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ラ・ファイエット:三つの革命に身を投じた貴族

 ラ・ファイエットはフランスの政治家で軍人(1757―1834)。アメリカ独立革命で軍人として活躍し、英雄視された。フランス革命では、革命側で参加した。フランス人権宣言の起草でも有名で、立憲君主制を支持した。だが、革命の動乱の中で亡命した。ナポレオンの台頭後は、対立するに至った。最晩年には7月革命に加わった。これからみていくように、ラファイエットの起草した人権宣言はアメリカ合衆国とも興味深い関係をもっていた。

ラ・ファイエット(Lafayette)の生涯

 ラファイエットはフランス中部のオーベルニュで貴族の家庭に生まれた。若くして両親を亡くし、莫大な財産を相続した。軍人としての栄達を望んだ。

アメリカ独立革命へ:義勇兵として

 その頃、アメリカではアメリカ独立戦争が始まった。1777年、ラ・ファイエットは義勇兵として現地に赴き、独立軍の少将に任命された。最高司令官ワシントンと親交を結び、アメリカ独立のために戦った。フランスとアメリカを往復し、1779年にはジョン・アダムズらとともに、ルイ16世にアメリカ植民地への支援を説得した。実際に、ルイ16世はイギリスの国力を弱体化させるべく、アメリカへの支援を決めた。
 ラファイエットは・その活躍ぶりがアメリカで大いに歓迎および称賛された。そのため、「両世界の英雄」(新世界アメリカと旧世界ヨーロッパの英雄)と呼ばれた。アメリカのいくつかの州では名誉市民として受け入れられた。トマス・ジェファソンやベンジャミン・フランクリンなどのアメリカの重要な人物とも親交を深めた。

 フランス革命へ

 1783年、アメリカ独立戦争が終わり、アメリカ合衆国が誕生した。ラ・ファイエットはフランスに戻った。

 1787年には、名士会に選ばれた。この頃、フランス王権は財政逼迫などにより弱体化し、政情が不安定になっていた。そのような中で、1789年5月、全国三部会が召集された。ラ・ファイエットはオーベルニュの貴族身分の代表者としてこれに参加した。

 フランス人権宣言の起草

 同年、三部会は憲法制定議会となった。ラ・ファイエットはその議員にもなった。フランス革命が勃発する。ラファイエットはフランス革命を推進すべく、有名なフランスの「人権宣言」を起草した。これを7月11日に提出した。この草稿は修正をへて、可決された。
 興味深いことに、ラファイエットは「人権宣言」を起草する際に、アメリカのトマス・ジェファソンの協力を得ていた。ジェファソンはアメリカ独立革命の際に有名な「アメリカ独立宣言」を起草した人物である。ここに、二つの世界史的に重要な政治文書の興味深いつながりがみられた。
 ラファイエットとジェファソンはこの草稿を革命勃発後から準備し始めたのではない。1787年頃から、二人はフランスの採用されるべき権利章典について論じ合うようになっていた。これは当時の例外的な行動とはいえなかった。というのも、フランスのきたるべき政治や社会の秩序そして権利章典を構想することは『第三身分とはなにか』のシェイエスなどによっても行われていたためである。その背景として、当時のヨーロッパでは、スイスやオランダそしてアメリカなどで大きな政治変動が起こり、人権・自然権の概念が発展し普及していたのである。
 そのため、ラファイエットとジェファソンはフランスのあるべき権利章典について論じ合い、それをいずれ国王が採択せねばならないと考えていた。ラファイエット自身が練り上げていた草案をジェファソンは高く評価し、これをアメリカ本国にいるマディソンに送った。なぜか。当時、建国されたばかりのアメリカ合衆国は新たな憲法を必要としており、そのために議論していたためである。ジェファソンはラファイエットの権利章典の草案をアメリカ合衆国の新憲法のモデルとしてマディソンに送付したのである。アメリカの新憲法は1791年に誕生することになる。ここに、フランス人権宣言とアメリカ合衆国憲法の間接的なつながりがみられる。

 その後も、ラファイっとは議会の副議長をつとめるなどして、ミラボーとともに革命初期の主要人物として活躍した。この時期がフランス革命におけるラファイエットのピークだった。

 立憲君主制の支持と弾圧:シャン・ド・マルス事件

 フランス革命では、王権打倒の気運が強まっていった。ラ・ファイエットはフランス王権を維持しながら、憲法のもとに王権を置く立憲君主制を支持した。そのために、立憲君主制を支持するフイヤン・クラブを結成し、共和制を推進していた急進派のジャコバン・クラブから離れた。
 1791年、民衆による王権打倒の動きに対しては、厳しい弾圧を加えた(シャン・ド・マルス事件)。ラファイエットは優れた憲法によるフランスの改革を望んだが、王政自体を消滅させるつもりはなかったのである。

 革命戦争と亡命

 この頃、オーストリア出身の王妃マリー・アントワネットらの画策により、オーストリアなどがフランス革命への干渉戦争を始めた。1792年、革命戦争が始まった。ラ・ファイエットは革命軍の司令官となった。

 だが、同年、パリの民衆がチュイルリー宮殿を襲い、王権が停止された。民衆の支持を得て、ロベスピエールが実権を握り始めた。急進的な共和主義者だったロベスピエールはラファイエットを敵視していた。そのため、ラ・ファイエット自身は革命軍司令官の辞任を余儀なくされた。
 ラ・ファイエットは亡命を望み、オーストリア軍に投降した。その後、5年間は捕虜となった。フランスでは、ロベスピエールによる恐怖政治が展開された。ラファイエットがフランスに留まっていたら、他の政治家とともに処刑されていたかもしれない

 ナポレオン帝政のもとで

 その後、ロベスピエールの失脚により、恐怖政治が終わった。ラ・ファイエットはフランスに戻った。ナポレオンが台頭し、実権を握るようになる。ラファイエットは隠棲した。この頃、トマス・ジェファソンはアメリカ大統領ジェファソンに就任していた。ラファイエットはジェファソンからアメリカでの知事の職を打診されたが、断った。

 1814年、ナポレオンがロシアとの戦争で敗北し、エルバ島に流された。だが、パリに戻ってきて、百日天下が始まった。その中で、ラ・ファイエットはナポレオンに対立し、失脚させようと画策した。ナポレオンはワーテルローの戦いでの敗北で、政治生命を終えた。

 7月革命へ

 1830年、フランスでは七月革命が起こった。その際に、ラ・ファイエットはルイ・フィリップの立憲王政の樹立に尽力した。7月王政の成立後は、国民軍司令官を務めた。1834年に没した。

ラファイエットと縁のある人物や事物

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ラファイエットの肖像画

ラファイエット 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

ピーター・マクフィー『フランス革命史 : 自由か死か』永見瑞木, 安藤裕介訳, 白水社, 2022

山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生 』刀水書房, 2018

Jean-Pierre Bois, La Fayette : la liberté entre révolutions et modération, Perrin, 2015

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