ヘンリック・イプセンはノルウェーの劇作家(1828ー1906)。近代劇の第一人者として知られる。30代なかばまではノルウェーで成功しなかった。イタリアに移ってから大作をうみだし、成功していった。リアリズムやシンボリズムの劇作家として世界的に有名となる。彼の生涯を数々の名作の背景として紹介しながら、それらの作品の特徴や評価、あらすじなどを説明する。
ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen)の生涯
イプセンはノルウェーのシーエンで裕福な商人の家庭に生まれた。だが、イプセンが幼い頃、父が破産し、生活は困窮した。
その後、6年間、イプセンは薬やで働いて生計を立てた。大学入学のための勉強をした。苦労人であった。1848ネにフランスで二月革命が起こったときには、これに感銘を受けた。
演劇の世界へ
1850年に、オスロに移った。金策のために戯曲『戦士の墓』を制作した。これが劇場で採用された。これをきっかけに、イプセンは大学進学をやめ、劇作家の夢を追いかけることにした。この時期に、社会主義運動にも参加した。だが、政府の弾圧を受けた。
1851年、イプセンはベルゲンに移った。当地の国民劇場で舞台監督に任命された。劇の制作にもいそしんだ。ノルウェーの伝統的なサーガなどを研究した。だが、劇は成功しなかった。
1857年、イプセンは再びオスロに移った。設立されたばかりのノルウェー劇場の支配人に任命された。演劇の様々な技術を習得していった。だが、経営がうまくいかず、この劇場は5年後に破産した。イプセン自身もまた、経済的に困窮した。自身の才能にも疑いをもつようになり、苦しい時期が続いた。
イタリアでの成功
心機一転、1864年、イプセンはノルウェー政府から奨学金をえて、イタリアに移った。ここから彼の成功が始まる。これ以降、イプセンは奨学金の期間が終わった後も、27年間、イタリアやドイツで活動する。
1866年、『ブラン』のような大作を世に送り出した。「全てか無か」という二択を迫る勢いのある作品である。これが一定の成功を収め、ようやく経済的に安定していく。翌年、ゲーテの『ファウスト』に着想を得ながら、『ペール・ギュント』を制作した。これも成功した。さらに、社会風刺の劇にも挑戦した。
『人形の家』
イプセンは1879年に『人形の家』を世に送り出した。これがついに、世界的に大ヒットした。この作品により、イプセンは近代劇の第一人者と目されるようになる。また、リアリズムの劇作家としての地位を確立した。
この劇はクリスマス・イブから始まり、そこから3日間に起こった出来事を描く。女性の主人公ノラ・ヘルマーのかつての不正が鍵となり、ノラの人生が大きく転換していく。
ノラはそれまで夫に人形のように扱われていたことを確信し、妻や母である前に、一人の人間として生きることを決める。本作は女性の解放と関連付けて理解されてきた作品である。
『人形の家』での名言
(終盤のやり取り)
「ヘルマー:君は家庭、夫、子供を捨てるだなんて!世間が何と言うかなんて考えないんだな。
ノラ:そんなことは気にも留めないわ。私が知っているのは、自分がしなければならないことだけ。
ヘルマー:腹立たしい!君はこの世で最も神聖な義務を捨てられるのか?
ノラ:私の最も神聖な義務とは何だと思う?
ヘルマー:そんなことを言わなければならないのか? それはあなたの夫と子供たちに対する義務ではないのか?
ノラ:私には同じくらい神聖な義務がもうひとつある。
ヘルマー:そんなことはありえない。どんな義務のことを言っているのか?
ノラ:私自身に対する義務よ。
ヘルマー:何よりもまず、君は妻であり母親だよ。
ノラ:それはもう信じないわ。何よりもまず、私もあなたと同じように人間だと思うわ。少なくとも、そうなろうと試みるつもりよ。」
本作の意義や重要性
本作は上演されてまもなく成功した。これによって、イプセンは世界的に名声を確立することになる。よって、イプセンの代表作といえる。
本作はすぐに女性解放の論者から称賛された。逆に、女性解放の反対者からは批判を受けた。ノラは新しい時代の「新しい女」の象徴とみなされるようになる。イプセン自身は、本作を女性解放かどうかというより、人間にかんする作品としてみてほしいと述べたが。
戦前の日本での評価
日本では、1911年に初めて上演された。当時、日本でも女性解放運動は徐々に発展していた。たとえば、1900年には、津田梅子が優れた国際的な女性を育てるために、女子英学塾(津田塾大学の前身)を設立した。
1911年には、平塚らいてうが、『青鞜(せいとう)』を創刊した。平塚による創刊の辞「元始、女性は太陽だった」は有名である。与謝野晶子もまた別の仕方で女性の教育や解放について論じるようになっていた。なお、平塚と与謝野は1910年代末には、女性のあり方をめぐる論争を行う。
そのような中で、『人形の家』は1911年に日本で初演され、話題となった。松井須磨子がノラを演じた。ノルウェーでの初演から30年ほど後のことだった。日本でもフェニにズムの文脈で理解され、しばしば高い評価を受けた。本作とイプセンは広く受容されるようになった。
岸田國士の評価
戦前の劇作家の岸田國士は、上述の松井須磨子による上演を鑑賞した。その後、パリに移り、そこでも本作をみた。岸田は「巴里で観たイプセン劇」のなかで、次のようにこの作品を論じている。
パリでのノラがまさに「悩みが美しくした女」だと評している。従来のフェミニズムで評されてきたような「目覚めたる婦人」については、なんら問題とすべきものを発見しなかった。そのかわりに、パリでのノラに「永遠の女性」そのものの姿を見た。フランス人が演じると、そのようになるのだろう、という。
このように、本作は日本でもフェミニズムの作品として受容されていたことがわかる。さらに、すぐにその見方への疑問が投げかけられていたということもわかる。はたしてこの作品がどのような性質のものであるかは、実際に読むか観劇してみたほうがよいだろう。
その後も、1881年に『幽霊』を制作した。これは安楽死などの当時の社会問題を扱ったものだった。
さらに1882年、『民衆の敵』を制作した。温泉街を舞台とした社会の問題を扱う風刺劇であった。
『民衆の敵』での名言
「多数派が正しいことは決してない。絶対にない!これは社会の嘘の一つであり、自由で知的な人間なら誰でも反抗せずにはいられない。人口の最大の割合を占めるのは誰なのか?知的な人々か、それとも愚か者か?」
「我々にとって真実と自由に対する最も危険な敵は、団結した多数派である」
「ああ、そうだ、そうだ。権力を持たなければ、正義が味方についても何の役にも立たないだろう?」
「つまり、世界で最も強い男とは、最も孤独に立ち向かう男だ」
1884年には、名作『野鴨』を制作し、家族の問題を扱った。
祖国への凱旋
1891年、イプセンは祖国へ帰った。その後も作品を作り続けた。次第に、リアリズムから人間の心理に着目する象徴主義へと作風が変化していった。
1906年に病没し、ノルウェーで国葬があげられた。ちなみに、日本には、19世紀末、イプセンが没する前にその作品が紹介され始めている。
イプセンと縁のある都市:オスロ
上述のように、イプセンは外国で大成功を収めた後で、祖国に凱旋帰国した。その後、没するまでオスロに住んだ。
オスロには、イプセン博物館がある。彼が晩年を過ごした家を利用したものだ。イプセンの様々な作品を、彼の過ごした場所でより深く理解することができる。一部の作品は映像で愉しむこともできる。
また、オスロの国立美術館はムンクらの絵画を展示している。オスロを訪れた際には、寄っておきたい場所だ。
イプセンの肖像画
イプセンの主な作品
『カティリーナ』 (1850)
『ブラン』 (1866)
『ペール・ギュント』 (1867)
『皇帝とガリラヤ人』 (1873)
『人形の家』 (1879)
『幽霊』 (1881)
『民衆の敵』(1882)
『野鴨』 (1884)
『ロスメルスホルム』 (1886)
『建築師スールネス』 (1892)
『われら死者の目ざめるとき』(1898)
おすすめ参考文献
原千代海『イプセンの読み方』岩波書店, 2001
Ivo de Figueiredo, Henrik Ibsen : the man and the mask, Yale University Press, 2019
Narve Fulsås(ed.), Ibsen in context, Cambridge University Press, 2021