レオポルト2世は18世紀末の神聖ローマ帝国の皇帝(1747ー1792)。在位は1790ー1792 年。啓蒙専制君主の一人として知られる。フランス革命が起きた際には、妹でフランス王妃を助けるために、フランス革命への干渉戦争を開始した。これ以降、ナオレオンの敗北まで戦争が続いた。
レオポルト2世の出自と初期
レオポルト2世はオーストリアのウィーンで神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの間に三男として生まれた。
1765年、父が没した。兄がヨーゼフ2世として皇帝に即位した。レオポルトは父の後継者としてトスカーナ公の地位を継いだ。ここで25年間、啓蒙専制君主としての手腕を発揮し、税制改革などを行った。刑法学者ベッカリーアと交流をもった。
神聖ローマ皇帝として:フランス革命とピルニッツ宣言
1789年、フランス革命が始まった。翌年、オーストリアで兄ヨーゼフ2世が没した。ヨーゼフには嫡子がいなかったので、レオポルトが皇帝に即位した。同時に、ハンガリー王やオーストリア大公にもなった。国内では、農奴解放や宗教的自由の拡大を推進した。
フランスでは、革命派がフランス王権と敵対した。フランス王妃は有名なマリー・アントワネットだった。アントワネットはマリア・テレジアの娘だった。テレジアはアントワネットを政略結婚としてフランス王ルイ16世に嫁がせていた。
フランスの革命軍はルイ16世とアントワネットを軟禁状態に置こうとした。だが、1791年6月、フランス王夫妻はそこから脱出してオーストリアへ逃れようとした。だが、失敗し、パリに送りかえされた(ヴァレンヌ逃亡事件)。
この一件をうけて、レオポルト2世はフランス王夫妻の身を案じた。そこで、レオポルトはフランス革命に干渉しようと決心した。これに専念するために、トルコとの和平を結んだ。
さらに、1791年8月、レオポルトはプロイセン王とザクセンで会談し、ともにピルニッツ宣言を出した。ヨーロッパの諸君主にたいして、フランス王権を革命から守るよう訴えたのである。これがフランス革命への周辺国の干渉戦争を引き起こすことになる。
1792年、レオポルトは早速プロイセンと防衛同盟を結んだ。だが、レオポルトはまもなく没した。
神聖ローマ皇帝レオポルト2世の肖像画

おすすめ参考文献
今野元『フランス革命と神聖ローマ帝国の試煉 : 大宰相ダールベルクの帝国愛国主義』岩波書店, 2019








