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リスボン旅行の魅力とは?歴史を踏まえて深く紹介

 リスボンはポルトガルの首都として、大航海時代にはブラジルやアフリカから東アジアにまたがる海洋帝国の首府が置かれていました。戦国時代の日本とは南蛮貿易を行い、桃山文化に多大な影響を与えました。これらの異文化との交流や接触がリスボンを独自な仕方で発展させてきました。そのため、海洋都市リスボンは魅力的な歴史/文化の観光スポットを数多くもっています。

 それぞれの成り立ちや背景を知ることで、物事はより深く理解できるようになります。現地で実物を見た時の感動や感慨も一層深まります。そのため、この記事ではリスボンの歴史とともに観光スポットを厳選して紹介します。それでは、早速観光スポットをみていきましょう。

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1,ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)

 現在のポルトガルはヨーロッパの中小国の一つです。しかし、かつてポルトガルはヨーロッパ諸国を牽引する先進的な国でした。それは今から5−600年前のいわゆる大航海時代においてです。ジェロニモス修道院はこの時代の産物です。

17世紀のジェロニモス修道院 利用条件はウェブサイトで確認
17世紀のジェロニモス修道院

 そもそも、大航海時代はポルトガルによって始まりました。1415年、ポルトガルはアフリカ北部の都市セウタに進出しました。ここから、ポルトガルとスペインがアフリカ大陸の西岸を南下していきます。

 ポルトガルの有名なエンリケ航海王子がこの探検航海の拠点をリスボンに置きました。そのため、リスボンはポルトガル海洋帝国の首都として発展していきます。

エンリケ航海王子

 15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマが東インド航路を開拓しました。これによって、念願のインドで香辛料貿易を始めます。その後、ポルトガルはインドや東南アジアに海洋帝国の拠点を築いていきます。その結果、香辛料貿易などで莫大な富を獲得しました。

ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達

 ジェロニモス修道院の建築が開始されたのはまさにこの時期です。ポルトガル王マヌエル1世の命令により、1502年に着工されました。香辛料貿易の利益などを資金として、遥かなる海へと旅立つ航海士たちを支えるために建設されました。

 その建築様式はルネサンスの影響を受けています。この豪華で独特の建築様式はマヌエル1世にちなんでマヌエル様式と呼ばれています。

マヌエル1世

 ジェロニモス修道院はおよそ100年間かけて、一応の完成を迎えました。後述のように、1755年、リスボンで大地震が起こります。しかし、ジェロニモス修道院の損傷は軽微であり、まもなく修復されました。同時に、天井や階段などの装飾が追加されました。19世紀にも増改築が行われます。

 注目すべきは、1894年です。この時期、ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達400周年を記念して、ジェロニモス修道院の内部にある彼の墓が豪華なものに改装されました。ヨーロッパでもなかなかみられない優れた墓であり、王族のものよりも立派とさえいえます。

 また、ガマのインド到来にかんする優れた叙事詩を制作した詩人カモンイスの墓も改装されました。カモンイスはポルトガル最大の詩人として知られています。ちなみに、マヌエル1世の墓もこの修道院にあります。

現在のジェロニモス修道院

 このように、ジェロニモス修道院はポルトガルの黄金時代を代表する建物として意義深いものです。

2,ベレンの塔(Torre de Belém)

 ベレンの塔もまたマヌエル様式の代表的な建築物の一つです。この塔はジェロニモス修道院とほぼ同時期の1515年に建設が始まりました。1521年には一通り完成されました。建築家はフランシスコ・デ・アルーダであり、シントラの宮殿も手掛けた人物です。

16世紀のベレンの塔

 当初は、ベレンの塔はリスボンを敵の船から守るための要塞として建設されました。10門以上の大砲を備え付けることができます。とはいえ、マヌエル様式やムーア芸術の影響を受けた装飾や構造が数多く見られます。塔の頂上には、リスボンの守護聖人の聖ヴィンセントと大天使聖ミカエルの像が設置されています。

 17世紀なかばになると、ベレンの塔は防衛のためというよりは、周辺の航行や税関のための施設として利用されました。また、牢獄としても利用されました。この頃には、ジェロニモス修道院とともに、リスボンのランドマークとして定着します。

 19世紀、産業革命によって様々な技術革新が起こります。その際には、ベレンの塔は電信のために利用されました。また、修復工事が行われ、新たな装飾も施されました。

 ベレンの塔とジェロニモス修道院はポルトガルの黄金時代を想起させる代表的な建築物ですので、ぜひ訪れたいところです。

 20世紀に入り、ジェロニモス修道院の建物内に博物館を設置することになりました。そのうちのひとつが、1963年に開館した海洋博物館です。

3,海洋博物館(Museu de Marinha)

 海洋博物館はかつてのポルトガルの威信や誇りを体現した博物館だといえます。16世紀から、ポルトガルは海洋帝国として発展し、東アジアやアフリカそしてブラジルで勢力を誇りました。17世紀にはその規模が特に東アジアで収縮していきます。それでもブラジルなどの植民地を死守し、帝国として存続しました。

 この海洋博物館の原型は19世紀後半に誕生しました。その目的は大航海時代から19世紀までのポルトガルの海洋帝国としての活動を紹介することでした。主な展示品としては、それぞれの時代の船の模型や海図・計器などの航海用品、武器、重要な人物や出来事の絵画、彫像などがあります。

アストロラーベ

 さらに、それぞれの時代の船の復元や現物が体育館くらいのスペースで多数展示されているのも特徴といえるでしょう。たとえば、大航海時代のポルトガルのガレオン船の模型などがあります。

ポルトガルの16世紀のガレオン船

 この博物館の展示品を時代順に追っていけば、ポルトガルの発展史のコア部分に触れることができるでしょう。

 ただし、大航海時代におけるポルトガルと日本の交流については、海洋博物館はあまりスペースを割いていません。この交流に関する展示はあります。しかし、この点でより重要なのは、東洋博物館です。

4,東洋博物館(Museu do Oriente)

 リスボン旅行に関する雑誌やウェブサイトを見る限り、東洋博物館はあまり注目されていないようです。しかし、日本やポルトガルの歴史に関心のある方なら、ぜひ立ち寄ることをおすすめします。

 周知のように、ポルトガル人は1542年頃に初めて日本に到来しました。いわゆる種子島の鉄砲伝来です。記録で残っている限り、ヨーロッパ人として初めての日本到来です。1549年、カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来し、日本でキリスト教会を初めて樹立しました。

 16世紀後半には、キリスト教の宣教活動とポルトガルの貿易が密接に結びつき、南蛮貿易が本格化していきます。南蛮貿易は桃山文化に独特の色彩を加えました。南蛮屏風などがその代表例としてよく知られています。

ポルトガル人の日本到来

 1580年代には、九州のキリシタン大名とキリスト教会によって天正遣欧少年使節がローマへと派遣され、リスボンにも訪れます。このように、日本とポルトガルは大変興味深い交流をもっていました。

 東洋博物館には、その頃の交易品などが展示されています。もちろん、「東洋」博物館ですので、日本以外の産品も多く展示されています。中国や東南アジアなど、ポルトガル海洋帝国が関係を築いた国々です。

 それらの国とともに、日本の展示スペースもあります。南蛮屏風や陶磁器、甲冑などです。日本では見れない大変興味深い蒔絵の品もあります。かつて日本と深い交流をもったポルトガルという外国において、現在、日本の歴史がどのように紹介されているかをみるのは一興です。よい経験にもなるでしょう。

 日本は常設展が設置されているだけでありません。特別展が設置されることもあります。2024年4月からは日本の祭りなどの特別展が開催予定です。

東洋博物館内部の動画(画像をクリックすると始まります)

 ちなみに、東洋博物館には、ボランティアの説明スタッフさんがいます。彼らは外国人にたいしては、展示品の説明ガイドを英語でしてくれます。それのみならず、地元の小学生などの社会科見学では、子どもたちのガイドもしています。彼らが子供たちに、日本の展示スペースで日本について説明しているところに出合うこともあるでしょう。なかなか面白い光景です。

 日本とポルトガルの関連でさらに知っておきたいのが、サン・ロケ教会です。

5,サン・ロケ教会(Igreja de São Roque)

 サン・ロケ教会には、ザビエルの祭壇があります。それのみならず、付属の博物館には、南蛮貿易の品々も展示されています。なぜでしょうか?その理由を理解するために、日本とポルトガルの交流史をもう少しみてみましょう。

 上述のように、ザビエルは日本で最初にキリスト教会を樹立した人物でした。彼はカトリックの宣教師でした。より細かくは、イエズス会という修道会のメンバーであり、しかも創設メンバーでした。

 誕生したばかりのイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世から相談を受けました。東アジアやブラジルなどにキリスト教を広める宣教師を提供してほしいといわれたのです。東アシアの宣教師として、ザビエルが派遣されることになりました。

ジョアン3世

 ザビエルが没した後、日本での宣教はイエズス会が行うことになりました。宣教活動が進展していきます。日本は16世紀の東アジアで最良の宣教地とみなされるようになりました。また、上述のように、宣教師は南蛮貿易に深く関わりました。彼らなしには、貿易がうまくいかないほどでした。すなわち、南蛮貿易とイエズス会は切っても切れない縁にあったのです。

ポルトガル商人とイエズス会の宣教師の来日

 さて、サン・ロケ教会に話を戻しましょう。もともと、この教会の現在の場所は墓地でした。主に、ペストの犠牲者の墓地です。ペストはこの時代に猛威を振るっていた流行病です。サン・ロケ(ロクス)はペストに対抗するための守護聖人であり、当時はとても人気でした。

 ヴェネチア政府からロクスのレリックがマヌエル1世に贈与され、それをこの地で保管していたようです。その後、ここにサン・ロケ修道院が建てられました。人気の巡礼地として発展しました。

聖ロクス

 1540年代、イエズス会が正式に誕生しました。1553年、イエズス会はリスボンに最初の拠点を形成します。その候補地に選ばれたのがサン・ロケ修道院でした。ジョアン3世の許可を得て、イエズス会の新たなサン・ロケ教会を建設しました。それが今日のサン・ロケ教会となります。

 イエズス会はリスボンで、というよりポルトガルで強大な勢力へと発展していきます。そのリスボンでの主要拠点がサン・ロケ教会だったというわけです。そのため、この教会の内部には、創設メンバーかつ日本宣教の立役者ザビエルの祭壇があります。

 教会はマヌエル様式でつくられ、その装飾はきらびやかです。かつての繁栄を示しているかのごとくです。

18世紀のサン・ロケ教会の内部

 さらに、付属の博物館の展示品が興味深いものです。ここの展示品はかつてのサン・ロケ教会の所有物などです。ザビエルの生涯にかんするものなどがあります。日本との交易品もあります。

 日本では、ザビエルは中学などで日本史で学びます。しかし、ザビエルが海外で重要視されているかどうか、日本に住んでいるだけではわからないものです。この博物館では、それを理解することができるでしょう。また、日本関連の展示品をみることで、当時のリスボンと長崎のつながりに思いを馳せてみるのもよいでしょう。

6,発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)

 大航海時代に関する観光スポットとして、最後にもう一つだけ紹介しましょう。それは「発見のモニュメント」です。正式名称は「発見の父たち」のモニュメントです。1960年に、エンリケ航海王子の没後500周年を記念して建造されました。

発見のモニュメント

 モニュメントのかたちは、ポルトガルが大航海時代に使用していたカラベル船をイメージしています。高さは52メートルあります。中には有料で入れます。一階には、ちょっとした展示スペースがあります。屋上にはエレベーターであがることができ、そこからリスボンの景色を楽しむことができます。

発見のモニュメントの屋上からの眺望

 建物の東側と西側にはそれぞれ異なる彫像があります。東側の主だった人物のほうが馴染みがあるでしょう。たとえば、エンリケ航海王子、ヴァスコ・ダ・ガマ、カブラル(ブラジル発見)、マゼラン、バルトロメウ・ディアス(喜望峰)、ザビエルです。ほかにも、航海士、画家、数学者などの学者、宣教師などの彫像があります。 

7,サン・ジョルジェ城(Castelo de São Jorge )

 大航海時代よりも古い時代に遡ってみましょう。7世紀頃、イスラム王朝がリスボンを支配するようになります。おそらくその頃に、彼らは要塞を建てました。その後、12世紀に、ポルトガル王アフォンソ1世がイギリスの支援を受けながら、リスボンをイスラム王朝から奪取します。この要塞はゴシック様式の城となり、その後に何度も増改築や修復を繰り返します。

サン・ジョルジェ城の内部

 1386年、ポルトガルとイギリスがウィンザー条約で同盟を結びました。これはヨーロッパでも最古の条約の一つであり、現在も有効となっています。イギリスはこの時代からポルトガルの重要な同盟相手となりました。この同盟に基づいて、このリスボンの要塞はサン・ジョルジェ城と名付けられました。

 サン・ジョルジェは英語ではサン・ジョージ(聖ジョージ)であり、イギリスの守護聖人です。ドラゴン退治や殉教者として知られる聖人であり、グルジアの国名はこれに由来しています。

聖ジョルジェのドラゴン退治

 サン・ジョルジェ城は住居としても使われました。15世紀までは、王宮としても使われていました。16世紀には、牢獄や病院としても利用されました。

 現在は、サン・ジョルジェ城は広大な歴史的空間としておすすめの観光スポットです。丘の上にありますので、そこからのリスボン市街の眺めはなかなかよいものです。また、敷地内には孔雀が放し飼いになっています。

 そこに、イスラム王朝の痕跡をみることができます。現在発掘作業中のエリアもあります。その様子は城壁から見学できます。博物館もあります。サン・ジョルジェ城に関する考古学資料が展示されています。

サン・ジョルジェ城歩きの動画(画像をクリックすると始まります)

8,リスボン大聖堂(Sé de Lisboa)

 サン・ジョルジェ城の次に古い建築物としては、リスボン大聖堂が挙げられます。リスボン大聖堂はリスボンで最も古い教会建築です。12世紀なかば、アフォンソ1世がリスボンをイスラム政権から奪取しました。その際に、モスクのあった場所に、この大聖堂の建設を開始しました。

 イギリスの十字軍がリスボン奪取に参加していました。そのメンバーの一人がリスボンの司教に任命され、大聖堂の建設を進めました。13世紀の間に、一通り完成しました。ロマネスク様式で、聖母マリアに捧げられた教会です。リスボン大聖堂には、聖ヴィンセントのレリックが保管されました。人気の巡礼地になっていきます。

リスボンの守護聖人の聖ヴィンセント

 そのため、13世紀後半から、巡礼者を受け入れる施設やゴシック様式の回廊などが増築されました。また、14世紀や16世紀の地震などで被害を受け、修復を行いました。17世紀には、聖具室が増築されました。

 バロック様式の装飾が付加されました。1755年のリスボン大地震では、建物の一部が損壊しました。内陣や屋根、南塔などです。これらはすぐに再建されました。

リスボン大聖堂

20世紀には、大聖堂を中世の頃の状態に戻そうとする復元計画が実行されました。窓や丸天井、ファサードや有名なバラ窓などがその対象となりました。かくして、リスボン大聖堂は歴史情緒を感じるのに最適な場所の一つとなりました。

9,カルモ教会(Igreja do Carmo)

 18世紀半ば、リスボンが世界史的に注目される出来事が起こります。1755年のリスボン大地震です。リスボンは14世紀や16世紀にも地震に襲われていました。しかし、1755年の大地震は全く規模が違いました。

 ポルトガルだけでなく、ヨーロッパでも最大規模の地震です。2011年、日本で東日本大震災が起こった時、リスボン大地震がヨーロッパの最大規模の地震として引き合いに出されたほどです。

 この地震で、リスボンの建物の大部分が損傷を受け、火災が数日続きました。5メートルほどの津波にも襲われました。そのため、都市リスボンは大打撃を受けました。

リスボン大地震の被害の様子

 その後、リスボンは大規模な都市再建計画により、近代化を果たします。そのため、ほとんどの震災遺構は残っていません。例外的といえるのがカルモ教会です。

 カルモ教会は14世紀末に建設されました。はやくも、リスボンの代表的な教会の一つに発展します。建物は増改築を行いました。

 しかし、1755年にリスボン大地震によって、建物が大打撃を受けました。火事によって、内部がほぼ全焼しました。1756年、再建工事が始まります。教会の柱とアーチは再建されました。しかし、19世紀なかば、それ以上の再建工事は中断されました。そのため、大地震の震災遺構として現在に至ります。

現在のカルモ教会

世界的にみても非常に稀な教会建築だといえます。現在は考古学博物館が建物の内部で営業しています。

カルモ教会内部の動画(クリックすると始まります)

10,コメルシオ広場(Praça do Comércio)

 リスボン大地震後、リスボンは当時の宰相ポンバル侯爵によって急速に復興されていきます。その結果、近代化されていきます。その際に再整備されたものの一つがコメルシオ広場です。

 この広場のスペース自体は大地震の前から存在しました。テージョ川に面しており、外国の要人はこの広場の前の桟橋からリスボンに入りました。よって、このスペースはリスボンの海の玄関でした。

 16世紀には、マヌエル1世が王宮をサン・ジョルジェ城からこの広場の西側に移します。ポルトガルがスペインに併合されていた時代には、新たな宮殿が建てられます。

17世紀半の王宮と宮殿広場(のちのコメルシオ広場)

 しかし、1755年の大地震でそれらは倒壊しました。ポンバル侯はリスボンの街を機能的な街に作り変えていきました。耐震性のある建物を建てたり、碁盤目状の地区を導入したりしました。コメルシオ広場はこの新たな街の中心となりました。

 「コメルシオ」は商業(英語のcommerce)を意味します。というのも、当時、商業に従事して富を蓄え、重要な政治勢力となったブルジョワジーがリスボンの再建に大きく貢献したためです。

 また、ポンバル侯を支える政治的基盤でもあったためです。この広場の中心には、彫刻家マシャード・デ・カストロによるジョゼ1世の騎馬像が鎮座しています。ジョゼ1世はポンバル侯を宰相として信任した王です。現在、コメルシオ広場を囲む建物には主に省庁が入っています。

現在のコメルシオ広場

【トラム28の注意点】

 リスボン旅行の雑誌などでは、路面電車のトラム28がよくおすすめされています。このトラムは日本人以外の外国人旅行者にも大人気です。そのため、乗ろうとしても満員で乗れないことが多々あります。

 乗ったのはいいけれど、車内がぎゅうぎゅうでなかなか移動できないこともあります。入口は先頭で出口は後方ですので、降りるには車内を移動する必要があります。よって、降りたい場所で降りれない可能性もあります。利用する場合には注意しましょう。

 リスボンをより深く理解するために

 リスボンの豊かな歴史にかんする記事はこちらへ。

おすすめ参考文献

マイケル・クロンドル『スパイス三都物語 : ヴェネツィア・リスボン・アムステルダムの興亡の歴史』木村高子, 田畑あや子, 稲垣みどり訳, 原書房, 2018

金七紀男『ポルトガル史』彩流社, 2022

Malcolm Jack, Lisbon : city of the sea : a history, I.B. Tauris, 2019

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