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ジャンヌ・ダルク:フランス救国の聖女

 ジャンヌ・ダルクは15世紀前半フランスの兵士(1412ー1431)。農民の生まれ。フランスとイギリスの百年戦争でフランスのために参戦し、敵に包囲されていたオルレアンの解放などで成果を挙げた。フランス王のシャルル7世のために尽力した。死後、特に19世紀以降にフランス国民感情の形成に寄与した。伝説的な要素もみられるが、実在の人物である。

ジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)の生涯

 ジャンヌはフランスのロレーヌ地方のドンレミで名望家の家庭に生まれた。幼い頃については不明瞭な点が多い 。だが、早くから信仰心の篤い少女だったようだ。

 ジャンヌ・ダルクの活躍の背景:百年戦争

 14世紀前半から、イギリスとフランスの間で100年戦争が始まった。イギリス国王がフランスの王位継承者を自認して、フランス王の後継者争いを引き起こしたのが始まりだった。イギリスとフランスが一進一退の攻防と和平や休戦を繰り返した。

 15世紀初頭になって、戦争が再び本格化した。1429年、フランスの王太子シャルルはオルレアンで危機的な状況にあった。シャルルはフランス国王として正式に即位し、フランス人の忠誠を明確に勝ち取りたいところだった。

 そのためには、ランスにたどり着く必要があった。というのも、歴代のフランス国王の戴冠式はランスで行われてきたためである。だが、イギリス軍によってそれが妨げられていた。戴冠式をあげるどころか、シャルルはオルレアンを失えば、さらにランスから遠ざけられることになり、イギリスに勝利する可能性が一層減ることになった。

 ジャンヌ・ダルクの登場:オルレアンの乙女

 1425年頃から、ジャンヌは天使ミカエルや聖カトリーヌなどの声を聞くようになったといわれている。その声はジャンヌにたいし、フランスをイギリス人から解放し王太子シャルルをランスで戴冠させよと告げた。ジャンヌは当惑し、長らくこの声には従わなかった。

 1428年、イギリス軍によるオルレアンの包囲戦が始まった。ジャンヌはついに声に従い、シャルルのもとへ護衛とともに向かった。シャルルと謁見した際に、ジャンヌはシャルルに戴冠式を行わせよという神の声に従って到来したと述べた。

シャルルに謁見するジャンヌ・ダルク

シャルルに謁見するジャンヌ・ダルク 利用条件はウェブサイトで確認

シャルルはジャンヌを信用した。ジャンヌの信仰が正統であることが確かめられた。かくして、ジャンヌはオルレアンの守備隊に加えた。

 オルレアンでは劣勢の戦況だった。だが、ジャンヌの隊はイギリス軍への反撃に成功し始めた。ジャンヌは味方を鼓舞した。当初の軍事計画を自らの才覚によって変更させ、断固とした勇気で敵に立ち向かった。

その結果、ついにオルレアンの解放に成功した。れゆえ、ジャンヌは「オルレアンの少女」と呼ばれた。

 ランスでの戴冠式へ

 ジャンヌは王室の指示に従い、ランス周辺の地域をイギリス軍から解放する任務にあたった。ジャンヌは軍の指揮権を持たなかったが、快進撃は続いた。1ヶ月ほどの間に周辺地域を陥落させた。

 ついに、ランスをも解放するのに成功した。7月中旬、ようやくシャルルはランスに移動することができ、念願の戴冠式をあげることができた。正式に、フランス王シャルル7世となった。ジャンヌは戴冠式に列席した。

 シャルルはフランス北部の諸都市を正式なフランス王として歴訪し、これらから忠誠を宣誓させた。この歴訪にも、ジャンヌは「神の証人」として随行した。

 敗北

 ジャンヌはその後もフランスのために転戦した。だが、失敗を重ねるようになった。1429年末には、その名声は大きく傷ついていた。1430年、ついにイギリス側に敗北し、捕らえられた。

捕らえられたジャンヌ・ダルク

その後、ルーアンへ移送された。

ジャンヌ・ダルクの魔女裁判:火刑へ

 ジャンヌは当時権威的だったパリ大学神学部によって異端の嫌疑をかけられた。神から直接命令を受けたという発言は、神と現世の仲介者としての教会の存在意義に反するのが問題だった。

 1431年に、ジャンヌの裁判が行われた。結局、ジャンヌが発言を撤回しなかったため、異端や魔女として断罪された。同年5月、ジャンヌはルーアンで火刑に処された。よって、魔女裁判の犠牲者となった。

ジャンヌ・ダルクはある意味で不運だった

 このようにみてみると、当時のフランスは魔女の信仰や裁判に熱中した国だと思われるかもしれない。
 たしかに、1420年代から1430年代にかけて、フランス東部のドーフィネでは、ヨーロッパで最も早く大規模な魔女裁判が行われた。ジャンヌ・ダルクの魔女裁判も同時期である。
 だが、フランスの上級裁判所はすぐにこの新しい犯罪の実態に対して懐疑的な態度を示した。さらに、重要なことに、フランス王権はジャンヌ・ダルクの魔女裁判のやり直しを行わせた。
 その背景として、そもそも、ジャンヌ・ダルクの魔女裁判はイギリスが望んだものだった。ジャンヌがフランス王シャルルの戴冠式を支えたので、イギリスはそのジャンヌを異端ないし魔女として断罪させようと画策したといえる。つまり、シャルルの正統性に傷をつけようとしたのだった。
  1450年、フランス王権はジャンヌ・ダルクの裁判のやり直しのための調査を開始した。1455年、パリでローマ教皇公認で更生裁判が行われた。最終的に、ジャンヌは異端ではないことが正式に認められた。
 これ以降、フランスでは、フランス王権や世俗の高等法院が魔女裁判を担当していく。教会の裁判所はこれに関わることができなくなる。だが、ジャンヌの魔女裁判は、教会裁判所が主に関わっていた。
 そのため、実のところ、ジャンヌの魔女裁判はフランスでは例外的なものだった。ジャンヌがもう少し後の時代に生まれていれば、魔女として処刑されなかったかもしれない。

 フランス国民のシンボルへ

 19世紀から、ジャンヌ・ダルクは聖女のイメージを伴って、フランス国民のシンボルとして祭り上げられるようになった。背景には、ロマン主義の隆盛があった。それと連動したかたちでの中世の再発見(新中世主義)も背景となった。特に、1870年にフランスがドイツと普仏戦争を行ったときなどに、ジャンヌは国民的ヒロインとして人気を得た。

普仏戦争の時期に上演されたジャンヌ・ダルクの劇

1920年には、聖女のイメージにあうよう、列聖された。

 今日においても、オルレアン解放記念日である5月8日に、ジャンヌはフランスの集合的記憶の中に呼び戻される。

ジャンヌ・ダルクの肖像画

馬上のジャンヌ・ダルク 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献


加藤玄『ジャンヌ・ダルクと百年戦争 : 時空をこえて語り継がれる乙女』山川出版社, 2022


竹下節子『ジャンヌ・ダルク : 超異端の聖女』講談社, 2019


Prosper de Barante, Jeanne d’Arc, une biographie, Grancher, c2010

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