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フランシスコ・デ・ゴヤ:近代スペインの絵画

 フランシスコ・デ・ゴヤはスペインの画家(1746ー1828)。スペインの代表的な画家の一人として知られる。王立タペストリー工場で働いた後、次第に画才を認められた。カルロス4世のもとでは宮廷画家をつとめるなど、華麗なキャリアを歩んだ。代表作には、「カルロス4世とその家族」などがある。だが、あの革命の影響を受け、最晩年には祖国を去ることになる。

ゴヤの生涯

 ゴヤはサラゴサ近くで職人の家庭に生まれた。母は貴族出身だった。10代なかばに、サラゴサで3年間、絵画を学んだ。
 その後、ゴヤは官費でのイタリア留学旅行を目指した。だが、マドリードでのコンクールに落選したため、奨学金を獲得するのに失敗した。そこで、1770年、ゴヤは自費でイタリア旅行を敢行した。ヴェネチアやミラノなどを訪れ、ローマに滞在した。古典古代の彫刻やフレスコ画などから多くの刺激をえた。

 1771年にゴヤは帰国し、画家としてのキャリアをスタートさせた。教会や礼拝堂で宗教画などを描いた。次第に名声を得ていった。1773年には、宮廷画家の妹と結婚した、それほど画家としての腕を認められていた。ゴヤはマドリードに移った。

 画家としての開花:タペストリー工場

 1775年、マドリードでは、ゴヤはまず王立向けのタペストリー工場で、下絵の制作に従事した。この工場は新設されたばかりであり、宮廷画家の推薦でゴヤはそこに雇われた。
 この時期には、『サン・イシドロの牧場』などの作品が有名である。エル・エスコリアル宮殿などのために下絵を描き続けた。狩猟が好まれた題材だった。また、王立コレクション所蔵のベラスケスの絵画の複製を制作した。ベラスケスはスペイン・バロック美術で最大の巨匠である。ゴヤは下絵の出来を評価され、名声を得るようになった。

 1780年代の活動

 1780年、ゴヤはキリストの磔刑で王立美術アカデミーにも入会できた。
同年、ゴヤはサラゴサに移った。教会のフレスコ画を描いた。ただし、教会に依頼された絵画が不満足な出来だと評価されるなど、必ずしも順風満帆ではなかった。
 同時に、ゴヤは肖像画を本格的に描くようになった。オスナ公爵はゴヤの画才に惚れ込み、有力なパトロンとなった。ゴヤはそのもとで、肖像画や宗教画などを多数制作した。この時期はタペストリーの下絵には従事していなかった。

 宮廷画家へ

 1786年、ゴヤは国王カルロス4世の宮廷画家に選ばれた。王立タペストリー工場での下絵制作を再び行うようになった。
 王侯貴族の肖像画を描き、彼らと交流をもった。 彼らの知的サークルに出入りするようになり、貴族や学者や芸術家と広く交流を持つようになった。その人脈により、様々な仕事を引き受けると同時に、知的刺激も得た。 
 だが、1792年、ゴヤは重い病気にかかった。タペストリー工場での作業で有害な物質にさらされ続けてきたのも一因だったようだ。その後回復していくが、聴覚障害は治らなかった。

 だが、彼の躍進は続く。1795年には王立美術アカデミーで絵画の総裁に選ばれた。この頃にも、肖像画や教会のための絵画などを描いた。有力パトロンに恵まれ、旅芸人を主題とした作品を制作するなど、自律的に活動することもできた。さらに1799年には王室の首席画家に登りつめた。

 ゴヤはこの時期に、肖像画の中でも代表作として知られる『カルロス4世とその家族』や、『裸のマハ』と『着衣のマハ』などを制作した。その他にも王侯貴族やブルジョワ市民の肖像画を数多く描いた。

この時期の作品

ほかにも、教会の天井画や、精神病院を描いたもの、社会風刺の版画集『気まぐれ』などを制作した。

ゴヤの気まぐれ 利用条件はウェブサイトで確認
『気まぐれ』より

彼の活動は多産であり、多様でもあった。この時期が画家としての最盛期だった。

ゴヤの自画像

フランシスコ・デ・ゴヤ 利用条件はウェブサイトで確認

 ナポレオン戦争の影響:スペインの危機の中で

 ゴヤが宮廷画家に選ばれた1789年、フランスでは革命が起こった。その後、周辺国はこれを妨害しようとして介入し、フランスは防衛から反撃に転じた。革命の混乱の中でナポレオンが台頭し、皇帝に即位した。ナポレオンの進撃は続き、スペイン王権を打ち倒した。
 だがナポレオンの支配から独立する動きも現れ、1808年から1814年まで戦争が続いた。ゴヤはこの時期の自由主義的なカディス憲法を支持した。さらに、そのような状況下で、スペインのために愛国的な動機で絵画を制作した。

 たとえば、1808年5月2日と3日のスペインの英雄的な出来事を『5月2日の蜂起』や『5月3日の処刑』として描いた。同時に、戦争の悲惨さを痛感して、『戦争の惨禍』を描いた。ゴヤは戦争中に妻を亡くしていた。

ゴヤの『戦争の惨禍』 利用条件はウェブサイトで確認
『戦争の惨禍』より

 最晩年

 ナポレオン戦争は1815年のワーテルローの戦いで終わった。ヨーロッパはウィーン会議をへて条約を結び、正統主義を選び、かつての国際秩序を部分的に回復することになった。だが、スペインではすぐに政治が正常化したわけではなく、混乱が続いていた。

 ゴヤは1815年頃には宮廷から遠ざかることになった。社会批判の作品や肖像画、教会のための作品を制作し続けていた。1819年には家を購入した。その壁に、運命や人間の悪にかんする「黒い絵」を描いた。

 1824年、おそらく弾圧されるのをおそれ、フランスのボルドーに移った。ただし、没するまでにマドリードの家族を何度か訪れている。1828年に没した。

 こういう面白い解説もあります

美術評論家として人気の山田五郎さんがYoutube公式チャンネルにてお送りするゴヤの解説

 ゴヤと縁のある人物や事物

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ゴヤの代表的な作品

『着衣のマハ』 (1798―1805)
『裸のマハ』 (1798―1805)
『ロス・カプリチョス』 (1799)
『カルロス4世とその家族』 (1800)
『1808年5月2日の蜂起』 (1814)

おすすめ参考文献

千葉成夫『絵画の近代の始まり : カラヴァッジオ、フェルメール、ゴヤ』五柳書院, 2008

大高保二郎編『ゴヤの世界』ゴヤ銅版画普及事業組合, 1989

Rose-Marie and Rainer Hagen, Francisco de Goya, 1746-1828 : on the threshold of modernity, Taschen, 2016

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