MENU

ヨハン・フリードリヒ1世

ヨハン・フリードリヒ1世は16世紀の神聖ローマ帝国の領主(1503ー1554)。1532ー1547年には、ザクセン選帝侯だった。豪胆公とも呼ばれた。シュマルカルデン戦争では、プロテスタント諸侯の盟主として戦ったが、破れた。

目次

ヨハン・フリードリヒの出自と初期

 ヨハン・フリードリヒはドイツのザクセン地方で貴族の家庭に生まれた。父は堅忍公として知られるザクセン選帝侯のヨハン である。父はザクセンの領邦内でルター主義の確立を促進した。そもそも、父の兄は賢公として知られるフリードリヒ3世であり、ルターを皇帝や教皇の攻撃から守った。父はフリードリヒ3世が没した後、その方針を継承した。ルターの盟友メランヒトンとともに、ザクセンにルター主義教会を確立した。

 同時に、1530年代に入ると、ドイツのプロテスタント諸侯は神聖ローマ皇帝カール5世と対峙するようになった。カールはカトリックの守護者を自認し、ルター主義を帝国内で禁止していた。そこで、ドイツのプロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟を結成した。父ヨハンはその主導者となった。

ヨハン・フリードリヒの統治:シュマルカルデン同盟の盟主として

 父ヨハンが1532年に没した。そこで、ヨハン・フリードリヒ1世がザクセン選帝侯に就任した。ヨハン・フリードリヒもまた父やその兄のルター主義制作を引き継いだ。シュマルカルデン同盟の盟主として、ドイツのプロテスタント勢力を主導しようとした。ヨハン・フリードリヒは、正式な選挙で選出されていたカトリックの司教を力づくでルター派の主教に交代させるなどした。

 だが、同時に、ヨハン・フリードリヒはドイツのプロテスタント諸侯の関係に亀裂を生じさせることも行った。というのも、アルベルト系のモーリッツの権利を無視して、彼の領地のヴュルツェンを占領するなどしたためである。

 1547年、シュマルカルデン同盟と神聖ローマ皇帝との間でシュマルカルデン戦争が始まった。上述の亀裂が戦況に響いた。同年の皇帝カールはモーリッツの助力を得て、ミュールベルク戦いでヨハン・フリードリヒの軍勢に大勝したからである。この戦いで、ヨハン・フリードリヒ自身が皇帝軍に捕えられた。

ヨハン・フリードリヒ1世の肖像画

ヨハン・フリードリヒ1世 利用条件はウェブサイトにて

 ヨハン・フリードリヒは当初、死刑を宣告された。だが、大部分の領地の没収と選帝侯の地位の喪失を条件に、死刑を免れた。彼の選帝侯の地位と領地の多くは上述のモーリッツの手に渡った。

 1552年、今度は皇帝カールとモーリッツが戦争に至った。このタイミングで、ヨハン・フリードリヒは解放された。1553年には、モーリッツがソッした。だが、選帝侯の地位はヨハン・フリードリヒの手には戻らなかった。ヨハン・フリードリヒは失意の中で、翌年没した。

おすすめ参考文献

松本悠子, 三浦麻美編『歴史の中の個と共同体』中央大学出版部, 2022

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次