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プロイセンのフリードリヒ2世:ドイツを列強に押し上げた大王

 プロイセンのフリードリヒ2世は18世紀のプロイセン国王(1712ー86)。在位は1740ー86年。プロイセンを戦争や制度改革などによって一大強国へと押し上げた。啓蒙専制君主の典型として知られ、大王の名でも呼ばれる。隣国オーストリアの女帝マリア・テレジアと再三戦い、勝利し続けた。

フリードリヒ2世(Friedrich II)の生涯

 フリードリヒ2世はドイツのベルリンで、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と英国王ジョージ1世の娘の間に生まれた。
 幼少期から、フリードリヒは父と対立し、しばしば暴力を受けながら育った。オランダに逃亡しようとしたが、失敗した。その結果、地方の下級役人として働かせられた。

啓蒙思想への関心:ヴォルテール

 フリードリヒは父との関係を多少改善させ、フランスとの戦いに従事した。その後、ラインスベルク城に隠居し、読書に打ち込んだ。フリードリヒは学芸への関心を深めた。
 この時代、フランスではヴォルテールらによって啓蒙主義思想が発展していった。フリードリヒは早くもその思潮に気づき、ヴォルテールを招いて師事した。

 さらに、フリードリヒは自ら『反マキァヴェリ論』という著作を公刊した。マキャベリは16世紀イタリアの政治家および哲学者である。『君主論』などの著作を公刊していた。

 法や道徳よりも国益を優先すべきといった主張や、政治の世界では嘘や欺きも方便といった主張がマキャベリズムとしてヨーロッパ中で批判を惹起していた。フリードリヒの『反マキァヴェリ論』もまたその一環の著作である。

 また、フリードリヒは音楽にかんしても関心を深め、ソナタなどを自ら作曲するようになったほどだった。

プロイセン王へ

 1740年、父が没し、フリードリヒがプロイセン王に即位した。
 同年、オーストリアのハプスブルク家では、神聖ローマ皇帝カール6世が没した。カールには男性の後継者がいなかったので、娘のマリア・テレジアがその後継者であると宣言した。だが、これが問題を引き起こした。

 そもそもカール6世は生前、マリア・テレジアがハプスブルク家の所領(オーストリア・ボヘミア・ハンガリー)を継承するのにたいして、周辺国が反対することを恐れていた。
 そのため、このような反対が生じないよう、様々な外交努力を行っていた。だが、マリア・テレジアが実際に後継者として宣言した際には、フリードリヒ2世などはこれに反対の声をあげた。

 フリードリヒはこの状況をプロイセン拡大のチャンスとみた。その背景として、当時、オーストリアのハプスブルク家はロシアと同盟を組み、オスマン帝国との戦いによって疲弊していた。ロシアでは、後継者問題が起こっていた。神聖ローマ帝国では、カール6世の次の皇帝を決めている最中だった。
 イギリスやフランス、スペインなどはアメリカでの戦いに従事していた。よって、プロイセンがオーストリアにたいして戦争を開始しても、それらの国はプロイセンへの敵対的な軍事行動を起こす余裕がないだろうと思われた。

 マリア・テレジアとのオーストリア継承戦争

 このような状況をみて、フリードリヒはオーストリアに攻め込むなら今だと判断した。よって、テレジアの継承問題を口実にしつつ、当時ヨーロッパで最強といわれたプロイセン軍をオーストリアのシュレージエンに派遣した。
 オーストリア継承戦争の始まりである。ここから、中欧でのプロイセンとオーストリア・ハプスブルク家の覇権争いが始まる。

 フリードリヒがこの戦いでいったん勝利を収め、1742年にベルリン条約を結んだ。これにより、フリードリヒはシュレージエンを獲得した。だが、テレジアは諦めなかった。シュレージエンを奪い返すために、体制を整えていった。

 そこで、1743年、フリードリヒは先手を打って、ボヘミアでテレジアの軍に攻撃を仕掛けた。一進一退ののち、1745年にドレスデン条約が結ばれた。これにより、プロイセンのシュレージエン支配が正式に認められた。

 それでも、テレジアはシュレージエンを諦めていなかった。これを奪取するために、再び体制を整え始めた。この頃、ロシアではプロイセンへの警戒心や敵愾心が高まっていた。

 よって、テレジアはロシアと接近した。テレジアとフリードリヒの戦いは再び始まった。ほかにもフランスやイギリス、オランダなども参戦し、敵対関係は複雑に錯綜した。1748年のアーヘン条約によって、オーストリア継承戦争は終わった。

 オーストリア継承戦争は当時のヨーロッパ大陸とアメリカ大陸での複雑な対立関係を背景にしていたため、このように長引いた。
 その背景として、ヨーロッパ列強は16世紀の大航海時代に、アメリカ大陸や東アジアに進出し、植民地を形成していった。アメリカでは、スペインやポルトガルが中南米を植民地化した。

 17世紀に、オランダやイギリスとフランスが中南米への進出を試みた。だが、スペインとポルトガルの反撃によって、失敗した。、それでも、オランダなどはカリブ諸島や北米に植民地を形成し始めた。

 18世紀に入り、イギリスとフランスがこの熾烈な植民地競争の主役となっていた。北米では、イギリスはフランスと経済的に競争するだけでなく武力で戦うようになった。また、北米でスペインとも戦争した。

 オーストリア継承戦争において、これらの国はオーストリアあるいはプロイセンに協力するために参戦したというより、自分たちの思惑と利害のために参加していた。
 そのため、戦争当時国の数と規模がヨーロッパを超えて拡大し、戦争が長引いた。ただし、この戦争では、それぞれの国の植民地での戦争はヨーロッパでの戦争と連動していなかった。

 新たなる国際紛争の気配

 オーストリア継承戦争の後も、国際紛争の火種は消えなかった。英仏の対立は続き、たとえば1751年にインドで武力衝突に突入していた。イギリスはフランスと対立を深めていった。フランスと対抗するために、ロシアやオーストリアに接近するように思われた。

 1756年、イギリスはフランスとそれぞれの北米植民地で戦争を開始した。フレンチ・アンド・インディアン戦争である。この時、フリードリヒはフランスと一応の協力関係を結んでいた。
 だが、フリードリヒはイギリスを敵に回さないようにするために、北米植民地での戦争には関与しないことを決定した。フランスのルイ15世はこのフリードリヒの決定に激怒した。

 このタイミングで、テレジアはフランスに接近した。これは当時のヨーロッパでは衝撃的な出来事だった。その背景として、オーストリア・ハプスブルクとフランスは100年以上も敵対関係にあった。いわば先祖代々の敵同士だった。

 だが、テレジアは宰相の提言により、宿敵プロイセンと戦うためにフランスとの同盟を模索することを決めた。フリードリヒとルイ15世の関係が悪化したこのタイミングで、テレジアはフランスと同盟を組むのに成功した。これは外交革命とも呼ばれている。

 7年戦争

 よって、フリードリヒは、テレジアのオーストリアがロシアとフランスとともに戦争を仕掛けてくると危惧した。そこで、1756年、先手を打って、オーストリアに戦争を仕掛けた。7年戦争の始まりである。

 そこから、フリードリヒはこれらの国やスウェーデンなどと一連の戦争を行った。財政的に疲弊し、大敗を喫するなどの危機に陥った。ロシア軍はプロイセンの首都ベルリンにまで迫ってきた。

 さらに、イギリスはフリードリヒへの支援よりもフレンチ・アンド・インディアン戦争に力を注ぎたかった。そのため、1761年にはフリードリヒへの財政支援を打ち切った。
 それでも、フリードリヒはオーストリアなどの同盟軍の緩みを利用するなどして、どうにかこの危機に耐えた。

 1762年、フリードリヒにとって好ましい出来事が起こった。ロシアで皇帝が没し、ピョートル3世が新たな皇帝となったのである。彼はフリードリヒ2世を優れた君主として崇拝していた。

 そのため、プロイセンとロシアは休戦協定に至った。オーストリアとプロイセンはどちらも疲弊していったため、和平交渉に向かった。かくして、1763年に、7年戦争は終わった。

 7年戦争の根本的な原因はフリードリヒのプロイセンとテレジアのオーストリアの対立にあった。だが、この戦争もまたオーストリア継承戦争と同様に、多くの関係国がそれぞれの思惑と利害で参加した戦いだった。

 7年戦争はオーストリア継承戦争と異なり、アメリカなどの植民地での戦争がヨーロッパでの戦争と連動した。戦争は戦地以外にも影響を与えた。それぞれの国民が戦費の負担などを通して戦争に動員されたのである。そのため、7年戦争は「最初の世界大戦」と呼ばれることがある。フリードリヒはその中心人物だった。

 ポーランド分割:エカチェリーナ2世やヨーゼフ2世とともに

 1772年、フリードリヒ2世はロシアのエカチェリーナ2世やオーストリアのヨーゼフ2世とともに、ポーランドを分割した。1760年代にポーランドが分裂に陥っていた状況をフリードリヒが利用したものだ。
 これにより、プロイセンは自国の西部と東部を新たな領土で結びつけることができた。フリードリヒ2世の軍事的名声はヨーロッパで高まった。

啓蒙専制君主の内政

 他方で、フリードリヒの内政政策にかんする評価は一様ではない。ある面では、啓蒙専制君主の名にふさわしい啓蒙的政策を行ったとされる。言論の自由や信仰の自由を認めたことや、農業や産業の振興策などについてそのように評される。

 だが、フリードリヒの政策は大部分で保守的だったと評されることもある。貴族などの身分制が守られたこと、経済政策は重商主義であったこと、王立銀行の設立などはあまり効果がなかったこと、農奴解放にあまり成功しなかったことなどが挙げられる。

フリードリヒ2世と縁のある人物

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フリードリヒ2世の肖像画

プロイセンのフリードリヒ2世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

屋敷二郎『フリードリヒ大王 : 祖国と寛容』山川出版社, 2016

Henry Duff Traill(ed.), History of Friedrich II of Prussia, called Frederick the Great, Cambridge University Press, 2010

Helmut Walser Smith(ed.), The Oxford handbook of modern German history, Oxford University Press, 2015

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