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イギリス産業革命とはなにか:近代的な経済成長への移行

 イギリス産業革命には、2つの解釈がある。伝統的な解釈とより新しい解釈である。伝統的な解釈では、それは新たな技術革新による綿や石炭、鉄などの経済的および社会的な大変革を意味する。この意味でイギリス産業革命については、別の記事で説明している。この記事では、より新しい解釈でのイギリス産業革命について説明する。すなわち、近代的な経済成長への移行期としての意味である。

産業革命の二つの解釈

 まず、これらの二つの解釈について説明しておこう。

伝統的な解釈:トインビー

 上述の伝統的な解釈は1880年代に、イギリスの歴史学者トインビーが提示したものだった。それまでも、産業革命という概念はカール・マルクスらによって用いられていた。
 だが、歴史学的用語として、一つの時代区分を示すような意味合いでこれを確立したのは、トインビーだった。トインビーは18世紀後半から19世紀前半のイギリスの歴史を理解するために、産業革命という概念を提示したのである。

より新しい解釈

 20世紀後半以降に登場した新しい解釈では、産業革命は近代経済成長への移行期を実質的に意味している。近代経済成長は1人当りGDPが持続的に成長する状態である。特に、人口が増大しても経済が成長する状態である。
 産業革命を経ることで、その国は人口増大と経済成長が両立し、発展途上国から先進国に移行する。産業革命はこのような持続的成長を実現する先進国へと発展途上国が離陸する時期だと考えられている。
 上述の伝統的解釈の場合、そもそも産業革命というものは生じなかったという批判もみられた。産業革命の時期に大きな変化が起こったとしても、産業「革命」といえるほどの変化だったのか、あるいはそれほどのたいした変化ではなかったのか。このような点で、評価は分かれる。
 これにたいし、現代の経済学は数学的手法を重視するので、より数値化しやすい産業革命の概念を欲した。そこで、一人当たりGDPを指標とする新しい解釈もまた採用されることになっている。
 この解釈にかんして、イギリスは世界で最初に近代的な経済成長に至った国だった。この意味での産業革命の展開を説明しよう。なお、経済成長の指標は一人当たりGDPである。

 産業改革前のイギリスの経済成長と人口の推移

 ここでまず重要な点は、産業革命以前の経済成長が人口の減少を必要としたことである。人口が経ることで、1人当たりの土地と資本が増加し、1人当たりの生産高が増加した。
 イギリスの 一人当たり実質GDPは1270年から1348年にかけて停滞した後、14世紀半からその終わりにかけて急増した。 その後、人口は減少を続け、15世紀後半から回復に転じた。その結果、1人当たりGDPは15世紀から17世紀半にかけて高水準だった。
 17世紀半から終わりごろまで、 人口が停滞した。その時期の一人当たりGDPは高くなった。18世紀、人口増加が再開した。

 産業革命以前

 このように、産業革命に至る前に、イギリスはすでにある程度の経済成長を経験していた。経済が停滞する時期もあったが、衰退して大昔の状態に戻ることはなかった。すなわち、段階的に発展してきたといえる。
 さらに、イギリスは産業革命以前にも、農業社会からの移行をある程度実現していた。一人当たりGDPにおける農業の割合は次第に減っていった。工業とサービス業の割合が増えていった。

産業革命の実態

 そのため、産業革命によって、イギリスは伝統的な貧しい農業社会から一挙に豊かな工業社会に移行したわけではなかった。
 1700年から1760年にかけて、GDPの成長率は0.7%だった。1831年から1860年にかけては2.5%だった。
 産業革命の経済成長についても、このように、急速かつ大幅に成長したというわけではなかった。むしろ、経済成長率がマイナスになる年が次第に減っていったことが特徴だった。すなわち、持続的に成長するようになったのだ。

 生活水準はあがったのか

 一人当たりGDPの成長を生活水準の指標にしたとした場合、それが上昇したかについては賛否両論ある。
 名目GDPについては概ね共通の認識ができてきた。だが、コストにかんして議論がつづいている。よって、実質GDPの成長にかんして、賛否両論ある。

 産業革命の原因

 産業革命において、この経済成長をもたらしたのはなにか。主に二点挙げられる。一つは資本や労働の量や質である。もう一つは技術革新である。
 上述の経済成長率の伸びの原因は、3分の2が資本や労働の量が増えたことであり、残りの3分の1ほどが技術革新によるものだった。
 労働の量が増えたのは、人口増大や、農業革命によって農業から工業に移った人が増えたためである。
 さらに、労働者の労働時間が増えたことも原因である。労働者が以前よりも大幅に勤勉になったという勤勉革命がこの関連で提唱されている。禁欲と創意工夫のどちらがどれだけ重要だったのか。
 とはいえ、労働時間の増大の原因についても、議論が割れている。一方で、強欲な資本家が労働者をむりやり長時間働かせたと論じられる。他方で、産業革命での新製品がほしいので、労働者は懸命に働いたとも論じられる。
 技術革新については、これを引き起こすにはそのための人材育成が必要となる。だが、産業革命で生じた利潤は人材育成にはあまり投資されなかった。たとえば、識字率もたいして上昇しなかった。これも一因となって、技術革新の影響力は上述のように三分の一ほどだと考えられている。 

 海外貿易との関係

 商業革命の結果、イギリス帝国は海外植民地などに大きな市場をえた。では、海外貿易は実際にはどのくらい、イギリスの経済成長に貢献したのか。
 海外貿易の貢献度は時期によって異なる。イギリスのGDPの増加への貢献度は、最大で30%ほどであり、最低で10%未満だった。この10%未満の時期に、GDPは最も急成長を遂げていた。
 特に、19世紀に入ってからは、イギリス帝国にとっては、貿易の条件が大幅に悪化していった。イギリスの輸出企業は、自国の製造品がより低い価格になっていくのを受け入れざるを得なくなった。

イギリス産業革命の背景

 以上のようなイギリスの産業革命はなぜイギリスで起こったのか。この産業革命は世界の他の国で最初に生じる可能性もあった。だが、実際にはイギリスで生じた。その原因についてみていこう。前提条件としては、いわゆる農業革命や商業革命、地理的要因や、ロンドン王立協会のようなその他の制度が指摘されている。

 農業革命

 16世紀、イギリスではいわゆる囲い込みが生じた。それまで農地は開放されており、周辺の農民がそれを利用できた。
 だが、そのような土地が囲い込まれた結果、開放の耕地は大牧羊場に変えられた。農民たちはこの農地から追放されたのである。これは第一次の農業革命である。とはいえ、この時期はイギリス国内でそのような地域が限られていた。
 18世紀後半、産業革命の進展とともに、第二次の農業革命が起こる。これが産業革命にとってより重要となった。囲い込みはイングランドで急速に実行された。それまでの開放あるいは共同の農地などが大農場に変えられた。

この時期の農家

 その結果、非常に多くの農民がこれらの土地から追放された。このような大量の農民が産業革命の賃金労働者となっていく。
 第二次農業革命では、産業革命による技術革新が利用された。農業技術が革新され、輪栽式農業などが可能になり、農業の生産が増大した。その結果、人口が増大した。人口増大が産業革命の労働者の増大となる。

 商業革命

 商業革命は1492年のコロンブスによるアメリカ到達以降、ヨーロッパがアジアやアフリカ、アメリカに大々的に展開することで生じた世界貿易の構造の大変化を指す。
 イギリスとの関連のみをみていこう。17世紀以降、イギリスはオランダとともにアジアやアフリカそしてアメリカへの進出を本格化させた。
 その過程で、アメリカの砂糖と、その栽培のためのアフリカの奴隷、ヨーロッパの製品の三角貿易を展開した。

奴隷貿易

 17世紀後半には、イギリスはこの海外貿易を大々的に奨励する重商主義の帝国として発展していった。18世紀には、フランスから覇権を奪い取るほどの世界的帝国に成長した。
 この海外貿易によって蓄積された利益が産業革命での資本として使用されることになる。さらに、海外植民地は綿花などの原材料の主要な供給地となった。
 同時に、イギリスで製造された繊維製品などを売りさばく巨大な市場にもなった。このように、産業革命のための資本金と、商品の原材料およびその市場が確保された。

 地理的要因

 地理的要因としてまず指摘されるのは、イギリスの石炭埋蔵量の多さである。石炭は産業革命の主な燃料だった。石炭が自国に大量にあったので、石炭は低価格だった。
 この関連で重要なのは、ロンドンの発展である。産業革命以前、ロンドンでは燃料として薪を利用していた。だが、森林伐採が続く中で、薪が不足し、石炭に取って代わられるようになった。
 ロンドンは商業革命によってイギリス経済の中心地になっていたため、石炭が大量に消費されることになった。これが石炭産業を活性化させた。
 同時に、ロンドンはそのような経済発展により、人件費すなわち賃金が上昇していった。この高い賃金と低価格の石炭という組み合わせはイギリスに特徴的なものだった。
 人件費や燃料費をできるだけ安く抑えたい。そのために、石炭を使用し、人的エネルギーをできるだけ省く機械の新たな技術が開発される。これが産業革命を主導する新技術となっていく。

 その他の要因

 イギリスの科学革命と柔軟なギルドの制度の重要性も指摘されている。17世紀以降、イギリスでは、ボイルの法則で知られるロバート・ボイルらが科学の発展に寄与した。
 これらの科学者はただ単に科学的知識の発展に寄与しただけではなかった。科学者は当初から、新たな科学的成果によって社会や経済の問題を解決しようという姿勢をもっていた。
 さらに、彼らは王立協会の設立などによって科学の営みを組織化し、ほかの業種の人々にも科学的成果を利用しやすくした。その中には、職人もいた。
 イギリスの職人はギルドに所属した。イギリスのギルドはこの点で柔軟であり、科学者や発明家などとの協力を容易にするものだった。
 これらの人々が結びつくことで、科学革命による学問的成果が実業界の実用的知識へとつながっていった。そのような例として、ボイルの空気ポンプの実験が挙げられる。より詳しくは、「ロバート・ボイル」の記事を参照。

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おすすめ参考文献

長谷川貴彦『産業革命』山川出版社, 2012

竹田泉『 麻と綿が紡ぐイギリス産業革命 : アイルランド・リネン業と大西洋市場』ミネルヴァ書房, 2013

Robert C. Allen, The British industrial revolution in global perspective, Cambridge University Press, 2009

Thomas Max Safley(ed.), Labor before the industrial revolution : work, technology and their ecologies in an age of early capitalism, Routledge, 2019

Stephen Broadberry(ed.), The Cambridge economic history of the modern world, Cambridge University Press, 2021

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