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ヘレン・ケラー:三重苦の天使と呼ばれた女性の挑戦に満ちた生涯とは

 ヘレン・ケラーはアメリカの社会活動家(1880―1968)。幼い頃に盲聾唖の三重の障がいを負った。若き教師サリバンらとともに障がいに向き合い、障がい者のための社会活動や著述活動などを国内外で行った。戦後日本の障害者福祉にも大きく貢献した。三重の障がいを乗り越えた無垢な少女という国際的なイメージが定着している。だが、これからみていくように、実際のヘレン・ケラーは時として障がい者にも厳しく、政治活動に邁進する、より複雑な人物だった。

ヘレン・ケラー(Helen Keller)の生涯

 ヘレン・ケラーはアメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで生まれた。ケラーは生後19か月のときに熱病にかかり、目と耳および口の機能を失った。すなわち、盲と聾と唖の三重の障がいを負うことになった。

 サリバン先生とともに

 ケラーが6歳のとき、両親はアレクサンダー・ベルに教育について相談した。ベルはボストンのパーキンズ盲人協会のアン・サリバンを彼らに紹介した。サリバンはまだ20歳だった。

 サリバンは今日では、優れた教師だと認識されている。あたかも聖人のような女性であると思われている。だが、この時点では、サリバンは他に職のない貧しい女性だった。そのため、この仕事に回されたのである。
 サリバン自身も失明を経験したことがあり、パーキンズ盲学校の卒業生だった。ここから、サリバンによる献身的な教育が始まった。最初の出会いは上記のようなものだったが、サリバンは実際に優秀な教師として成長していく。

 「水(ウォーター)」のエピソード

 サリバンとケラーの教育で有名なのは水のエピソードだろう。サリバンはケラーへの教育として、指文字を用いた。たとえば、ケラーに人形を持たせ、その手に「DOLL(人形)」と指で書いた。ケラーは次第に、DOLLが人形のことを指すことを理解するようになった。
 あるとき、ケラーはカップと、カップに入っている水のどちらも同じものだと思いこんでいた。サリヴァンは違いを理解させるために、戸外に連れ出した。カップに水をいれ、ケラーに触らせた。

 同時に、ケラーの手に「WATER(水)」と指で書いた。これによって、ケラーは水がカップではないことを、さらにウォーターが水をさすことを理解したのである。

 ケラーの成長

 その後もケラーは文字や文章を認識し、文章を作成する練習を行った。点字を学び、会話の練習も行った。ボストンのホーレス・マン聾学校やニューヨークのライト・ヒューメーソン聾学校でも学んだ。読唇術を習得し、読み書きもできるようになった。
 さらに、1900年、ケラーはハーバード大学のラドクリフ・カレッジに入学した。周囲の支援をえながら、1904年には、優秀な成績で卒業した。

 著述活動

 ケラーは同じ障がいをもつ人々のために、活動を始めた。1903年には、自伝の『私の人生の物語』を公刊した。これは世界的なベストセラーになる。

 その後も、『楽観主義』や『私の生きる世界』など、多くの著作を公刊していった。ケラーは点字のタイプライターで自ら著述を行っていた。なお、ケラーは作家を自認していた。

 ケラーの政治活動

 同時に、日本ではあまり話題にならないが、ケラーは若い頃から政治活動にも関心をもち、自ら行った。29歳の頃には、社会党に入った。ケラーが支持したのは、出産制限や労働運動、女性の普通選挙などである。資本主義体制にも批判的であった。

 障がい者の抱える問題の多くは資本主義に起因すると批判した。さらに、戦争を資本主義の産物として批判した。そのため、第一次及び第二次世界大戦にも批判的だった。その結果、FBIの監視対象にもなった。

 障がい者のための運動:その複雑な姿勢

 ケラーはアメリカ盲人協会などに所属して、アメリカ内外での講演活動を積極的に行った。さらに、1915年、戦争によって障がい者になった人々のために、多額の資金を集めて基金を設立した。この基金はのちにヘレン・ケラー・インターナショナルとなる。障がい者運動以外でも、労働運動や女性運動に参加し、協力しあった。

 他方で、障がい者にたいするケラーの態度は、この時期には複雑だった。たとえば、1915年に、医師が産まれたばかりの奇形児への手術を拒絶したため、この奇形児が死んでしまう事件が起きた。世間はその医者を批判した。

 これにたいし、ケラーは当時の雑誌で、その医者を擁護した。その奇形児がもし手術によって延命されたとしても、大人になったら犯罪者になっていただろう、と。この時期のケラーは、当時のアメリカで常識的ともいえる優生学を信じ、安楽死を支持していたのである。

 だが、ケラーはアメリカ盲人協会などの活動を通して、その考えを改めるようになった。障がい者の子供の命には、救うべき価値がある、と。
 ただし、その場合でも、ケラーは自らをそのような障がい者の一部とみなしていなかった。自身はすでに障がいを乗り越え、克服した人物だと考えていた。抑圧され、他者の助けを求める障がい者だとは考えなかった。

 障がい者のための公的活動にとって、ケラーのかつての急進的な政治的主張は妨げになる可能性があった。ケラー自身がそのためにFBIの監視対象になったように。そのため、ケラーは公の場に出るときには、次第にり自身の政治的立場を表明しないようになっていく。

 様々な活動が認められ、1932年には、ケラーはグラスゴー大学から法学博士号を授与された。1952年にはフランスのレジオン・ドヌール勲章を授与された。

 日本の障がい者制度への貢献:アメリカの親善大使

 ケラーは日本には三度訪れたことがある。1937年、1948年、1955年である。とくに、1948年の来日は日本の障がい者の境遇にも影響を与えた。
 このときはGHQの媒介により、アメリカの親善大使として来日した。これは、アメリカ政府の視点からすれば、ケラーをアメリカの外交政策の手段として利用したことを意味する。アメリカ政府は他国との関係改善の手段として、ケラーを利用したのだ。
 その一環が、戦後の日本への派遣だった。ケラーは長崎と広島を訪れた。なお、ケラーは核軍縮活動に邁進することにもなる。この点では、アメリカ政府の単なる操り人形ではなかったことがわかる。

 当時、日本は戦後に入ったばかりであり、様々な問題に直面していた。障がいにかんしては、たとえば、、第二次世界大戦で多くの兵士が障がいを負った。だが、彼らへの公的扶助などの制度は未整備だった。
 そのような中で、ケラーは日本に到来し、日本の障がい者福祉制度を視察した。上述のように、ケラーは戦争による障がい者に関心を強く抱く、そのためにすでに尽力していた。

 そのため、同じ境遇の日本人の問題にも心を痛めた。そこで、新たな制度設計に尽力した。1949年の身体障害者福祉法の成立に寄与することになった。

 高まる世界的名声と固定されていくイメージ

 ケラーの名声は世界的に広がっていった。ケラーは「三重苦の天使」や「光の天使」と呼ばれるようになった。ケラーの活躍を障がい者の励みにしようと、演劇や映画も制作された。

 1959年の『奇跡を起こす人』は翌年にピューリッツァー賞を獲得した。さらに、その映画はアカデミー賞を得た。だが同時に、ヘレン・ケラーは三重の障がいを乗り越えた少女というイメージが国際的に定着することにもなっていった。

最晩年と死

 1960年、ケラーは脳梗塞になった。1961年からは公の場には姿を見せなくなった。1968年に没した。

 ケラーの典型的な伝記の問題点

 ヘレン・ケラーの物語は長らく、障がい者自身による障がいの克服の物語として、その典型として知られてきた。この場合、障がい者は健常者の世界からの欠落者として捉えられた。ヘレンケラーは障がいという欠落を個人の勇気ある忍耐や理性的な粘り強さそして前向きな姿勢や純粋な意志によって克服したと考えられた。

 健常者たちがこの克服あるいは勝利のストーリーをケラーという障がい者に見ようと欲してきた。三重の障がいという極めて困難なハンディキャップを乗り越えた英雄として、ケラーを捉えてきた。
 この伝統的な捉え方には、様々な問題がある。まず、障がい者の生きづらさなどの問題を社会の問題よりも個人の問題に帰してしまう恐れがでてくる。どういうことか。

 たとえば、全盲の視覚障害者はモノを見ることができない。そのため、移動に多くの自由や危険を伴う。移動すら不自由であれば、当然生きづらい。この生きづらさはどうすれば軽減できるのか。
 たとえば、バリアフリーの施設や設備の普及によって、この生きづらさを軽減することができる。だが、障がい者本人がたとえば白杖をもって歩く訓練をすることで、この障がいを克服するよう長らく期待されてきた。

 ケラーの物語は障がい者にたいする世間のこのような期待を強める働きをしてきた。ケラーのような三重苦の障がい者でさえ、あれだけの障がいを克服したのだ。だから、全盲くらいなら、その障がいを克服できるはずだ、と。

 別の問題として、障がい者自身はヘレン・ケラーのような超人的な努力やその期待を背負って疲弊し、自滅してしまう恐れもでてくる。障がい者本人は世間から上述のような期待を負わされる。

 世間がそのように押しつぶす意図などなくても、障がい者本人はその期待に沿うような行動をとる可能性がある。ヘレン・ケラーの特別な成功体験によって、一般の障がい者への世間の期待値がグンとあがってしまう。それに応えようとして、通常の障がい者が潰れてしまいかねない。

 最後に、もう一点だけ挙げよう。それは、障がいを克服すべき欠点とみなすよう促すことである。これにたいしては、障がいはその人の特徴や個性の一部であるという考え方が広がりつつある。

ヘレン・ケラーの肖像写真

ヘレン・ケラー 利用条件はウェブサイトにて

相手の発言を読み取ろうとするヘレン・ケラー 利用条件はウェブサイトで確認
相手の発言を読み取ろうとするヘレン・ケラー

 ヘレン・ケラーの主な著作・作品

『私の生涯』(1902)
『暗闇から』(1913)
『私の宗教』(1927)
『流れの中で:私の後半生』(1930)

おすすめ参考文献

ヘレン・ケラー『ヘレン・ケラー自伝 : わたしの生涯』今西祐行訳, 講談社, 2017

Kim E. Nielsen, The radical lives of Helen Keller, New York University Press, 2004

Dorothy Herrmann, Helen Keller : a life, University of Chicago Press, 1999

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