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皇帝フランツ2世と神聖ローマ帝国:千年の帝国の夢はどう潰えたか

 フランツ2世は神聖ローマ帝国の最後の皇帝(1768-1835:在位は1792-1806年)。オーストリア帝国の創設者でもあり、オーストリア皇帝としてはフランツ1世を名乗った(在位1804-35)。フランス革命の勃発後に皇帝となり、革命への干渉戦争を行った。だが、帝国内の混乱とナポレオン戦争により、むしろ神聖ローマ帝国の歴史に終止符を打つことになった。オーストリア帝国では、メッテルニッヒを宰相として重用した。

フランツ2世(Franz Ⅱ)の生涯

 フランツ2世は神聖ローマ皇帝レオポルト2世の長男として生まれた。ハプスブルク家の出身である。フランツの生まれた頃、叔父のヨーゼフ2世が皇帝だった。
 ヨーゼフは彼自身の母のマリア・テレジアと共同統治を行っていた。フランツはこの叔父のもとで教育を受けた。

 フランス革命の勃発

 1789年、フランス革命が起こった。すぐにフランスの従来の封建制度が廃止され、人権宣言で新しいビジョンが提示された。1791年、フランスでは絶対王政が憲法の制定により、立憲君主制に移行した。

フランス革命と父レオポルト

 1790年、ヨーゼフ2世が没し、フランツの父レオポルト2世が皇帝に即位した。レオポルトは当初、フランス革命の理念に賛同していた。
 レオポルトはフランスには大胆な制度改革が必要だと感じていたためである。彼自身は所領のトスカーナで自ら法制度の改革を推進していた人物でもあった。
 フランス王妃マリー・アントワネットは有名なマリア・テレジアの娘であった。アントワネットは反革命の流れを生み出そうとした。レオポルト2世にも支援を依頼した。だが、レオポルトはこれを受け入れなかった。

神聖ローマ帝国での反応:オーストリアとプロイセンの同盟へ

 神聖ローマ帝国では、フランス革命に対して様々な反応が起こった。たとえば、フランスの自由を求める戦いに熱狂した者もいた。彼らは帝国においても、従来の封建制度を廃止する運動が生じるのを期待した。
 フランス革命では、都市民や地方の農民が暴動を起こし、革命家たちの議会に圧力をかけ、政治を動かそうとしていた。同様の動きが帝国の一部でもみられた。
 このような状況下で、レオポルト2世のオーストリア・ハプスブルク家とプロイセンがフランス革命に対する防衛協定を結んだ。
 この時期、オーストリアとプロイセンが神聖ローマ帝国の二大勢力だった。18世紀なかばから両者は領土争いなどを繰り広げていた。一時的に関係が修復されたこともあった。だが、両者は敵対関係を続けた。
 帝国内部の諸侯はどちらかの味方になったため、分裂が深まっていった。レオポルトが即位した頃には、ハプスブルク家の領地内で反乱も起こった。そのため、レオポルトは厳しい状況に置かれていた。
 そのような中で、フランス革命が起こった。そのような状況で、レオポルトは長年の宿敵プロイセンとの防衛協力を選んだのである。

フランツ2世の即位

 レオポルトは1790年に皇帝に即位したばかりだったが、1792年3月に没した。そこで、フランツ2世が即位した。彼はハプスブルク領の領地を相続し、ボヘミアとハンガリーの王にもなった。
 この頃には、フランスの情勢は変化していった。フランス革命は当初、王権を維持しながら、憲法を新設しようとしていた。だが、情勢が変化し、国王夫妻(ルイ16世とアントワネット)が議会によって幽閉された。
 アントワネットはフランツに救援を求めた。革命に反対する多くの(旧)貴族たちは帝国の領土に亡命し、庇護と支援を求めた。

第一次対仏大同盟

 オーストリアとプロイセンはフランス革命を失敗させるための干渉戦争について協議した。フランス議会では、これらの国と戦争すべきかが論じられた。開戦派が優位だった。
 1792年4月、フランツが即位すると,フランス議会はついにオーストリアに宣戦布告する。フランツはプロイセンとともに、フランスとの戦争を開始する。
 フランツらはフランス国内の貴族階級を守りつつ、政治的利益を得ることができると考えたのである。これは第一次対仏大同盟と呼ばれる。戦いは1797年まで続いた。
 当初、フランツらの同盟軍は連戦連勝だった。同年9月のヴァルミーの戦いで最初の敗北を喫した。同盟軍はまだこの干渉戦争に本腰を入れていなかった。フランツは帝国議会に対し、本腰をいれるよう求めた。
 その頃、フランスではついに王権が廃止された。フランスは共和制になった。ルイ16世とアントワネットは収監された。1793年、ギロチンで処刑された。
 この国王の処刑が干渉戦争へのイギリスの参加を後押しした。さらに、神聖ローマ帝国でも、反革命の機運を高めた。だが、同時に、フランス革命軍は封建制からの解放を訴えて帝国に進軍してきたので、それを歓迎する帝国の人々もいた。
 だが、帝国での革命支持者はフランス革命に幻滅していった。革命軍は彼らを抑圧するようになったためだ。さらに、革命軍は帝国内に支配地を築き、軍隊を駐屯させ、戦費の拠出を求めるようになったためでもある。パリのジャコバン派の恐怖政治の知らせが伝わってきたのも一因だ。
 その後も、フランス革命に好意的な人々は帝国内に一定数いた。だが、帝国内では、広範で組織的な革命運動は生じなかった。

 1794年末には、帝国の足並みが揃わなくなった。プロイセンはフランスとの講和条約を個別に進め、1795年にバーゼルの和約を結んだ。この戦いから離脱し、中立を宣言した。よって、帝国の北部は戦いから距離を取った。
 フランツ2世は戦いを続けたが、1797年にカンポ・フォルミオ和約でそれを終わらせた。

第二次対仏大同盟 

 1799年、オーストリアはフランスと再び戦争になった。第二次対仏大同盟が結成された。この戦いは1801年の ルネヴィルの和約まで続いた。フランスの勝利だった。
  ルネヴィルの和約では、ライン川左岸の帝国領がフランスの手に渡った。この地域は事実としてフランスに支配されていた。よって、その事実を追認する内容だった

帝国代表者会議主要決議

 1803年、ルネヴィル和約を受けて、帝国議会の代表者たちは「帝国代表者会議主要決議」を発表した。
 この決議は帝国の諸制度に根本的な変革をもたらした。それまでの伝統的な法的構造を一掃した。さらに、中規模以上の領邦が小規模な領邦を併呑する機会となった。少し詳しくみてみよう。
 ルネヴィル和約によって、ライン川が公式に神聖ローマ帝国とフランスの境界線になった。その結果、帝国の教会領が解体され、中規模以上の領邦国家にに編入された。ライン川左岸にあった多くの帝国領地はフランス領になった。
 大部分の帝国都市は自治権を失い、近隣の諸侯に併合された。ライン川右岸にあった約110の帝国領地が消滅したことになる。フランスに味方したバイエルンやバーデンなどの領地は、かつての6倍から9倍に拡大した。
 その結果、従来の帝国の基本的な法制度の多くが消滅した。あるいは、編入の際に、大胆に無視された。
 特に、その決議は帝国内の教会に大きな衝撃を与えた。具体的には、大部分の教会財産は領邦国家に吸収された。帝国で信教の自由が保証された。カトリックの聖職者は世俗の役職や特権を失った。司教が同じ地域の世俗領主を兼ねることはよくみられたが、そのような中世以来の仕組みが廃止された。
 フランツ2世と帝国議会はこの決議を公式に受け入れた。その結果、それまで皇帝と諸侯の関係を規定してきた諸制度を弱めることになり、帝国の実質的な解体が進んだ。

オーストリア帝国の誕生

 1804年、ナポレオンがフランスで皇帝となった。フランスは共和政から帝政に移った。その少し後、フランツ2世はオーストリア帝国を樹立した。フランツ1世として初代皇帝になった。

オーストリア帝国と神聖ローマ帝国の間で

 フランツは神聖ローマ皇帝の地位も引き続き維持していた。長い間、神聖ローマ皇帝の地位とオーストリア・ハプスブルク家の当主としての地位の関係は複雑で曖昧なものだった。
 後者としては、フランツはオーストリアやボヘミア、ハンガリー、ベルギーなどを支配していた。
 18世紀になっても、神聖ローマ皇帝としての地位は皇帝選挙の結果であった。16世紀以降ずっと、オーストリア・ハプスブルク家だけがこの皇帝の地位に選ばれてきた。
 その主な理由は、オーストリアなどの支配による財力や政治力にあった。そのため、オーストリア・ハプスブルク家としての利害は神聖ローマ帝国と切り離せないものでもあった。
 オーストリアと神聖ローマ帝国はそのような複雑で密接な関係にあった。それでも、フランツはオーストリア帝国を樹立することで、重心を神聖ローマ帝国からオーストリアに移したことが示された。神聖ローマ帝国がますます解体に向かっていたためだった。

 第三次対仏大同盟

 1803年、フランツは第三次対仏大同盟を結成し、再びナポレオンと戦った。これは1806年まで続いた。
 この戦いでは、神聖ローマ帝国は分裂していた。バイエルンやバーデンなどはフランスに味方して、フランツにたいして武器を取った。フランツは1805年末のアウステルリッツの戦いで大敗を喫した。
 1806年、和平条約に至った。これにより、オーストリアはドイツで大きな領土を失った。バイエルン選帝侯とヴュルテンベルク選帝侯が王になった。すなわち、彼らの領邦は王国に格上げされた。
 神聖ローマ帝国の中規模の領邦はそれまでのように周辺の領土を確保していった。いまや、プロイセンは明らかにドイツ北部の全域を支配した。ドイツ南部はフランスの保護下に置かれた。 こうして、帝国の小規模の領邦は政治的な自律性を完全に失った。

 神聖ローマ帝国の終焉

 1806年7月、ナポレオンはライン同盟を結成した。フランスの保護下にある多くの諸侯がこれに参加した。彼らは帝国議会で、神聖ローマ帝国からの正式な離脱を宣言した。
 その直後、ナポレオンはフランツ2世にたいして、神聖ローマ皇帝からの退位の最後通牒を突きつけた。
 1806年8月6日、フランツ2世は神聖ローマ皇帝からの退位を宣言した。さらに、この帝国の解体を宣言した。かくして、神聖ローマ帝国は消滅した。

 その後

 フランツ2世はオーストリア皇帝として、ナポレオンに歩調を合わせるよう余儀なくされた。だが、ナポレオンが戦争で敗北すると、ウィーン体制に移る。そこでは、宰相メッテルニヒを用いて、反動政治を行った。

 フランツ2世と縁のある人物や事物

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 フランツ2世の肖像画

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 おすすめ参考文献

Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire Volume II The Peace of Westphalia to the Dissolution of the Reich, 1648-1806, Oxford UP, 2011

R.J.W. Evans (ed.), The Holy Roman Empire, 1495-1806 : a European perspective, Brill, 2012

Barbara Stollberg-Rilinger, The Holy Roman Empire, Princeton University Press, 2018

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