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アンドリュー・ジャクソン:アメリカ合衆国の形成期

 アンドリュー・ジャクソンはアメリカ合衆国の第七代大統領(1767―1845)。多数の人民に訴えかけることで政治を行うジャクソニアン・デモクラシーで知られる。だが、先住民から土地を取り上げて白人の国民に配分するなど、先住民の犠牲を強いる政策を行った。この記事では、ジャクソニアン・デモクラシーなどのジャクソン時代の特徴を説明する。

アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)の生涯

 ジャクソンは現アメリカ合衆国のサウスカロライナ州でアイルランド移民の家庭に生まれた。ただし、彼が誕生した当時、この地はイギリスの北米植民地だった。1775年からアメリカ独立戦争が起こり、アメリカ合衆国がイギリスから独立を果たした。その過程で、ジャクソンの家族は犠牲となり、彼自身は孤児となった。

 独立戦争が終わった後、ジャクソンは法律を学んだ。1787年、テネシーに移り、検事として働いた。同時に、政界にも関心を抱き、1796年には連邦議会でテネシー州代表の下院議員となった。

 1797年には、連邦議会の上院議員となった。1798年には、テネシー州の最高裁判所判事に就任した。同時に、同州で奴隷を用いた農園を形成し、一財を築いた。

 軍事的英雄へ:先住民の犠牲を伴いながら

 1810年代に入ると、アメリカ合衆国はイギリスとの戦争が間近だと思われた。ジャクソンは義勇軍を組織し始めた。1812年、イギリスとの戦争が始まった。アメリカ合衆国の先住民のクリーク族がイギリスと友好関係にあった。

 そこで、1813年、ジャクソンは軍事リーダーとなって対インディアン戦争に加わった。クリーク族を壊滅させ、彼らの土地を白人の手に移した。その結果、西部では名声が高まった。軍の司令官に昇進した。

 1815年、ジャクソンはニューオリンズの戦いに従事し、イギリス軍に大勝した。これにより、ジャクソンは国民的英雄とみなされた。ジャクソンの軍事的野心はそこで終わらなかった。当時、北米大陸のフロリダはスペインが支配下に置いていた。

 1817年、ジャクソンはフロリダへ進軍した。スペインの拠点を制圧しながら、先住民などを攻撃し、フロリダ占領を進めた。1821年、ジャクソンはフロリダ准州の知事となった。スペインの反発を受けながらも、フロリダの土地買収を推進した。このように、ジャクソンはアメリカの領土を西へ拡大していった。

 第7代アメリカ大統領へ:ジャクソニアン・デモクラシー

 1822年、ジャクソンは再び連邦議会の上院議員となった。 1824年、ついに大統領選挙に出馬した。だが、ジョン・クインシー・アダムズに敗れた。
 1828年、ジャクソンは再び大統領選挙に出馬し、勝利し、第七代アメリカ大統領になった。ジャクソンの時代に民主主義の進展がみられたため、この時代の民主主義をジャクソニアン・デモクラシーと呼ぶ。

 選挙にかんする特徴

 たとえば、ジャクソンの大統領選挙に、その特徴がみられた。背景として、アメリカの各州で普通選挙制が普及していき、1820年頃には白人男性のほとんどが選挙権を持つようになったことが重要だった。

 それまでは白人男性であっても、一定以上の財産を持っていなければ、選挙権を得られなかった。だが、ジャクソンの大統領選挙の頃には、この財産による資格制限もほぼ消滅したのである。黒人奴隷や女性は選挙権を認められていなかったが、白人男性はほぼ全員が選挙権をもっていた。
 ジャクソンは民衆に広く訴えかけることで当選した最初の大統領となった。ジャクソン以前のアメリカ大統領選挙では、選挙権の保持者の人数が少なかった。そのため、それまでの大統領候補たちは特定の支持団体の力に頼ることで、選挙に勝利してきた。

 だが、ジャクソンの大統領選挙では、白人であれば誰でも選挙権をもった。どこの出身であろうと、財産の多いか少ないかに関係なく、白人男性は一人一票しか持たなかった。そのため、ジャクソンはより多くの白人男性の票を得るために、従来とは異なる選挙戦術をとった。

 より多くの民衆の支持を得られそうな争点を選び、それを軸として多数派を形成していった。ジャクソンは「勇気ある一人の人間が多数派を形成する」と考え、積極的に民衆の中で多数派を形成していったのである。

 大統領としての功績:独占的な資本主義との対決

 ジャクソンは庶民出身の最初の大統領であり、農民や労働者の利益を代弁した。富裕層よりも貧困層のほうが人数としては多かったので、より多くの票や支持を得ようとした結果である。
 ジャクソンは農民や労働者の味方をする一方で、富裕層というよりは巨大な資本の力を敵として選んだ。言い換えれば、ジャクソンが打ち倒そうとしたのは、特権によって守られた独占的な資本主義の体制だった。

 この時期、アメリカでは資本主義経済が急速に広まっていった。そのような中で、ジャクソンは巨大な資本によって独占的に支配される資本主義ではなく、自由な競争による資本主義を目指したのである。この時期に、自由な労働や稼ぐ権利などの意義が声高に主張されるようになった。
 かくして、ジャクソン大統領の中心的テーマは、経済における集中権力との闘いであった。とりわけ、合衆国の第二銀行との闘いであった。 この「怪物銀行」のもつ独占力を敵とみなした。
 とはいえ、ジャクソンは庶民出身の大統領として、彼らの支持のもとで既得権益階級と対立する政策を進めていると認識された。そのため、民主主義の象徴的存在とみなされるようになった。
 具体的には、ジャクソンは1833年には、関税法を制定し、保護関税を撤廃して自由貿易へと大きく舵を切った。合衆国銀行の廃止に成功した。これは、既得権益層の独占に反対する農民や都市民らに強く支持された。ほかにも、公職を大統領支持者に配分する仕組みを部分的につくった。

 インディアン強制移住法

 ジャクソンはアメリカ合衆国の民主主義を発展させる一方で、国内の先住民に対しては引き続き厳しい政策をとった。有名なのは1830年のインディアン強制移住法である。これはミシシッピ川東部に住んでいたインディアンすなわち先住民をその西部に強制移住させるものだった。

 東部の先住民の土地を彼らから奪い、自国の大衆に分配した。その結果、先住民との戦争が起こった。だが、武力で先住民を鎮圧した。新たに獲得した土地での奴隷制農園の実施の是非が問題となっていき、のちに南北戦争が生じることになる。

 ジャクソンは1837年まで大統領をつとめた。 1845年に没した。

アンドリュー・ジャクソンの肖像画

アンドリュー・ジャクソン 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

西川秀和編『アンドリュー・ジャクソン伝記事典』大学教育出版, 2020

J.M. Opal, Avenging the people : Andrew Jackson, the rule of law, and the American nation, Oxford University Press, 2020

Brian D. McKnight(ed.), The age of Andrew Jackson : interpreting American history, Kent State University Press, 2011

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