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ハインリヒ・ハイネ:愛と革命の詩人

 ハインリヒ・ハイネはドイツの詩人や評論家(1797―1856)。フランス革命後の動乱のヨーロッパにおいて、詩や風刺文を次々と公刊した。『歌の本』が代表作である。愛と革命の詩人として知られている。祖国ドイツの反動を痛烈に批判し、当時の社会主義の影響も受けながら、ロマン主義の流れにも属した作品を残した。

ハイネ(Heinrich Heine)の生涯

 ハインリヒ・ハイネはドイツのデュッセルドルフでユダヤ人商人の家庭に生まれた。当初は、父と同じ商人の道を進もうとした。だが、挫折した。

 1819年、ハイネはボンに移り、ボン大学で法律を学んだ。その後、ゲッティンゲン大学やベルリン大学で学んだ。文学や歴史にも関心をいだいた。在学中に、詩作を始めた。その時期に、ヘーゲルやシュレーゲルの講義を聴講した。
 1825年、法学の学位を得た。よい就職口を得るために、プロテスタントに改宗した。だが、法律関連のよい職を得られなかった。

 詩人や作家としての活躍

 そのかたわら、ハイネは『ベルリンからの手紙』などを執筆し、文学活動にもはげんだ。旅の紀行文や子供の頃の思い出なども扱った『旅の絵』や恋愛の詩集『歌の本』を公刊した。『旅の絵』は風刺的性格のために発禁となったが、同様のジャンルの著作が普及していった。

 処女詩集の『歌の本』

 『歌の本』は叔父の娘への恋という経験に由来する作品である。本書はすぐにベストセラーになり、ハイネの名声を一挙に高めた。
 本書はロマン主義の詩でよくみられた題材や技巧がみられる。たとえば、実らぬ片思いというテーマが強迫観念のように迫ってくる。その意味で、ロマン主義的である。
 しかし、ハイネは一世代前のロマン主義者の詩人とは異なる面もあった。一世代前のロマン主義者は、革命や不安といったものを克服しようとして、世界や人生にかんする詩を制作した。だが、ハイネはそのような詩の理想の側面にたいして懐疑的な態度をとった。詩がいかに無力なものかを痛感しながら、同時に、詩がいかに力強いものかを感じていた。

メンデルスゾーンの楽曲へ

 『歌の本』の中の詩「歌の翼に」は、のちに、ドイツの著名な音楽家フェリックス・メンデルスゾーンによって曲をつけられた。

「歌の翼に」を聞く(画像をクリックすると始まります)

「ローレライ」

 同様に、『歌の本』の中の詩「ローレライ」もまた、のちに曲をつけられた。民謡を駆使したこれも有名な歌曲である。

「ローレライ」を聞く(画像をクリックすると始まります)

 パリへの移住

 1830年、フランスで7月革命が起こった。ハイネはこれに影響を受けた。また、ハイネはドイツ批判を展開し、身の危険を感じた。1831年、パリに移った。ここがハイネの終の棲家となる。

 政治・社会批評:ドイツ・ロマン主義にたいして

 パリでは、ハイネはサロンに足繁く通い、様々な学者や文人と交流をもった。たとえば、ポーランド出身のピアニストのショパンである。ハイネはショパンの楽曲や演奏に魅了され、彼を「ピアノのラファエロ」と呼んで絶賛した。

 ハイネはフランスの政治や社会への関心を深め、『フランス事情』を公刊した。当時のフランスで一定の影響力を誇っていたサン=シモン主義の影響を受けるようになった。

 同じ頃、ハイネはドイツの文化に関しても『ロマン派』と『ドイツにおける宗教と哲学の歴史』を公刊した。ハイネは時事問題に一定の関心を抱いており、ドイツとフランスの文化の仲介という役割を果たそうとした。
 『ロマン派』では、ハイネはドイツのロマン主義にたいして手厳しい批判を行った。ハイネはシュレーゲル兄弟やブレンターノなどをドイツのロマン派として念頭におく。彼らのロマン派を、道徳的には偽善的であり、政治的に反動的だと批判した。その背景として、ドイツはこの頃、反動的な時期に入っていた。
 さらに、ハイネは彼らの反動的性格を当時の中世主義と関連付けた。ドイツでは、18世紀後半あたりから、中世への関心が高まっていった。これは啓蒙主義にたいするロマン主義の勃興と関連していた。たとえば、ドイツのロマン派は中世への憧れを表明し、中世のカトリシズムを高く評価する傾向にもあった。
 ハイネはドイツのロマン派が中世のカトリシズムを国家レベルで排外的に受け入れようとしてきたと断じた。そのうえで、このようなドイツでの中世カトリシズムの復活は、ドイツ文化の統一というまやかしを煽ることによって、フランス占領軍への敵対心を強めようとする試みと結びついたものだと論じた。このように、ハイネはドイツのロマン主義を政治や社会の側面で痛烈に批判した。

 マルクスらとの交流

 1840年代、ハイネは病に苦しむようになった。そのような中で、1843年、秘密裏にドイツの家族を訪ねた。当時のドイツの状況を見聞して、再びパリに戻った。プルードンやカール・マルクスと知り合い、社会主義や無政府主義への関心を深めた。マルクスの新聞のために、風刺文を寄稿することもあった。
 また、ハイネは1844年、『ドイツ・冬物語』を公刊し、引き続きドイツの反動主義を痛烈に批判した。

 晩年

 ハイネは重い病に苦しむようになった。おそらく性病に由来する神経系の病気である。厭世感を漂わせ、視線はこの世から天に向かうこともあった。1850年代に、生の悲痛な嘆きを表した『ロマンツェーロ』や『告白』を公刊した。1856年、病没した。

ハイネと縁のある人物

ハイネの肖像画

ハインリヒ・ハイネ 利用条件はウェブサイトにて

 ハイネの代表的な作品・著作

『旅の絵』(1826ー27)
『歌の本』(1827)
『フランスの状態』(1833)
『ロマン派』(1834)
『ドイツの宗教と哲学の歴史』(1834)
『新詩集』(1844)
『ドイツ・冬物語』(1844)
『アッタ・トロル 夏の夜の夢』(1847)
『ロマンツェーロ』(1851)
『告白』(1854)
『メモワール』(1854)

おすすめ参考文献

可知正孝『詩人ハイネ : 作品論考と他作家との対比』鳥影社, 2011

Susan Youens, Heinrich Heine and the Lied, Cambridge University Press, 2011

Anthony Phelan, Reading Heinrich Heine, Cambridge University Press, 2007

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