フランス革命における恐怖政治

 フランス革命において、ジャコバン派の恐怖政治は特に有名である。ギロチンによる大量処刑と内部粛清のイメージが強い。そこで、この記事では、恐怖政治とはどのようなものであり、その原因はなんだったかを明らかにする。

恐怖政治の背景:民衆の暴動や暴力

 恐怖政治の背景として、革命初期の民衆の暴動が重要である。たとえば、1792年9月の虐殺事件である。パリは侵略軍によって危機的状況にあった。大混乱の中で、民衆はパリの牢獄から1200人ほどの人々を連れ出した。民衆は裁判官と死刑執行人を自認して、彼らを虐殺した。このような民衆の残酷な暴動はフランス革命の初期から散見されていた。
 民衆の激烈な暴力や脅威を政府は抑え込む必要があった。 ジャコバン派の指導者ダントンはそのために恐怖を用いようと述べた。実際に、ジャコバン派はこのような方針をとることになる。

 別の背景:反革命の危機

 1793年には、フランス革命に反対する勢力が国内外で強力になった。国内では反革命の反乱が生じ、国外ではオーストリアとプロイセンが革命への干渉戦争を始めた。他の要因も重なって、革命政府は危機的状況に陥った。そこで、革命を守るために、恐怖政治を断行することになった。

 恐怖政治の展開

 いわゆるジャコバン独裁の中で、恐怖政治が展開された。恐怖政治を制度的に主導したのは、公安委員会と一般保安委員会だった。特に、ロベスピエールがそこで重要な役割を担った。
 革命政府は相当数の人々を処刑した。推計で、1793年から94年にかけて、だいたい17000人の男女がギロチンで処刑された。 裁判を待つ獄中での死者は約1万人だった。さらに、武装した反逆者にたいする即決の処刑も1万人ほどだった。

フランス革命の恐怖政治 利用条件はサイトにて
1793年の処刑

 革命政府は1794年6月の法律によって、裁判に大きな変更を加えた。裁判の審理前に被告人に尋問するという手順をなくし、裁判官の判決は無罪か死刑の二択のみと定められた。この法律は恐怖政治の重要な要素として知られている。というのも、この法律によって、ギロチンでの処刑が加速したと考えられてきたからである。

 恐怖政治の複雑さ:ジャコバン派以外の勢力にも支えられていたこと

 恐怖政治は主にジャコバン派と、特にロベスピエールと関連付けられてきた。この時期がジャコバン派の独裁の時期だったためである。
 だが、ロベスピエールがどれだけ恐怖政治の主導者だったのかについては、今日でも議論が割れている。ロベスピエールは危機的状況を乗り切るために、恐怖を利用すべきと訴えていた。だが、ロベスピエールが恐怖政治を導いたのか、それとも恐怖政治に導かれたのか。
 さらに、他の勢力も恐怖政治に寄与していた。ここで重要なのは、議会の法制委員会である。上述の公安委員会と一般保安委員会以外にも、法制委員会も恐怖政治で重要な役割を担っていた。
 法制委員会は、容疑者法などの主要な法を提案し、恐怖政治の法制度を構築した。それらの法案は、国民公会の議員たちによって採択された。そこでは、ジャコバン派は少数派でしかなかった。

 たしかに、ジャコバン派は恐怖政治を選択した。ほかの政治グループがそれを同様に支持した。よって、恐怖政治はジャコバン派だけの政策ではなく、国民公会の選択の結果だった。

 恐怖政治というイメージの利用:民衆の抑制のために

 恐怖政治は短期間で大量の人々を処刑知ったため、フランス革命のイメージの切り離せない一部になっている。
 だが、ここで注意が必要である。たしかに、革命政府は実際にギロチンの処刑のような暴力を行使した。だが同時に、暴徒化しかねない民衆に対して、このような暴力を威嚇のためにも利用した。上述の民衆のテロルにかんして、ダントンが述べていたようにである。
 すなわち、政府はギロチンでの処刑それ自体だけでなく、処刑の「恐怖」によって、彼らを抑え込もうとしたのである。そのために、自分たちが恐怖政治を行っていると大々的に喧伝した。

当時のギロチン

 よって、ジャコバン派の恐怖政治のイメージは実態以上に強烈なものとなった。たとえば、革命裁判所の裁判の実態をみてみよう。上述の革命裁判所に持ち込まれたほとんどの事件で、審理は不要だと定められていた。だが、実際には、人々は法的抗弁の機会を与えられた。
 全体として、革命裁判所が裁いた人々の半数強だけが死刑判決を受けた。死刑の執行がより厳格になった時期でも、被告の4人に1人は死刑を免れた。
 ロベスピエールらが主導した恐怖政治は従来考えられてきたよりも組織的で体系的なものではなかった。しばしば、場当たり的で、偶発的な出来事に依存していたのである。恐怖政治の仕組みは誰か一人の意志で構築されたものではなく、運営されたわけでもなかった。 

 革命家たちの恐怖と政治:内部粛清の嵐

 恐怖政治において、革命家たちが内部粛清を行ったことはよく知られている。ギロチンを民衆だけではなく、政治家にも向けた。かつては仲間だった政治家たちが互いをギロチン台に送りあったのである。
 このような内部粛清の被害者になるかもしれない。このような恐怖が政治家たちをより一層、恐怖政治へと駆り立てた。
 では、どのようにして政治家たちは互いをギロチン台に送りあったのか。どのような理由付けをしたのか。この点を理解するのに重要なのは美徳と陰謀の言説である。
 革命家たちは革命初期からこれを利用したが、ついにはそこから抜け出せなくなり、恐怖政治で自らその犠牲となった。その内実をみてみよう。

 美徳と陰謀の言説

 フランス革命では、革命家たちは美徳を市民に浸透させようとした。美徳が普及することで、市民が道徳的に改善し、国家が再生すると期待したのである。
 革命の政治家たちは、アンシャン・レジームの廷臣たちを美徳の対極に置いて、こう批判した。廷臣たちは腐敗し、利己的であった。個人的な野心やエゴイズムに基づいて、富や権力を得ようとし、ひそかに陰謀を企てる者だった、と。
 革命家たる政治家たちは自身が美徳の模範でなければならないと主張した。革命家たちは自身が政治的に透明な徳のある人間だと主張した。政治家のような公職にある者は、私利私欲のためではなく、公共の利益のために献身すべきである。ひそかに私利私欲のために行動し、革命の大義を裏切ってはならない。
 民衆は政治家たちが本当に美徳を備えているかどうか、国家のために奉仕しているかどうかを精査する権利を持つ。政治家たちは政治的に透明でなければならず、本当に美徳をもつことを示さなければならない。革命家たちはこのようにも論じた
 革命家たちはこのような美徳と陰謀の言説を共有した。さらに、政治的対立において、敵対者を攻撃するために、これを利用した。すなわち、ライバルを、革命を転覆させようと密かに企む陰謀家として、内なる敵として描き、権力の座から蹴落とそうとした。(かつての廷臣のような)陰謀家と、透明で有徳な革命家という二項対立がここに成立した。

 ロベスピエールが恐怖政治において、このような美徳の言説を利用したことは広く知られている。というよりも、ロベスピエールだけがこれを利用したと勘違いされがちである。だが、そうではなかった。
 たとえば、ジャコバン派は国民議会の時代から、自分たちを有徳な人物だと主張し、美徳の言説を活用し始めていた。立憲君主派のラファイエットとミラボーを、愛国心を装った内なる敵として糾弾した。
 オーストリアが革命ヘの干渉戦争を開始した後、ジロンド派は開戦を主張した。その際に、美徳と陰謀の言説を利用した。たとえば、オーストリアとの戦争ではなく和解を求める者を、祖国への裏切り者として糾弾した。

 美徳と陰謀の恐怖に駆り立てられて

 共和制に至り、恐怖政治が始まる。その中で、彼らはこの自分たちが利用してきた言説の犠牲者になっていく。
 恐怖政治では、政治家たちは逮捕され、裁判にかけられた。ほとんどのケースでは、彼らは革命にたいする陰謀という根拠で有罪判決をくだされた。その根拠が美徳と陰謀だった。
 彼らの中で、逮捕されたときに、武器をもっていた者はほとんどいなかった。彼らは自分自身が陰謀家ではなく、真に有徳な人物だと弁明した。だが、彼らの敵対者自身の介入により、彼らは裁判で陰謀家として描かれ、有罪が確定した。
 恐怖政治でも、このように、陰謀家が有罪であり、有徳な人物は無罪という定式が通用した。
 有徳か陰謀かという点は確かめにくい。基準が曖昧である。そのため、ライバルを蹴落とそうとする者にとっては、融通のききやすい便利な道具となった。
 だが同時に、これは自分自身にとっても危険な道具になりえた。というのも、内部粛清の嵐の中では、敵味方の入れ替わりが激しかっっためである。いつ同じやり方で自分が粛清されるかわからない。このような恐怖が内部粛清の嵐を悪化させた。実際にジロンド派やダントン派、そしてロベスピエール自身も同様の論理で処刑されるに至った。

 なぜ恐怖政治が起こったのか

 以上を踏まえながら、恐怖政治の原因について述べよう。この点は19世紀から今日まで議論されてきた。複数の見方がある。 
 たとえば、革命は恐怖政治を伴うものだという説である。フランス革命だけでなく、他の革命でもそうなのだ、と。
 あるいは、フランス革命の主体が下層民であり、下層民の運動は不可避的に恐怖政治に至るという見方である。これは革命に反対した保守派の見方である。
 他に、より学術的な議論としては、三つ挙げられる。
 第一に、恐怖政治は当時の革命家たちが直面した危機という状況が原因だったという見方である。反革命の勢力が国内外で台頭してきた。これらにたいして、革命を守るための必要な手段として、恐怖政治が採用されたという説である。
 第二に、恐怖政治は革命のイデオロギーの表れだという説である。たとえば、ルソーらの思想がフランス革命を支えた。彼の一般意志の概念などから、恐怖政治がうまれたというものである。
 第三に、革命家などの個人や感情に着目する説である。革命家たちの恐怖心などが恐怖政治を招来させたという説である。
 これら3つの組み合わせが恐怖政治の複雑な原因を説明しているといえる。

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→恐怖政治の主人公ロベスピエールの視点から、恐怖政治をみる

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おすすめ参考文献

Whiteman, Jeremy J., Reform, Revolution and French Global Policy, 1787–1791 (Aldershot, 2003)

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山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生』刀水書房, 2018

高橋暁生編『 「フランス革命」を生きる』刀水書房, 2019

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