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ラス・カサス:アメリカ先住民の守護者

 バルトロメ・ド・ラス・カサスはスペインの宣教師で神学者(1474ー1566)。コロンブスの新世界「発見」以降、大航海時代の真っ只中で、スペインのアメリカ征服にさいして、先住民インディオを守るための運動を展開した。奴隷制と化していたエンコミエンダ制やキリスト教の宣教などをめぐり、理論と実践で、先住民の立場にたって、闘った。その生涯と影響をみていく。

ラス・カサス(Bartolomé de Las Casas)の生涯

 ラスカサスはスペインのセビーリャで生まれた。その出自の詳しいことはわかっていない。どのような教育を受けたかも明確ではない。ラテン語を学んだようだが、大学には通わなかったようだ。

 新世界へ

 周知のように、1492年、コロンブスがインドを目指した航海で、新世界アメリカを「発見」した。コロンブスはスペイン王の後ろ盾でこの航海事業を行った。そのため、スペインがアメリカでの探検や征服を大々的に開始した。ポルトガルもブラジルで同様に開始した。
 1502年、ラスカサスは総督ニコラス・デ・オバンドのもとでアメリカにわたった。当時のスペイン人の征服者や植民者の一団の一人であった。その後、スペインに戻った。ラス・カサスは、1507年ごろにアメリカに再び移り、開拓民となった。

 エンコミエンダ:その受益者に

 1513年、ラスカサスはカリブ諸島でエンコミエンダの受益者になった。言い換えれば、エンコメンデロになった。
 エンコミエンダとは「委託」という意味である。スペイン王権がアメリカ先住民をスペイン人植民者・征服者に委託するという制度である。
 この時期、スペイン人植民者が自費でスペインからアメリカに渡航し、自費で征服や植民の活動を行っていた。スペイン王権は彼らに様々な権利を与えることで、彼らの活動を法的に支えた。

 征服者らはアメリカの征服や植民で功績をあげた。この功績ゆえの報酬として、スペイン王権はアメリカの先住民を植民者に「委託」した。この「委託」において、植民者は先住民を農業や鉱山などで使役する権利を王権から得た。

 そのかわりに、先住民に教育やキリスト教的な教化をほどこす義務を負った。すなわち、エンコメンデロは先住民から労働力を徴用する権利を得るかわりに、教育や教化をほどこす義務を負った。このような制度がエンコミエンダである。
 エンコミエンダは事実として、すぐに奴隷制に変化した。多くの先住民はまともな食事も与えられず、死んでいった。だが、ラス・カサスも当初は普通のエンコメンデロだった。

 植民者にたいする批判へ

 だが、ドミニコ会の中には、アメリカ先住民へのスペイン人植民者の処遇を断罪する者がでてきた。
 その背景として、スペイン征服者の多くは一攫千金を夢見て到来したが、失敗した。アメリカへの渡航や遠征の費用で多額の借金を抱えていた。しかし、遠征でたいした利益をあげられない場合も多かった。

 困窮した結果、許可なく遠征して、奴隷狩りで稼ぐ人がでてきた。奴隷化された先住民は劣悪な条件で働かされた。1510年頃までには、カリブ諸島の先住民の人口は急激に減っていった。伝染病もその一因だった。
 この事態を受けて、1505年からスペイン政府は黒人奴隷をアメリカ植民地に導入し始めた。

 このような先住民の惨状をみかねて、一部の聖職者は征服者を断罪した。エンコミエンダなどで先住民が死滅し苦しむ中で、スペイン人植民者たちがこのままでは地獄に落ちるぞと説教した。アメリカ植民地で動揺が生じた。
 ラスカサスもまたエンコミエンダなど、植民地のあり方に疑問を抱くようになる。ついに、1514年、自らのエンコミエンダを返上し、エンコメンデロであることをやめた。

 植民地改革の訴え

 さらに、ラス・カサスは先住民の処遇を改善すべく、行動を始める。ここから、先住民のための長い戦いが、死ぬまで続く戦いが始まる。
 1515年、ラスカサスはスペインに戻った。当時のトレド大司教で著名なシスネロスに会い、アメリカ先住民の惨状を訴えた。
 シスネロスはラス・カサスの意図に賛同し、アメリカ植民地の改革を支持した。そのための計画が立てられ、ラス・カサスはその委員に選ばれた。1516年、現状調査のために、再びアメリカに向かい、様々な調査を行った。

 この頃、カルロス1世がスペイン王に即位した。1519年に神聖ローマ皇帝カール5世となる人物である。
 1518年、ラス・カサスはアメリカ植民地の改革案をカルロス1世に提出した。そこでは、エンコミエンダの廃止を訴えた。だが、廃止の提案は受け入れられなかった。

ベネズエラでの平和的な入植の実験

 ほかに、ラス・カサスはアメリカでの植民地建設の平和的な方法を考えていた。当時は、征服が一般的だった。だが、ラス・カサスは征服がもたらす様々な弊害を考慮し、平和的な方法にこだわった。その方法をカルロス1世に提案した。
 すなわち、武力を用いずに、農民をつれて、先住民インディオとともに新たな植民都市を建設しようという案だ。。これが採用された。

 1521年、ラス・カサスはこの計画を実行すべく、アメリカに戻った。これを現在のベネズエラで行った。だが、そもそも、スペインから農民としての移住志願者を一定数集めるのに失敗した。

 新たな植民都市の周辺のスペイン植民者の反対を受けた。しかも、インディオの襲撃を受けた。その結果、平和的な植民や宣教の計画は失敗に終わった。

 学識の深まり

 ラスカサスはこの頃、ドミニコ会士になった。もともとドミニコ会と交流をもっていたが、正式にこの修道会に入った。その職務をこなしながら、勉学にはげんだ。アメリカ先住民の境遇改善のための議論を練った。

 そのための論拠や理論を洗練するために、様々な理論を独学で学んでいった。自らの議論を著述し始める。ラスカサスは没するまでにかなり多くの著作を執筆することになる。
 ちなみに、ラス・カサスは先住民の負担を軽くするために、アフリカから黒人奴隷をアメリカ植民地に導入するよう提案したこともあった。だが、これは黒人奴隷にとって問題だと考え、この提案を撤回することになった。

 グアテマラの宣教計画

 ラスカサスは平和的なキリスト教の宣教活動を主張すると同時に、これを推進した。平和的な宣教方法についての考察を深めていき、1537年に『唯一の方法』を執筆した。そこでは、様々な宣教方法の中で平和的な宣教方法が唯一正しいものであることを論じた。
 さらに、ラス・カサスはこの方法をアメリカで実践した。1537年から1539年にかけて、グアテマラにおいて、同僚のドミニコ会士たちとともに、平和的宣教活動の計画を入念に立て、実行した。これは一定程度の成功を収めた。
 他方で、ラス・カサスは次第にスペイン人植民者と対立するようにもなっていた。そのため、それまではスペイン人の植民者らに宣教活動を邪魔されることもあった。
 そのような邪魔が入りにくい場所を選ぶなどして、できる限り準備をした。当初は、この宣教はうまくいった。だが、様々な困難にみまわれた。

 カルロス1世への再度の訴え

 1540年、ラスカサスはスペインに戻った。 ラスカサスはアメリカ先住民の境遇を改善すべく、カルロス1世に改善案を提出するために、スペインに戻ってきたのだ。

 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

 謁見を待つ間に、ラス・カサスは『インディアス破壊小史』を執筆した。これはラス・カサスの著作の中でも、最も有名であり、最も影響力をもったものだ。ここで、「インディアス」はアメリカを指す。

 本書において、ラス・カサスはコロンブスの到来以降、スペイン人がいかに残酷かつ残虐にアメリカの先住民を殺害し、彼らの社会を破壊してきたかを説明する。スペイン人が先住民にたいして行った戦争の中で、正当であったものは一つもないと断言する。

 スペイン人は金銀財宝への強欲などに突き動かされて、これほど多くの哀れな先住民を殺してきたのだ、と。スペイン人であるラス・カサスが、スペイン人の征服者・植民者によるアメリカ征服を全面的に断罪したのである。
 ちなみに、この時期、スペインではサラマンカ大学のような主要な大学において、スペインのアメリカ征服の正当性について疑念が表明されるようになっていた。スペイン人は征服がまだ行われている時期に、その正当性に疑念を抱き、これについて論争するようになっていたのである。
 ラス・カサスは本書によって、他の著作によって、さらに後述の仕方で、この論争に参加することになる。
 なお『インディアス破壊小史』はスペイン王権を批判する著作ではない点に注意が必要である。なぜなら、この時期のラスカサスはスペイン王カルロス1世の協力を得ることで、先住民の境遇の改善を目指していたからである。
 よって、本書で断罪されているのはスペイン王ではなく、スペインの植民者や征服者である。

 カルロスとの謁見

 1542年、ラス・カサスはカルロス1世に謁見し、改革案を提出した。そこでは、エンコミエンダの廃止や、アメリカ先住民をスペイン王の自由な臣民にすること、スペイン人による征服活動の中止などが提案された。先住民が実質的に奴隷として扱われている状況を改善しようとした。

 「新法」の制定

 1542年、ラス・カサスの働きかけも一因となって、カルロス1世はアメリカ植民地にたいして、いわゆる「新法」を制定した。そこでは、エンコミエンダの実質的な廃止が決定された。さらに、新たな征服活動にも制約がかされた。
 廃止の背景として、エンコミエンダがある種の封建制度としてアメリカ植民地に根づき始めていた。すなわち、アメリカ植民地に貴族のような階級が誕生しつつあった。
 カルロス1世はアメリカ植民地にそのような勢力が新たに誕生するのを阻止したかった。彼らはカルロスへの抵抗勢力になりうるからである。これは、エンコミエンダ廃止に賛成した理由の一つだった。
 だが、新法はアメリカ植民者の反乱を引き起こした。植民者からすれば、エンコミエンダは自分たちが血と汗を流して働いたことへの正当な報酬だった。それが王権によって奪われるという。

 そのため、植民者たちは副王という王の代理人を殺害するほど、反発した。ペルーの副王(アメリカ植民地での国王の代理、よって植民地での最上位の執政者)が反乱で殺害されるほどだった。

 当時、スペインとアメリカ植民地の往復には1年ほどかかった。そのような中で、スペイン王権はこの反乱を鎮圧できなかった。そのかわりに、新法の内容を骨抜きにした。反乱は止んだが、エンコミエンダの廃止は撤回された。

エンコミエンダのその後

 エンコミエンダのその後はどうなったのだろうか。16世紀の終わりに向けて、エンコミエンダは徐々に制限されることになる。なぜなら、先住民が伝染病などによって急激に減っていったためである。
 先住民を使役するのは有償になった。エンコミエンダの相続も徐々に制限されていった。だが、先住民の急減を目の当たりにして、反対はあまり生じなかった。
 ただし、エンコミエンダはこのまま消滅したわけではなかった。17世紀前半、別の目的が与えられ、存続することになる。

 チアパスの司教へ

 アメリカ植民地がこのように動揺していた頃、ラス・カサスは上述の改革案の遂行のためにメキシコのチアパスの司教に選ばれた。1545年、多くのドミニコ会士を引き連れて、チアパスに移り、司教として活動を開始する。
 ラス・カサスは先住民インディオの守護者を自認し、インディオを保護する政策を開始した。たとえば、スペイン人植民者にたいして、先住民を解放し、彼らから奪った物品をすべて返還しなければ、告解という宗教儀式を植民者に行わないと宣言した。当初、これを厳格に実行した。
 その結果、大きな反発をうんだ。現地の植民者だけでなく、司教会議や統治者にも不興を買った。ラス・カサスは日々の説教も妨害されるようになった。そのため、司教職を辞任した。

 バリャドリードの論争へ

 1547年、ラスカサスはスペインに戻った。 再び思索と著述を行った。同時に、宮廷に出入りするようになり、影響力をもった。
 ここまで、先住民を擁護するラスカサスの活動と主張をみてきた。他方で、スペインとアメリカ植民地において、新法への反乱にみられるように、植民者の利益を擁護する立場も強力に存在していた。

 1540年代に入り、セプルベダという学者がこの立場で、『第二のデモクラテス』を公刊しようとした。セプルベダは古代ギリシャのアリストテレス哲学やキリスト教の思想を利用して、スペインのアメリカ征服を正当化した。
 ラス・カサスはその出版計画を知り、差し止めようと介入した。このような因縁もあり、両者は対立するようになる。
 1550年、両者はついに持論を戦わせることになる。当時のスペインの首都バリャドリードで、王室主催の論争が開かれた。これはバリャドリード論争と呼ばれる。
 選ばれた学者などの委員の前で、セプルベダとラスカサスが交互に持論を展開した。その後、それぞれの議論を要約したメモを渡され、反論をそれぞれ提出した。

 そのため、二人が直接、面と向かって議論を交わしたわけではなかった。この論争や司会者による要約などが公刊された。だが、この論争自体はスペイン王室の植民地政策に大きな影響を与えたわけではなかった。また、アメリカ征服の正当性をめぐる論争自体が徐々に下火になっていく。

 1552年の一連の公刊

 1552年、ラス・カサスはそれまでに書き溜めていた一連の著作を公刊した。どれもアメリカの問題に関わるものだった。『インディアス破壊小史』もこのときに公刊された。

 晩年

 ラス・カサスはその後も著述を続けた。ながらく、ラス・カサスはスペイン王権による植民地の改革を期待し、推進し続けた。
 だが、事態はラス・カサスの望むようには改革されなかった。ラス・カサスは次第にスペイン王権に失望し、王権への批判を次のように展開するようになった。

 スペイン王はアメリカ先住民から同意を得られない限り、彼らにたいする支配権を持たないとまで断じるようになった。スペイン人が正当に得たのではない先住民の財宝は窃盗や強奪であり、全て返還せねばならない、と。
 実質的に、スペイン征服者・植民者たちがアメリカで築いてきた資産を全て先住民に返せといっているのに等しかったといえる。

ラス・カサスの重要性と影響

現代的意義


 以上のように、ラス・カサスは先住民インディオのために精力的に活動した。現代において、先住民の利益を擁護する運動(インディヘニスモ)の先駆的な人物として知られるほどである。
 20世紀のラテンアメリカで発展したこの運動では、ラスカサスは先住民インディオのみならず、世界のあらゆる弱者や抑圧された人々の解放者として称揚された。

当時の影響や意義


 では、ラスカサスの活動はラスカサスの時代には、16世紀にはどのような影響力をもったのだろうか。先住民の境遇は結局のところ、全く改善されなかったのだろうか。
 この点で重要なのは、やはりエンコミエンダ制をめぐる争いである。スペイン人征服者たちは自分たちの血と汗で得たエンコミエンダという「財産」を手放したくなかった。

 それどころか、これを自分の子孫に永久に世襲させたかった。アステカ帝国の征服者で、最大規模のエンコメンデロのエルナン・コルテスは、エンコミエンダの世襲化のために、スペイン王権と交渉した。
 だが、上述のように、スペイン王権はそれを阻止しようとした。アメリカという遠い地域に、エンコメンデロという新たな封建貴族が誕生するのを防ごうとした。封建貴族は王権にとって対抗勢力になる恐れがある。アメリカほど遠ければ、なお、コントロールしにくい。
 ラスカサスはエンコミエンダ制への対策で王権と利害が一致した。ラスカサスらドミニコ会士はエンコミエンダでの先住民の隷属を特に問題視した。先住民を奴隷のようにではなく、自由人として扱うよう境遇の改善を目指した。

 これにおいて、「新法」以外にも、一定の成果を得たと評されている。むしろ、エンコミエンダ対策で効果がでたので、エンコミエンダによる利益があまりに減少することに危機感を抱いた当局に掣肘を加えられた。
 他の影響として、ラスカサスはドミニコ会の宣教方針に影響を与えた。宣教では暴力の使用を避け、説得や対話を重視した。これは今日からすれば当たり前のことだと思われるだろう。

 だが、当時はそうとはいえなかった。たとえば、同時期のブラジルでは、宣教で武力を使用したり、あるいは武器で脅すことによって、先住民をおとなしくさせ、反抗心を抑えつけることが推奨された。
 ほかにも、ラスカサスはキリスト教に反しない限り、先住民の伝統的文化の保持を認める寛容な姿勢をしめした。これがドミニコ会で採用された。
 また、最晩年のラスカサスは上述のように、先住民に彼らの財宝を返せと論じていた。先住民がスペイン王の支配に同意しないなら、スペイン王に服従する義務がない、とも。
 この時期、ドミニコ会はペルーでの実質的な統治権を先住民に戻すよう、王権と交渉すらしていた。これはペルーでスペイン人植民者が封建貴族化しつつあるという背景があった。
 この点で興味深いのは、ドミニコ会による先住民の教育である。先住民もまた、エンコミエンダの世襲化に反対する請願運動を行った。先住民はスペインの司法システムの使用法をドミニコ会から学んだのである。

 よって、先住民はアメリカ植民地の司法制度を活動した。これはエンコミエンダ制以外にかんしてもそうだった。植民地で働くスペイン人の司祭にたいして、様々な罪ゆえに訴訟を起こした。
 以上が先住民の境遇改善にかんするラスカサス主義の影響だった。もっとも、その全体を紹介できたわけではないが。

 ラスカサスと縁のある人物

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ラスカサスの肖像画

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 おすすめ参考文献

ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田 秀藤訳, 岩波書店, 2013

染田秀藤『ラス・カサス』清水書院, 2016

安村直己監『南北アメリカ大陸 : ~一七世紀』岩波書店, 2022

David Thomas Orique(ed.), Bartolomé de las Casas, O.P. : history, philosophy, and theology in the age of European expansion, Brill, 2019

Lawrence A. Clayton(ed.), Bartolomé de las Casas and the defense of Amerindian rights : a brief history with documents, University of Alabama Press, 2020

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