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川端康成:日本初のノーベル文学賞

 川端康成は20世紀の文学者(1899―1972)。若くして『伊豆の踊子』などを発表し、文名を高めた。一時期は沈滞を味わった。『雪国』は日本近代文学の代表的作品となり、日本人で初めてノーベル文学賞をえた。優れた作品を数多く残しながら、優れた後輩を育てた。

目次

川端康成(かわばたやすなり)の生涯

 川端康成は大阪で医者の家庭に生まれた。幼くして両親を亡くし、祖父母に育てられた。だが、中学卒業までに祖父母や姉を亡くした。母方の親戚のもとで育てられた。

 川端は早くから学才を開花させ、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学の国文科に入った。

 小説家としての開花

 1921年、大学生の頃、川端は第六次『新思潮』を創刊した。同年、そこに『招魂祭一景』を発表した。この作品が菊池寛らに認められ、文壇デビューした。

 1924年、大学を卒業した。同年、川端は横光利一らとともに『文芸時代』を創刊した。この雑誌を中心に、「新感覚派」と呼ばれる文学運動を展開した。1926年には、早くも代表作として知られる『伊豆の踊子』を発表した。

『伊豆の踊子』

 この作品は川端自身の高校時代の伊豆旅行に基づいている。主人公は第一高等学校の学生である。孤児として育ったことで、心の歪みを感じていた。初めて伊豆旅行で、道中、旅芸人の女性たちと行動をともにすることになった。

 その中のひとり、14歳の踊り子の素直で可憐な姿に主人公は惹かれいき、心が洗われたように感じる。しかし、旅が終わりに近づくとともに、少女たちとの悲しい別れも訪れる。

 本作は美しい風景のもとで織りなす青春文学として名声をえた。戦前にすでに映画化され、戦後も何度も映画化された。

 時代の空気と川端の作風の変化

 その後も川端は執筆活動にいそしみ、作品を次々と世に送り出した。だが、1930年代前半、日本社会は閉塞的な空気が強まっていた。

 たとえば、プロレタリア文学者小林多喜二が官憲に弾圧・殺害されるなど、プロレタリア文学運動などへの弾圧が厳しくなった。そのような中で、川端の作品にも、『禽獣』などにおいて無力感や虚無感が強まっていった。

 作家としての活躍:『雪国』

 だが、川端は筆も心も折らず、作品の制作に向かった。1935年から、代表作の『雪国』の執筆を開始した。この作品は戦後になって、1947年に完成した。本書は冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で有名である。

 越後湯沢の温泉街を舞台としている。病気のために東京から帰郷した男性主人公と、温泉街の芸者と美少女の三角関係をめぐる物語である。この日本近代文学の代表作は好評を博した。1948年に川端は日本ペンクラブの第4代会長に就任した。

 その後も川端は優れた作品を世に送り出していった。1949年からは『千羽鶴』や『山の音』を発表した。1951年からは『名人』を発表した。

 名声の確立:ノーベル文学賞

 晩年の川端は国内外で名声を確立していった。1952年には、日本芸術院賞をえた。1953年、日本芸術院の会員となった。1957年、国際ペンクラブを初めて日本で開催した。1961年には、文化勲章をえた。

 1968年、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した。『雪国』や『千羽鶴』などの作品が高く評価されたためだった。『千羽鶴』は或る母娘を中心とした愛欲の物語である。これも映画化された。本作にちなんだ日本酒も存在する。

 1972年に自殺した。

川端康成の肖像写真

川端康成 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

川端康成の代表的な作品

『招魂祭一景』(1921)
『伊豆の踊子』(1926)
『禽獣』(1933)
『雪国』(1935−47)
『千羽鶴』(1949ー1951)
『山の音』(1949ー1954)
『名人』(1951ー1952)
『古都』(1961ー62)

おすすめ参考文献

十重田裕一『川端康成 : 孤独を駆ける』岩波書店, 2023

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この記事を書いた人

国内の大学院を修了した歴史系の独立研究者です。

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