樋口一葉:明治時代の「生きづらさ」を生き抜く

 樋口一葉は明治前半の女流作家(1872―1896)。若くして一家が困窮し、貧しい生活の中で小説家の道を進んだ。社会の底辺にある人々、とくに女性たちの生き様を『にごりえ』や『たけくらべ』などで描いた。この記事では、一葉の生涯と作品を説明し、日本と海外での評価を紹介する。

樋口一葉(ひぐちいちよう)の生涯

 樋口一葉は東京で官吏の家庭に生まれた。本名は「なつ」である。父は明治新政府のもとで役人をつとめると同時に、不動産業などにも携わった。一葉は小学校高等科まで進んだが、11歳で中退した。母が女に教育は必要ないと考えたためだった。

 一葉は和歌に興味を抱き、1886年に中島歌子の萩の舎(はぎのや)に入った。中島は旧派の伝統を墨守しており、上流の子女を相手に和歌の指導を行っていた。一葉は身分差による屈辱を経験することにもなったが、古典の素養を身につけた。才能を認められ、1890年には内弟子となった。

 その間、兄と父が没した。1890年、一葉は母と妹の三人ぐらしとなり、日銭を稼がなければならない身の上となり、経済的に苦しくなった。さらに、婚約者に婚約を破棄された。

 小説家としての目覚め:師への恋心

 一葉は生計を立てる方法を探していた頃、先輩が女性作家デビューしたことを知った。そこで自身も小説家の道を目指した。東京朝日新聞の小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、1892年に『闇桜(やみざくら)』を発表した。桃水に恋心をいだいたが、中島歌子に叱責され、この恋を諦めざるを得なくなった。

 1893年、北村透谷(きたむらとうこく)や上田敏(うえだびん)などが文芸誌『文學界』を創刊した。彼らは一葉の『うもれ木』に興味を持ち、一葉と交流をもつようになった。一葉は彼らから作家として大いに刺激を得た。

 このころ、1894年に一葉は駄菓子屋を開いた。たいして生活の足しにはならなかった。だが、そこで下町の人々の生活をつぶさに観察する機会を得た。1894年、店がうまくいかなくなり、閉店して本郷の丸山福山町に移った。

 小説家としての活躍

 1894年、一葉は『大つごもり』を『文学界』で発表した。ここから、一葉は作家として本格的に開花する。1895年の1月、代表作『たけくらべ』を『文学界』で連載した。

『たけくらべ』

 この作品の舞台は東京の遊郭の吉原近くで、そこに住む少年少女が主人公である。主人公の少女の美登利はおてんば娘であり、子どもたちの間でも女王様を気取っていた。姉が遊女であり、自身も姉に憧れ、遊女となる定めだった。子供たちのなかには、内気な性格の信如がいた。彼は寺社の家庭に育ち、いずれ出家する定めだった。

 美登利はいつのまにか信如に心惹かれていた。だが、二人は結ばれることのできない家柄にあった。月日が経つに連れ、美登利は成長し、女性らしくなっていく。信如はついに出家し、遠い存在となる。その日の朝、美登利の家門には水仙の造花が差し込まれているのだった。

 この作品は思春期の少年少女の物悲しい恋物語として、好評を博した。

『にごりえ』

 同年9月には代表作の『にごりえ』を発表した。この作品は酒屋で働く若い女性が主人公である。彼女は社会の底辺で日々を送っていた。最近、彼女には裕福な男性が馴染みの客となった。彼女はこの男性と結ばれれば、現在の苦しい生活を脱出できるかもしれないと淡い希望をいだいた。

 他方、かつての恋人は落ちぶれて妻子もいたが、まだ彼女のことを忘れられずにいた。最終的には、彼女は落ちぶれた男性とともに無理心中を強いられることになる。なお、この作品は戦後に映画化される。

 同年12月、樋口は『十三夜』を、1896年の初頭には『わかれ道』を発表しこの一年間の間で作家としての地位を確立した。この多産さゆえに、奇跡の一年と呼ばれる。樋口作品の魅力を知るには、形式的な特徴や評価だけを知るだけでなく、中身をみたほうがよいだろう。そこで、より詳細なあらすじを示そう。その後で、樋口への評価を紹介する。

『十三夜』のあらすじ

 物語の舞台は陰暦の九月十三日の夜である。これは仲秋の名月である八月十五夜の次に月が美しいといわれる夜のことである。主人公のお関は下町の出身だが、7年前に華族の原田家に嫁いでいた。両親はお関が良家にもらわれて嬉しく思い、自慢にも思っていた。お関の弟は原田家のコネにより出世街道を歩み始めていた。
 十三夜の夜遅くに、お関はたった一人で実家の父母のもとに戻ってきた。お関は夫の勇と離婚するつもりで帰ってきたのである。両親はそれを知らず、喜んでお関を迎え入れた。お関はなかなか話を切り出せなかった。だが、両親が夜遅くの一人での訪問を訝しがって、訪問の理由を尋ねた。
 お関は両親に離婚したい旨を伝えた。結婚当初優しかった夫は太郎という息子が誕生してから、性格が変わってしまい、鬼のようになってしまった。夫から常に小言を召使の面前で言われる。お関が不器用で無作法で躾も教育もできていない、実家が悪いのだと外で言いふらす。外で女をつくり、家に帰ってこない日も多い。

 息子のためを思ってこれまで我慢してきたが、もう我慢の限界を超えた。太郎を捨ててでも離婚するために実家に戻ってきたのだ。自分のような不運な母親よりも新しい継母に育ててもらったほうが、太郎も幸せになるだろう、と。
 母はお関のこれまでの苦労を聞いて泣き、勇への怒りをあらわした。そもそも、お関は勇が見初めて結婚させたのだった。お関が17歳の頃、たまたま勇がお関と出会い、結婚を催促してきた。両親は身分の違いなどを理由に何度も断ったが、最終的に結婚を承諾した、と。母はお関にもう我慢する必要などない、と離婚を認める姿勢を示した。
 だが父はお関をなだめた。たしかにお関はつらい思いをしている。だが離婚したら、身分の違いもあって、太郎には一生会えないだろう。そのほうが今の状況よりもずっと苦しいはずだ。夫はたしかにわがままではある。

 だが夫は名望家でやり手として知られる人物である。そのような人物の機嫌を整えるのは難しいだろうが、それが妻の務めだ。世の中の奥様方はみな同じ苦労をしているものだ。お関は身分の違いもあるから、なおさら苦労するものだ。また、お関の弟の出世は原田家とのつながりに依存している。親兄弟と太郎のために、我慢してくれ、と。
 これを聞いて、お関は離婚の願いを取り下げることにした。これからは自分を殺して息子のために我慢をする、もう心配しないように、と。
 原田家への帰り道、お関は人力車に乗った。だが、途中で降りてくれと突然言われた。その時、お関は車夫が幼馴染の録之助であることに気づく。録之助はかつてお関が恋心を抱いていた人物だった。ゆくゆくは結婚かと思い描いていた人物だった。当時は好青年で利発な青年として評判だった。
 お関は録之助の現況を尋ねた。録之助は放蕩三昧で見を崩し、結婚したが離婚し、一人娘も病死したということだった。いまは気分の向くままに車夫として働いたり暇をつぶしたりする日々だった。放蕩三昧が始まったのはお関の嫁入りが決まった頃だった。魔が差したか、祟りかなどと噂されたほどだった。
 お関は録之助の変わりぶりを聞いた。とはいえ、二人の関係がそこから発展することはなかった。お関はせめてもの思いで、車代を多めに包んで彼に渡した。二人は憂き世の辛さを身にしみながら別れた。

『わかれ道』のあらすじ

 『わかれ道』は傘屋の吉三とお針で生計を立てるお京の物語である。吉三は16歳、お京は20歳頃。吉三は捨て子であり、両親が誰かさえ知らなかった。傘屋のお松という婆さんに拾われて、それ以来、傘屋で育った。

 小柄だが力持ちで、一寸法師とあだ名された。お松が死んだ後はつらい日々を過ごし、将来を悲観していた。なにより、身寄りのない寂しさを感じていた。
 お京は一年前に引っ越してきた。人付き合いがうまく、器量よしだった。親兄弟は近くにおらず、吉三を弟のように可愛がるようになった。吉三もまた足繁くお京のもとに通い、甘えた。
 だが、ある年の暮れに、お京は吉三に突如別れを告げた。吉三はその原因を職場で噂として聞いていた。お京が妾になるというのだ。吉三はお京がそんな腐れた女ではないと職場で大喧嘩をした。ところが、この噂は本当だった。吉三はお京に妾の話を断るよう何度も訴えた。お京は好んで妾になるのではないと言った。だが、もう妾になると決めてしまったといい、吉三の訴えに耳を貸さなかった。
 吉三はそれならもうお京とは金輪際さようならだと言った。これまでの人生でも、少しでも自分に好意的な人はすぐにいなくなってしまったという。お松もほどなくして死んだし、近所の女性はお嫁に行くのが嫌で井戸に身投げしてしまった。もう今後は誰も信じない、と。
 吉三が立ち去ろうとした時、お京は吉三を後ろから抱きしめ、吉三が自分にとって弟のようなものだから、今後も面倒をみていくつもりだといた。吉三は再度、それなら妾にいくのをやめるかとお京に問うた。お京は再びもう決心したのだといった。吉三は最後に言った。「お京さん、後生だから此肩の手を放しておくんなさい」。

 早すぎる死へ

 だが、その頃から病が急速に悪化していった。それでも執筆を続け、『われから』を公刊した。だが、1896年末、結核で没した。葬儀には、面識のない森鴎外が駆けつけたが、軍医でもある鴎外との身分の差により、鴎外は葬儀への参加を丁重に断られたとされる。

 樋口一葉の評価

 国内では、樋口一葉はそれぞれの時代を映す鏡のような存在であった。たとえば、戦前、社会主義が隆盛した時期には、樋口は無産階級の女性の一人という側面が強調された。

 あるいは、貧困と闘うなかで芸術家としての生涯を全うした者として捉えられた。あるいは、戦争の雰囲気が濃くなる中で、家族のために私を犠牲にした女性という側面が注目された。戦後になると、学校教育の場面では、貧しい中でも向学心を忘れない少女として捉えられた。

 他方で、樋口一葉の作品は戦後のセクシュアリティやジェンダー研究の発展とともに、注目されてきた。一葉は近代的な新しさよりもそれまでの歴史的伝統に身をおいた人物だった。
 とはいえ、過去の伝統に埋没したわけではない。セクシュアリティやジェンダー、家父長制や子ども、貧困や売春といった当時の問題を小説のなかで取り上げた。同時に、社会批評を行った。そのようにして、過去と現在を結びつけ、同時代の問題に取り組んだ人物だった。近代性の問いとの関連での評価である。

海外での評価

 樋口一葉の作品は今日において、海外でも日本近代文学の名作として知られている。海外でも、やはり『 たけくらべ』や『にごりえ』が代表作として認知されている。その際に、たとえば、次のような評価がみられる。

 樋口一葉が生きた明治日本は家父長制や立身出世主義の時代であり、女性が弱い立場にあった。樋口は女性に着目した。しかも、遊女のような周辺社会のより一層弱い立場にある女性や女子に着目した。
 樋口作品の登場人物たちは家父長制や立身出世主義を否定せず、その中で生きることを強いられる。これらの体制において、より一層生きづらさを感じる人々の声を汲み取り、反映している。そこには、彼女たちのつらく残酷な将来が示唆されるとともに、彼女たちの楽観主義も示される。

 たとえば、『たけくらべ』の美登利が遊女の姉に憧れながら、遊女としての自身の将来の残酷な運命をおぼろげながら理解し始めるようにである。社会の周辺に追いやられた彼女たちのこのような両義的な声が描き出されている。

 あるいは、『十三夜』などに樋口一葉の初期フェミニズムを見出すような評価もある。明治時代は西洋から男女平等のような思想を日本に持ち込んだ。だが、現実としては、女性は家父長制のもとで夫の権力の下に置かれていた。これらの慣習のもとで、一葉の登場人物は最終的に悲しい終わりを迎える。

 一葉は物語を通して、このような境遇に置かれた明治の女性の考えを代弁した。さらに、この辛い慣習に立ち向かい、男女平等へ向かうよう女性たちを鼓舞した。家族のために生き、自分自身の望みに顔を背けるような現状を打開しようとした。そのような初期フェミニストであったと評されている。

『にごりえ』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)

樋口一葉の肖像写真

樋口一葉 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 樋口一葉の代表的作品

『闇桜』(1892)
『大つごもり』 (1894)
『たけくらべ』(1895−6)
『ゆく雲』(1895)
『にごりえ』(1895)
『十三夜』(1895)
『わかれ道』(1896)
『われから』(1896)

おすすめ参考文献と青空文庫

島内裕子『樋口一葉の世界』放送大学教育振興会, 2023

笹尾佳代『結ばれる一葉』双文社出版, 2012

Rachael Hutchinson, Routledge handbook of modern Japanese literature, Routledge, 2019

Timothy J. Van Compernolle, The uses of memory : the critique of modernity in the fiction of Higuchi Ichiyō, Harvard University Press, 2006

※樋口一葉の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person64.html)

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