二葉亭四迷は明治時代の小説家で翻訳家(1864―1909)。明治文学の黎明期に『浮雲』を公刊し、近代リアリズム文学の始まりを告げた。また、言文一致運動に大きく寄与した。ロシア文学の紹介も行った。その後、19世紀末に日露関係が悪化する中で、これからみていくように、ロシアの専門家として活動した。
二葉亭四迷(ふたばていしめい)の生涯
二葉亭四迷は江戸で尾張藩士の家庭に生まれた。本名は長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)である。少年期に漢学を学んだ。彼が生まれた時代はまさに幕末であり、西洋列強が日本に進出してきた。その中でも、彼は特にロシアの南下政策に危機感を抱いた。そのため、当初は軍人を志した。だが、陸軍士官学校の受験で失敗を重ねた。
そこで、二葉亭は外交官の道を志し、1881年、東京外国語学校に入り、ロシア語を学んだ。ロシア文学に惹かれるようになった。1886年に中退した。
小説家や翻訳者としての活躍:『浮雲』
二葉亭は小説家の坪内逍遙(つぼうちしょうよう)を訪ねた。坪内の勧めで、『小説総論』を公刊し、リアリズム文学こそ進むべき道であることを明確に示した。さらに、1887年、実際に自らリアリズム小説の『浮雲』の第一編を公刊した。本書は日本での近代的なリアリズム小説の始まりとして重要な著作となった。
1888年、二葉亭は『浮雲』の第二編を公刊した。さらに、ロシア作家ツルゲーネフの著作も和訳し、『あひびき』として公刊した。翌年には『浮雲』第三編と、翻訳『めぐりあひ』を公刊した。かくして、画期的な小説のみならず、ロシア文学の紹介という点でも活躍した。
言文一致運動
『浮雲』は言文一致運動においても重要な役割を果たした。背景として、長らく、話し言葉と書き言葉が厳格に区別されていた。だが、明治時代に識字率が高まるにつれて、この区別を不便に思う人々が増えてきた。その一人が二葉亭だった。そこで、彼は書き言葉を話し言葉に近づける言文一致運動を展開した。二葉亭は「だ調」の新たな文体を試みた。
父の反対と筆名の由来
しかし、彼の父はこのような文学活動に反対した。そのため、彼に対して「くたばってしめい」(死んでしまえ)と痛罵したという。この「くたばってしめい」が二葉亭四迷の筆名の由来だといわれている。
語学力を活かして:ロシアそして中国へ
二葉亭は文学で一定の成功を収めたにも関わらず、文学の価値を疑うようになった。そこで、1889年、筆を置いて、内閣官報局につとめた。語学力をいかして、英字新聞やロシア語新聞の和訳を行った。1897年に辞職し、1898年に陸軍大学校のロシア語学の教授となった。1899年には東京外国語学校教授となった。
この頃、日露関係は朝鮮や中国での権益をめぐって緊迫していた。とくに、1895年の日清戦争後に、ロシアが日本の中国進出を妨げ、自ら中国進出を果たしたことで、両者の関係は悪化していった。
1902年、二葉亭は日露関係の問題により直接関わるために、教授を辞した。ロシアのウラジオストクにわたり、徳永商店のハルビン支店につとめた。その後、中国に移り、北京で日本人による警察学校につとめた。1903年、帰国した。翌年、日露戦争が始まることになる。
再び小説へ
帰国後、二葉亭は朝日新聞社に入った。かつての小説家としての腕を見込まれ、小説執筆を再開するよう勧められた。そこで、1906年、『東京朝日新聞』に小説『其面影(そのおもかげ)』を連載した。これが好評を博したため、『平凡』を執筆した。
1908年、二葉亭は朝日新聞のロシア特派員として、サンクトペテルブルクへ移った。だが、病にかかり、帰国を余儀なくされた。帰路の船上で没した。
二葉亭四迷の『浮雲』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
『出産』の朗読の動画
二葉亭四迷の肖像写真

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
二葉亭四迷と縁のある人物
●尾崎紅葉:二葉亭と同じ時期に言文一致運動を展開した作家。この時期の代表的な文学者でもある。二葉亭が「だ調」を試みたのにたいし、尾崎が試みて現在も使用されている文体とは・・・。
二葉亭四迷の代表的な作品
『小説総論』(1886)
『浮雲』(1887−89)
『あひびき』(1888)
『めぐりあひ』(1889)
『其面影』(1907)
『平凡』(1907)
おすすめ参考文献と青空文庫
松枝佳奈『近代文学者たちのロシア : 二葉亭四迷・内田魯庵・大庭柯公』ミネルヴァ書房, 2021
※二葉亭四迷の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person6.html)