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ルイ16世:二つの革命に翻弄されたフランス王

 ルイ16世はフランス国王(1754-1793)。フランス王権が衰退していた頃に王位を継承した。数々の改革を試みたが、失敗した。フランス革命が勃発し、当初は立憲王政の改革に賛同した。だが国内・国際問題で国民議会と対立するようになり、反革命の立場に移る。ヴァレンヌ逃亡事件をへて、共和主義者が台頭し、王権を奪われて、王妃のマリー・アントワネットとともにギロチンで処刑された。

 ルイ16世の生涯を知ることで、フランス革命という世界史的に第一級の重要な出来事を国王の視点で理解することができるようになる。

ルイ16世(Louis XVI)の生涯

 ルイ16世はルイ15世の孫である。幼少期から学問に興味を持ち、幅広い知識を得た。信仰心は篤かった。1770年、ルイ15世の意向で、マリー・アントワネットと結婚した。アントワネットはオーストリアの女帝として有名なマリア・テレジアの娘である。

 ルイ15世はオーストリアとの同盟を強化すべく、この政略結婚を決めた。マリア・テレジアが美人で有名だったように、アントワネットも美人だった。そのため、ルイ16世はアントワネットに心を奪われた。

 ルイ16世の治世開始

 ルイ16世は1774年に、ルイ15世の後継者としてフランス王に即位した。当初は、慈悲深い王というイメージが広がり、国民の人気をえた。

 この時期には、フランスの財政はすでに逼迫していた。ルイ15世の失政により、フランス王の権威自体が斜陽にあった。そのような状況で、ルイ16世は王権を引き継いだ。

 ルイ16世はこれまでの多面的な危機に立ち向かおうとした。チュルゴーなどの優秀な人材を登用して、改革を試みた。チュルゴーは財政支出を減らすなどの政策を一時的に成功させた。だが、貴族や聖職者などの抵抗により、結局は失敗した。
 次に、1776年、ルイはネッケルを登用して、再度改革を試みた。だがネッケルは財政改革を断念し、たいした成果も得られなかった。

 アメリカ独立戦争への支援

 この頃、1775年からアメリカ独立革命が開始された。これはイギリスの北米植民地が宗主国のイギリスに起こした反乱であり、結果的にアメリカ合衆国としてイギリスからの独立を果たした。
 ルイは宿敵イギリスを弱体化させるべく、この北米植民地の独立を支援した。

 アメリカ独立革命は1783年まで続き、植民地が勝利して独立した。フランスは支援の目的を果たした。だが、そのための費用で財政がさらに逼迫した。

 最後の改革の試み

 アメリカ独立戦争後、フランスの経済は一時的に回復した。ルイはカロンヌに改革を委ねた。カロンヌは国が多額の資金を融通することで、殖産興業を推進した。港湾や道路の整備も進めた。これも凶作などの影響で頓挫した。

 ルイは財政問題を解決するために、名士会を用いようとした。大きな争点は、貴族のような特権階級への課税である。
 フランスのそれまでの体制(アンシャン・レジーム)では、貴族らは免税の特権を保持していた。だが、ルイは財政問題に取り組むために、貴族らに税をかそうとした。これが貴族らの大きな反発をうんだ。
 市民層の第三身分は財政問題などを解決する名目で、三部会の召集を求めた。三部会は聖職者と貴族そして市民の代表者で構成される議会である。第三身分は実質的に、市民の中でもブルジョワが議席を得ていた。

全国三部会の開催へ

 ルイは全国三部会の召集を承認した。この時期、ルイは事態がもはや自力で収拾できず、主導権を握れない状態に陥っていった。それでも、改革の意志を示してもいた。

 たとえば、1789年6月には、立憲王政に好意的な姿勢を示した。三部会が今後定期的に開催されることや、問題となっているような新たな課税には三部会の同意が必要であるという原則を認めた。 

 フランス革命の勃発

 1789年、三部会が開かれた。第三身分のブルジョワ勢力はシェイエスのパンフレット『第三身分とはなにか』によって勢いを得た。彼らは財政や政治など様々な面での平等を要求した。

 三部会を旧体制の打倒に利用しようとした。三部会を憲法制定国民議会に改変させ、立憲政体への移行を企てた。だが、大貴族はこの要求によって既得権益を奪われるので、彼らと対立した。

 その騒乱の中で、同年7月、パリのバスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命が開始された。革命の波はすぐに、王宮だったヴェルサイユ宮殿に届いた。10月、ルイは民衆によって拿捕され、パリに移送された。

 フランス革命とルイ16世

 フランス革命の伝統的な理解では、ルイ16世はアンシャン・レジームの維持を終始目指していた。そのため、革命議会による大変革とは交渉の余地がなく、ただ反対するほかなかった。革命によって打倒されるべき旧体制の王であったと理解されてきた。
 だが、実際はそこまで単純ではなく、より複雑である。これからみていくように、ルイは少なくとも革命の当初は、革命の改革プログラムにたいして部分的であれ支持や称賛を示していたためである。
 ルイと革命議会の関係は、犬猿の仲として固定されていたわけではなく、流動的だった。
 革命の最中、ルイはある種の神経衰弱にかかったような状態になった。無気力のような状態が続いた。これは革命の予想外の進行によるショックが一因であろう。
 だが同時に、これは政治的な戦術でもあった。事態が制御不能に陥ったとき、ルイは無気力によって時間を稼ごうとした。事態に影響力を講師できそうな場合には、介入した。

最初期の革命の影響

 国民議会は立法権を国王たるルイから奪った。だが、1790年初頭の時点では、王権とその宮廷生活は多くの点で維持されていた。ルイの行政権はたいして傷つくことなく維持されていた。
 宮廷では、かつてのように、儀礼が続けられた。新年の挨拶には、例年通り、宮廷の重臣たちや高等法院の判事たちらが訪れた。国民議会の代表団も訪れた。

 革命議会の改革プログラムへの賛同

 上述のように、ルイはフランス革命直前において、すでに立憲主義的な改革に好意的だった。
 革命勃発により、フランスの改革プログラムをめぐって、革命議会でも意見が割れた。ミラボーやラファイエットらは新たな憲法制定によって、立憲王政を樹立するというプログラムを支持した。

 他方で、ジャコバン派などは王制を廃止して共和制を樹立するというプログラムを支持した。1790年、ルイは立憲王政の樹立を支持し、国民議会の穏健派と協調路線をとる。これはルイにとって現実的な路線だった。
 さらに、1790年2月には、ルイは国民議会の様々な改革プログラムにも支持を表明した。
 たとえば、フランスの行政管轄区域の単位として県を導入したことや、度量衡の統一的制度の導入、合理的な徴税制度などの法改正の計画は、すべてルイの承認だけでなく称賛を得た。
 ルイは別の仕方でも、国民議会の改革への賛同を表明した。フランス国王は官職の任命や年金の授与にかんする権利をもっていた。ルイはこれらの権利を革命開始後も保持した。

 この時期に、ルイは高位聖職者の任命を実際に行った。その際に、国民議会の改革を支持する著名な神学者を選んだ。彼は貴族出身ではなかったので、異例の抜擢だった。このような仕方でも改革プログラムに賛同を示した。

 国民議会との対立へ

 だが、ルイは次第に国民議会への賛同を示さず、反革命の立場へと移っていく。

年金の財政問題

 その一因は革命以前の王権の財政調査報告だった。1790年、国民議会は1774年以降に王権から年金を受け取った人たちのリストを発表した。革命までの15年間の年金の総額は2億2,500万リーヴルという途方もない額だった。

 上述のように、年金の授与の決定権は王にある。財政問題の悪化が革命の主要因でもあったため、この調査報告は王権の評判を著しく悪化させた。

戦争の権利

 さらに、国際問題が国民議会とルイの対立を悪化させた。
 たとえば、1790年5月、イギリスとスペインで戦争が始まりそうになった。ルイは有事に備えて、軍備を整え始める。そのための資金を出すよう、国民議会に訴えた。国民議会はそこで、戦争と平和の権利を誰が持つのかを議論し始めた。

 伝統的に、戦争と平和の権利は主権者の権利だと考えられてきた。議論の末に、国民議会は国王が戦争を提案することは可能だが、最終的な決定は国民議会が批准しなければならないと宣言した。ルイは外交に関する王の権利を剥奪されたのである。
 ほかにも、フランスの兵士たちの反乱を契機として、ルイは軍隊の総司令官としての役割を実質的に失うことになっていった。

王権神授説

 ルイはこのように、伝統的な王権の様々な部分を失っていった。しかも、議会のマラなどの主要な議員から、「国民の第一の役人」と呼ばれるようになった。役人たちのトップという意味である。

 だが、ルイはかつての王権神授説を好んでいた。この場合、王は神との特別な関係をもつ特別な人間だった。ほかのフランス人とは明らかに一線を画す存在だった。
 だが、国王が役人のトップだということは、役人の一種にすぎないということでもある。王は神に近しい存在という特別な威厳を剥がされることになる。よって、これもルイとの亀裂の原因となった。

 ルイはこのような国民議会とともに立憲王政をやっていくことに疑念を感じ始める。マリー・アントワネットの働きかけもおそらくあって、ルイは反革命へと向かっていく。

 ヴァレンヌ逃亡事件

 1791年には、事態は膠着していた。ルイ16世は事態を打開しようと画策する。前年、ルイはミラボー伯爵を味方に引き込み、様々なやり取りをしていた。
 ミラボーは国内の安全な場所に移動し、そこで支配を確立してから、国民議会と有利な交渉を行うよう提案していた。だが、その準備が進められる前に、ミラボーは没した。
 1791年6月、ルイはこのミラボーの案をもとに、その計画を進展させ、実行した。ヴァレンヌ逃亡事件である。
 これは国境の要塞都市であるモンメディに向かうという計画である。この作戦はマリー・アントワネットの強い要望で採用されたもので、ルイが反対した形跡はない。
 モンメディが選ばれたのは、オーストリアのネーデルラント領に近かったことが挙げられる。マリー・アントワネットはオーストリアの出身であり、オーストリア大公は親族だった。オーストリア大公は神聖ローマ皇帝でもあった。

 アントワネットの要請を受けて、オーストリアは革命への軍事介入を計画し始めていた。そのため、ルイ夫妻はモンメディに移動して、オーストリア大公の軍事的後ろ盾を得ようとした。
 しかし、この計画は実行中に露見し、ルイ夫妻は捕まえられた。

事件から1791年憲法へ

 ヴァレンヌ逃亡事件のよく知られた結果は、国民議会が立憲王政から共和制の支持へと変わっていったことである。もはや王制を支持せず、王制を打倒して共和制を導入する動きが強まり、勝利していく。
 だが、その前に、この共和制の流れを食い止め、王権を安定させようとする動きが結実した。それが1791年の憲法である。9月に制定された。かくして、フランスは立憲君主制となった。これは自由主義的な立憲君主制の外観をもっている。

 その中では、王が国を滅ぼそうとしたり、議会に対して軍隊を起こしたりした場合についての規定もつくられた。王への深い不信を示しており、ヴァレンヌ逃亡事件の影響がみられる。

 王権の廃止

 ヴァレンヌ逃亡事件の失敗をうけて、オーストリアとドイツがフランス革命への干渉戦争を開始した。反乱や武力衝突が繰り返された。
 国民議会でロベスピエールらの共和主義派が台頭し、実権を掌握していく。1792年9月、ついに王権が廃止されることになった。よって、ルイはもはや王ではなくなり、私人になった。

 同年12月、元国王ルイの裁判が始まった。1793年1月17日、裁判が結審した。700名以上の代議員の投票により、反革命の指導や陰謀などで有罪が確定した。処刑方法としては、半数が死刑を支持した。

 処刑の日

 1月21日、ルイは革命広場(現在のコンコルド広場)においてギロチンで処刑された。これは衝撃的な出来事だった。
 当時のヨーロッパでは王制が一般的だった。そのため、周辺国はフランス革命に干渉していた。だが、革命主導者たちは王から王権を奪っただけでなく、首をはねるに至った。新たな時代の画期となった。

ルイ16世の肖像画

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おすすめ参考文献


ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』神田順子訳, 祥伝社, 2010

ティモシー・タケット『王の逃亡 : フランス革命を変えた夏』松浦義弘, 正岡和恵訳, 白水社, 2024

John Hardman, The life of Louis XVI, Yale University Press, 2016

David Andress(ed.) (2019) The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press

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