市川團十郎は江戸時代前期に誕生した人気の歌舞伎役者。現在も襲名され続ける歌舞伎界の代表的な役者といえる。初代から9代までの主だった人物を画像付きで紹介する。
初代 市川團十郎
市川團十郎(初世)は江戸時代前期、16世紀後半に活躍した歌舞伎役者(1660―1704)。江戸文化の発展した元禄期の江戸歌舞伎の代表的役者として知られる。本姓は堀越であり、幼名は海老蔵だった。俳名は才牛である。
初世は以後、市川家が得意とする荒事の芸の創始者とされている。様々な脚本もこなした。最後は別の俳優に舞台上で刺殺された。
市川團十郎(初世)の役者絵
画像は葛飾北斎によるもの
二代目 市川團十郎
市川團十郎(2世)は18世紀に活躍した歌舞伎役者〔1688-1758〕。初代市川團十郎の長男。父と同様に、荒事を得意とした。隈取などを様々な工夫をによって、荒事の芸を一層高めた。「助六」などを創演した。初代が切り開いた市川家の基礎を二代目が確固たるものにした。
市川團十郎(二世)の役者絵
五代目 市川團十郎
五代目が生まれたとき、父は二代目の松本幸四郎を名乗っていた。1754年、父が四代目の市川團十郎を襲名したときに、(後の)5代目は三代目の松本幸四郎を襲名した。そこから実力を伸ばし、次第に名評をえるようになる。1770年、父が松本幸四郎の名に戻ったタイミングで、五代目の市川團十郎を襲名した。
五代目として、寛政期に江戸の中村座を発展させる
芸としては、5代目は実悪を最も得意とした。だが、実事もこなした。それまでの團十郎の領分ではなった役柄にも射程を広げ、岩藤などの女方もつとめた。江戸歌舞伎の名優として、名声を確立した。18世紀末、(寛政の改革で有名な)寛政期の江戸で人気を博した中村座の発展に貢献した。市川家は実質的には7世が継承していく。
歌舞伎以外にも見識が広く、俳諧や狂歌も嗜んだ。俳名は白猿など、狂歌名は花道のつらね。蜀山人などの文化人と広く交流をもった。『友なし猿』などの著書も執筆した。
市川團十郎(5世)の役者絵
7代目 市川團十郎
10歳のときに市川團十郎(7世)を襲名した。荒事、実事、和事、実悪など、実に幅広く演じた。生世話や所作事も卒なくこなした。能に学んだり、「歌舞伎十八番」を制定したり、「勧進帳」を創演したりと、歌舞伎の世界に実に大きな貢献をした。
1832年、長男に市川團十郎(8世)を襲名させた。自らは海老蔵(5世)となった。
幕末に、水野忠邦が天保の改革を行った。風紀粛清の影響で、歌舞伎は打撃を受けた。市川團十郎もまた江戸を追放されて上片で活動した。だが、数年後には赦されて、戻ってきた。
市川團十郎(7世)の役者絵
八代目 市川團十郎
市川團十郎(八世)は19世紀前半、江戸の末期に活躍した歌舞伎役者(1823―1854)。七代目の市川團十郎の長男。容姿が優れた花形で、技芸でも定評があった。江戸で人気があったが、若くして自殺して、幕を閉じた。
市川團十郎(8世)の役者絵
市川團十郎(9世)
市川團十郎(9世)は市川團十郎(7世)の五男であり、8世の弟だった。本名は堀越秀。生後まもなく、養子に出された。だが、実家に戻された。明治時代になり、1874年に9世を襲名。
歌舞伎役者として、9世は絶大な人気を誇った。江戸では、三代目尾上菊五郎とともに活躍した。団菊時代というある種の黄金時代を迎えた。
さらに、9世は福地源一郎などの劇作家とともに、演劇改良に尽力し、歌舞伎の世界に新しい風を吹き込んだ。明治の新しい時代にあわせて、新しい歴史劇としての「活歴物」をうみだした。新たな演劇の技術を開拓しつつ、新歌舞伎十八番を制定した。同時に、従来の古典劇をないがしろにはせず、これもまもった。これらの貢献により、近代歌舞伎に大きな貢献をした。劇聖と呼ばれるに至った。
市川團十郎(9世)の役者絵
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おすすめ参考文献
近藤瑞男『元禄歌舞伎の展開 : 甦る名優たち』雄山閣, 2005
田口章子『二代目市川団十郎 : 役者の氏神』ミネルヴァ書房, 2005
藤澤茜『歌舞伎江戸百景 : 浮世絵で読む芝居見物ことはじめ』小学館, 2022
金智慧『明治歌舞伎史論 : 懐古・改良・高尚化』思文閣出版, 2023