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ジェイムズ2世:二つの革命に翻弄された王

 ジェイムズ2世はイギリス国王(1633ー1701) 。1685年から1688年までイングランド、スコットランド、およびアイルランドの王。これからみていくように、幼少期から晩年まで激動の人生を歩んだ。王位継承者でありながら他国の軍隊に入って軍務をこなした。帰国してどうにかイギリスの王になることができた。だがその後も過酷な運命が彼を待っていた。

ジェイムズ2世(James II)の生涯

 ジェームズ2世はイギリスのロンドンでイギリス王チャールズ1世の次男として生まれた。だが、まもなく不遇の人生を歩み始める。

 1642年、イギリスでピューリタン革命が始まった。イギリスの議会と国王の内戦である。1644年、ジェームズはヨーク公となった。これが後に重要となってくる。ジェームズはオックスフォードに居を構えていた。革命の進展に伴い、ジェームズは議会勢力によって幽閉された。

 ジェームズの一家は亡命を図るようになった。1648年、ジェームズは親類を頼ってオランダへの亡命に成功した。1649年、フランスに移った。すでにフランスに亡命していた母と合流した。その頃、イギリスでは、父チャールズ1世が議会との戦いに敗れ、処刑された。イギリスは王政から共和政に移行した。

 1652年、ジェームズはフランス軍に入隊した。様々な遠征に参加し、軍事経験をつんだ。王位後継者だったのが、他国の軍務に従事する身となったのである。

 王政復古と英蘭戦争

 1660年、兄のチャールズ2世がイギリス王に即位し、イギリスで王政復古が成立した。ジェームズはオールバニー公となった。さらに、海軍の大将に任命された。

 その少し前、イギリスはオランダと海洋帝国としての覇権争いを行っていた。1652−54年の第一次英蘭戦争では、イギリスが勝利した。

ニューヨークの獲得

 イギリスは王政復古後に、オランダの北米植民地への進出を開始した。1664年、ジェームズ2世はオランダ領のニュー・アムステルダムを占領するのに成功した。これが一因となって、1665年、第二次英蘭戦争が開始された。1667年、ブレダ条約で戦争が終わり、ここでもイギリスが勝利した。

 ブレダ条約で、イギリスはニュー・アムステルダムを獲得した。その代わりに、イギリス領だったスリナムをオランダに与えた。ニュー・アムステルダムは、ジェームズ2世がヨーク公だったのにちなんで、ニュー・ヨーク(新ヨーク)と改称された。現在の大都市ニューヨークである。

 1672年からの第三次英蘭戦争でも、ジェームズは活躍した。

 王の即位

 ジェイムズは対外戦争ではこのように活躍していた。だが、国内では、事態は別の展開をみせていった。この展開を理解するには、まず父のチャールズ2世の宗教問題をみていく必要がある。
 父のチャールズ2世は即位した頃にカトリックの信仰をイギリスで公認させようとしていた。だが、議会に反対されて失敗した。国内ではピューリタンとカトリックへの嫌悪感が広がっていた。
 1670年には、チャールズがフランスのルイ14世とドーヴァの密約を結んだことが発覚した。これはチャールズのカトリック改宗を条件に、フランスがチャールズに軍事援助をするというものだった。これに議会が危機感を募らせた。

 それまでの反ピューリタン・オランダの方針から反カトリック・フランスの方針へ移った。1673年、議会で審査法が制定され、公職者を英国教会の信徒に限定された。1678年、国王暗殺計画が露見した。これにカトリックが関与していたことが明らかになり、反カトリック感情がさらに高まった。
 このような反カトリックの状況で、ジェームズ2世を次期国王から排除しようとする動きが議会でみられた。ジェームズ2世はカトリックに改宗していたのである。1679年、チャールズが議会を解散した。だが、同年の新たら議会で、ジェームズ2世を王位継承者から外す排除法の成立が最大の焦点になった。チャールズは再び議会を解散した。
 だが、ジェームズの排除を目指す請願が全国で広がった。この請願派に対抗したのは嫌悪派である。請願派はのちのホイッグ党になっていった。ホイッグ党は王権制限と議会主権と宗教的寛容の方針を打ち出していく。

 嫌悪派はのちにトーリ党になっていった。王への服従と国教会体制の支持の方針を打ち出す。1680年の議会でも、排除法の成立が焦点となった。チャールズは妥協しなかった。1681年にトーリを味方にしてホイッグの一掃を進めた。1685年、チャールズが逝去した。ついにジェームズ2世が即位した。

 名誉革命

 ジェームズ2世はカトリックの国王として、親カトリック政策を推進した。要職には、カトリックの者を起用しようとした。1687年、信仰自由宣言をおこなった。上述の審査法からカトリックを除外した。

 ほかにも、オックスフォード大学のカトリック化などをおこなった。その背後にはルイ14世の支援があった。そのため、プロテスタントと議会派はイギリスのカトリック化と絶対王政への回帰を危惧し、結集するようになった。
 1688年、ジェームズは二度目の信仰自由宣言をおこなった。だが、この宣言の読みあげを英国教会の主教らが拒否した。そのため、彼らは投獄された。王を支持していたトーリーも離反した。

 この頃、ジェームズには皇太子が誕生した。これも議会派を不安にさせた。というのも、今後もカトリックの王がイギリスで永続化する可能性が出てきたからである。
 そのため、トーリとホイッグが提携し、オランダのオレンジ公に助けを求めた。というのも、オレンジはジェイムズ2世の長女と結婚し、ルイ14世と対抗していたからである。

 オレンジ公はプロテスタントの宗教擁護のみを目的に、イングランドの法と自由の維持はその議会にゆだねるとして、イギリスに進軍してジェームズ2世を攻撃した。ジェイムズはフランスへ亡命した。

娘たちの即位

 1689年の議会で、ジェイムズが国民との契約をやぶって国制を転覆し、その基本法を侵害したと宣言された。ジェームズが海外逃亡によってイギリスの統治権を放棄したので、現在の王位は空白であると宣言された。オレンジ公と妻のメアリがウィリアム3世とメアリ2世として共同王位についた。メアリ2世はジェームズ2世の娘である。

 その後、ジェイムズは王権を奪回できないまま、フランスで没した。なお、イギリスのアン女王も彼の娘である。

 ジェームズ2世と縁のある人物

チャールズ1世:ジェームズの父でイギリス王。ジェームズより前に議会主導のピューリタン革命を経験した。ジェームズ自身の人生は明らかにチャールズとイギリス王権の運命から大きな影響を受けていた。そのため、ジェームズについて知るには、チャールズの時代についても知るべきといえる

ウィリアム3世:名誉革命でジェームズを追い出したオランダ総督。ジェームズの代わりにイギリス王となった。ところが、ウィリアム自身も実は長らくイギリス政府に敵視され、不遇の時代を過ごしていた。この点ではジェームズと同様だった。では、ウィリアムはなぜ議会に革命参加を求められ、イギリス王になったのか。

ジェームズ2世の肖像画

ジェームズ2世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

浦田早苗『ジャコバイト関連辞典』三恵社, 2022

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

David Womersley, James II : the last Catholic king, Penguin, 2019

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