は和平条約の条件として、オランダがカトリック化することを要求した。オランダの主導層はプロテスタントであり、交渉が難航した。1609年、結局、両国は12年間の休戦条約に落ち着いた。

 ちなみに、ネーデルラントの主権はフェリペ2世が没したときに、フェリペ2世の娘イサベルとオーストリアのアルブレヒト大公に譲渡されていた。オランダは反乱勢力の支配下にあったので、実質的にはベルギーの地域が彼らに譲渡されたことになる。
 いずれにせよ、その結果、フェリペ3世はもはやネーデルラントの君主ではなかった。それにもかかわらず、フェリペ3世はスペインとオランダの和平交渉のみならず、ベルギーとオランダの和平交渉にも強く関与した。休戦協定はその結果であった。

 国内のユダヤ人とモリスコの問題

 この時期のスペインはヨーロッパだけでなく中南米やフィリピンなどにも広がる帝国を築いていた。この広大な支配地を結束させるために、カトリックの宗教を利用しようとした。

モリスコの追放

 その流れで、17世紀初頭、フェリペはイスラム教徒からの改宗者たるモリスコの追放を命令した。

 その背景として、モリスコはイスラム風の文化で生活しており、スペイン語を話さなかった。スペインの東部でモリスコの多くが住んでいた。フェリペ2世は彼らをスペインに同化させようとした。だが、それはあまり進展しなかった。フェリペ3世は同化政策が失敗だと判断した。
 さらに、モリスコはオスマン帝国と内通して、スペインの内なる敵になるのではないかという懸念が生じていた。この懸念は部分的には事実でもあった。
 そのような中で、カトリックの聖職者はモリスコを偽装改宗者だと非難した。キリスト教に見せかけで改宗しただけで、本当はイスラム教徒のままであると批判したのだ。

 以上の原因により、フェリペ3世はモリスコに追放令を出した。その後も追放令を繰り返し、モリスコを段階的にスペインから追い出すことになった。17万人ほどが追放の処分を受けた。

 追放されたモリスコの多くは、オスマン帝国領のアフリカ北部(モロッコのサレーなど)に移った。そこでは、ヨーロッパ船への海賊行為の拠点が形成されていた。よって、追放されたモリスコの一部はそこでヨーロッパ船への海賊行為に加わった。オスマン帝国にたいしては、スペインは従来通りの敵対姿勢をとった。

コンベルソの追放

 他方で、国内のユダヤ人にたいしては、フェリペは当初、融和策をとった。そもそもスペインとポルトガルでは15世紀末からユダヤ人にたいして、強制改宗か追放の厳しい措置が採られてきた。

 17世紀初頭のスペインはそれまでの多方面での戦争で財政が逼迫していた。そのため、フェリペ2世はフェリペ3世にたいして、財政問題にはしっかり対処するよう教えていた。この文脈で、ユダヤ人はスペイン王権の財政に寄与することが期待された。

 そこで、フェリペ3世はキリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)にたいして大赦を出した。ポルトガルのコンベルソはスペインへの移動や経済活動の自由を認められた。さらに、中南米植民地との貿易への参加も認められた。

 だが、その結果、社会では彼らへの風当たりが強くなり、暴動も起こるようになった。これを受けて、スペイン王権もまたコンベルソへの対策を再び厳しくしていった。
 

 その他の動向

 フェリペ3世の時期、スペイン経済は不況に悩まされた。フェリペ3世の時代からの財政負担の重さが響いた。他方で、アメリカ植民地からの金銀は大量に届き、1608年ごろがピークだった。
 だが、これらの資金は国内経済の育成などに投資されなかったため、経済発展にはつながらなかった。それでも、フェリペ3世はスペインの海運の拡大を目指し、そのための制度や仕組みを整備した。これがスペインの海運の発展に大きく寄与した。
 法学を修めた大学卒業者が政府官僚となり、スペイン社会における強固で安定した中間層となった。 彼らはフェリペへの助言だけでなく、政策の立案と実施で重要や役割を占めるようになった。
 フェリペは文化のパトロンでもあった。スペインの代表的な作家セルバンテスやロペ・デ・ベガはこの時代の人物である。多くの芸術家や文人が宮廷を訪れた。演劇が都市や地方で盛んになった。
 

 外交政策の転換:30年戦争

 治世の晩年、1618年から神聖ローマ帝国で30年戦争が始まった。カトリック支持の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世にたいして、ボヘミアのプロテスタント貴族が反乱を起こしたのである。フェリペ3世は中立や和平の立場をとらず、皇帝への支援を決定した。

 かくして、好戦的な立場を復活させた。スペイン・ハプスブルク家(フェリペ3世)がオーストリア・ハプスブルク家(フェルディナント2世)を支持したという形である。フェリペ3世はその3年後に没した。

 日本とのつながり:慶長遣欧使節や徳川家康への贈り物

 1613年に仙台伊達藩がスペインとの貿易を求めて、慶長遣欧使節をヨーロッパへ派遣した。使節はメキシコを経由して、スペインに到着した。支倉常長の一行はフェリペに謁見した。常長のローマ行きも支援した。支倉常長らは教皇との謁見を経て、帰国した。その際に、フェリペは洋時計を贈与した。これは徳川家康を大いに喜ばせた。

フェリペ3世の評価

 長らく、フェリペ3世はスペイン史で目覚ましい成果を挙げず、怠惰であり、和平政策ゆえに臆病だと評されてきた。だが、この評価は変わりつつある。
 たとえば、怠惰という側面である。フェリペ2世の時代には、国王が通常自ら決定を下し、しばしば詳細な意見をそれぞれの専門の評議会に送り、さらに審議させた。 これにたいし、フェリペ3世の時代には、国王は評議会の勧告をコメントなしで受け入れることが多くなった。評議会は提案された方針を実行すべきであると述べるだけになった。
 そのため、フェリペ3世は怠惰だと評価されてきた。だが、フェリペ2世は、政府の細部にまで精通することに精一杯だった。広大な複雑なスペイン帝国の諸問題は国王一人で理解し背負い切れるようなものではなかった。

 よって、フェリペ3世はもはや国家の問題が一人で背負いきれないほど重くなったことを認識し、有能な官僚に責任を委ねるようになった。フェリペはレルマ公を信頼しただけでなく、官僚制を利用した王として評価されるようにもなっている。

 フェリペ3世と縁のある人物

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フェリペ3世の肖像画

フェリペ3世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

松原典子編『フェリペ3世のスペイン : その歴史的意義と評価を考える』上智大学ヨーロッパ研究所, 2015

立石博高編『スペイン帝国と複合君主政』昭和堂, 2018

Martha K. Hoffman, Raised to rule : educating royalty at the court of the Spanish Habsburgs, 1601-1634, Louisiana State University Press, 2011

William D. Phillips, Jr. and Carla Rahn Phillips, A concise history of Spain, Cambridge University Press, 2016

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