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ガレノス:西洋医学の源流

 ガレノスは古代ローマ時代の医者で医学者(129ー217)。動物の解剖を通して、解剖学や生理学の発展に大いに寄与した。ヒポクラテスととおもに、中世からルネサンスまでの西洋やアラビアの医学に多大な影響をもった。この記事では、ガレノスの医者や医学者としての活動やその影響をみていく。

ガレノスの生涯

 ガレノスは129年にペルガモンで建築家の家庭に生まれた。プラトンやアリストテレスの哲学を学び、医学を学んだ。
 ガレノスは20歳になる前に、父が没したため、父の遺産を継承した。ガレノスはイズミルやアレクサンドリアなどで医学の留学をした。当時、アレクサンドリアは医学の中心地として有名だった。
 157年、ガレノスは故郷に戻った。剣闘士団の医師になり、実務経験を積んだ。これは当時において名誉ある職だった。同時に、医学研究を進めた。
 ガレノスは古代ローマ帝国の医者としては、例外的に恵まれた境遇にあった。当時のローマ帝国では、医学を修める者の多くはギリシア人奴隷であった。よって、ガレノスが裕福な親のもとにうまれ、幅広い教育を受けることができたのは例外的であり、幸運だった。 

 ローマへ

 162年、30代に入った頃、ガレノスはローマに移った。ローマでは、医者や学者として活躍した。生体での公開解剖や、公開討論での豊かな学識や卓越した弁論術などにより、名声を高めていった。
 166年、ガレノスは故郷に戻った。当時のローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、名医としての評判が高いガレノスに、軍事作戦に同行するよう求めた。『自省録』で有名な賢帝である。

 だが、疫病の流行により、アウレリウスは軍隊の駐屯地からローマに戻った。ガレノスはローマで彼に謁見することになった。その後、アウレリウスはガレノスを宮廷医師にした。217年頃に没するまで、ガレノスはローマで活動した。

ガレノスの医学

 ガレノスは古代ギリシャの医者ヒポクラテスと、哲学者プラトンそしてアリストテレスの理論に基づいた。その貢献は主に解剖学と生理学で知られている。

解剖学

 ガレノスは様々な解剖を行った。豚、羊、猿などの動物を解剖した。解剖の主な目的は外科技術の向上と医学の発展にあった。ガレノスは心臓の弁や動脈と静脈などの研究で功績をあげた。
 当時、人体解剖は例外的にしか認められていなかった。アレクサンドリアでの例が存在したが、ガレノスは行わなかった。
 ガレノス自身は動物の解剖だけを行い、その観察結果をもとに動物や人間の身体にかんする理論を深めた。
 その背景として、当時のアリストテレス理論では、動物と人間には連続性があると考えられた。よって、動物の解剖結果から人体にかんする洞察を得ることが正当だと考えられた。
 ガレノスは動物の生体解剖を行った。私的な場だけでなく、公の場でも行った。 生体解剖を行った理由として、生体の機能を理解するためには、死体から得られる知識だけでは不十分だというものもあった。

生理学:四体液説

 ガレノスはヒポクラテス理論に基づいて、四体液説を支持した。4つの体液とは、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液である。ヒポクラテスはこれらの体液バランスの良し悪しが健康を左右すると論じていた。

 ガレノスはこれを踏襲した。ただし、ヒポクラテスは体液のバランスの問題が特定の臓器だけに存すると論じたのにたいし、ガレノスはこれが体全体にも存すると論じた。ガレノス理論が後代に引き継がれた。

 著述活動

 当時の都市ローマでは、多くの医者が活発に活動していた。すでにローマの医学界には複数の権威がおり、互いに活発な論争を繰り広げていた。野心的なガレノスはこの中に飛び込んだ。そのため、ガレノスの医学的な立場や見解は大きな偏りがあった。
 上述のように、ガレノスは哲学なども広く学んでいた。修辞学にも長けていた。それらの幅広い学識という点で、医者としては例外的な人物だった。ガレノスはこの長所を活かして、多くの著作を執筆した。ギリシャ語で20冊ほどにおよぶ。
 この多産な著者というのも、ガレノスの特徴である。ガレノスはローマの医学界の激しい競争のなかで、より多くの読者を得るため、あるいは自分の権威を示すためにも執筆した。

 ガレノスの症例

 ガレノスの著作について、より具体的にみてみよう。たとえば、ガレノスの症例記録でもある『予後について』である。本書は彼自身の評判を高めるために書かれた。患者よりも他の医師と読者を念頭に置いている。
 本書において、ガレノスは他の医者と自分の違いを強調する。彼によれば、通常の医者たちは、患者の病気が次にどうなるかを予測できないという。ほとんどの医者は医学の正確な知識を身につける代わりに、パトロンを有色の食卓などで喜ばせることに時間を費やす。
 だが、ガレノスは医学的知識と経験をもつので、病気の予測ができる、と。
 ガレノスの症例を一つみてみよう。ある女性が産婦人科の病で激しい痛みに襲われた。ガレノスがそこに呼ばれた。ガレノスは女性の腹筋の感触を確かめるなどして、治療方法を決めた。
 ガレノスは彼女の体を蜂蜜でこすり、膀胱からだけでなく、皮膚から余分な体液を取り除こうとした。この治療法は17日間続き、症状が改善した。

 ガレノスの遺産と影響力:ヒポクラテスとともに

 ガレノスの著作はギリシア語で書かれた。その後、アラビア語、シリア語、ラテン語など多くの言語に翻訳された。ギリシア語の原典は失われてしまった。

 ガレノスはヒポクラテスとともに、中世とルネサンスの西洋医学に大きな影響をもつことになる。あるいはルネサンスをこえて、19世紀まで、医学の理論、教育、実践において重要な位置を占めてきた。
 そのため、西洋医学の基礎をつくり、古典的な時代を築いたと考えられてきた。
 ガレノスについて、解剖実験と薬理学は、体系的な人体理論と論理的厳密さへのこだわりとともに、経験的観察と健全な推論という理想的な方法論の組み合わせを確立したと考えられた。

ルネサンスでの再発見と批判:ヴェサリウス

 西洋ではルネサンスの時代に、古典古代の文献が高く評価されるようになった。ガレノスの著作もまた注目され、収集されるようになった。15世紀後半には、ガレノスのギリシャ語の原典が公刊されるようになり、解剖学者として脚光が集まるようになった。
 だが、16世紀なかば、ベルギーの解剖学者ウェサリウスが人体解剖などをとおして、ガレノスの解剖学理論を批判した。17世紀には、イギリスのハーヴェイがガレノスの生理学を批判した。かくして、その権威は揺らいでいった。ただし、19世紀までは残った。
 

ガレノスの影響?

 ここでガレノスの影響力や遺産を知るうえで、注意点がある。現存する古代の医学文献の数は、他の科学的文献の場合よりも、はるかに多い。
 だが、それは書かれたもののほんの一部に過ぎない。医学文献の選別の過程は、古代においてすでに始まっていた。この選別が、その後、西洋医学史にかんする認識を大きく形成してきた。
 この点で、いわゆる『ヒポクラテス全集』がヒポクラテス以外の著者の文献を多く含んでいることはよく知られている。
 ガレノスの場合、上述のように、ガレノスは他の医学者としばしば論争を繰り広げていた。ガレノスはライバルの医師を中傷し、自らの影響力を確保しようとした。
 その結果、ガレノスの著作の多くが継承されることになった。反対に、他の医者たちの著作は排除され、忘れ去られていった。かくして、古代後期の医学のほとんどが「ガレノス主義」のレッテルを貼られることになった。
 ヒポクラテスとガレノスという二人の人名が古代ギリシャ・ローマの医学の象徴として機能し始めた。「ヒポクラテス」や「ガレノス」という言葉はしばしば非常に広い意味で使われ、時にはほとんど無意味なまでに使われることもある。
 近年になってようやく、このような弊害が解消され始めた。ディオクレスやプラクサゴラスなど、ヒポクラテスやガレノスとは異なる古典古代の医学文献の存在に対する評価が高まっている。
 このように、一般的にガレノス理論として知られるものは、厳密にはガレノスに由来するかが判然としないこともある。

ガレノスと縁のある人物

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https://rekishi-to-monogatari.net/hipp3

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https://rekishi-to-monogatari.net/arisswr

ガレノスの肖像画

おすすめ参考文献

二宮陸雄『ガレノス自然生命力』平河出版社, 1998

Mark Jackson(ed.), The Oxford handbook of the history of medicine, Oxford University Press, 2013

Andrew Erskine, A companion to ancient history, Wiley-Blackwell, 2013

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