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マキャヴェリの『君主論』

  『君主論』は1513年ごろにイタリアの政治家で哲学者のマキャベリが執筆した著作である。1532年に公刊されて以来、大きな反響を呼び、政治学の古典的名著として今日に知られている。

『君主論』(Il Principe)の時代背景

 本書は16世紀初頭のイタリアの国際政治を背景に書かれた。この時代、イタリアは統一された独立国家ではなかった。ミラノやフィレンツェなどの大きな都市国家と、その他の中小の都市国家が存在していた。
 15世紀後半、フィレンツェの有名なメディチ家が経済的および政治的に台頭した。メディチ家は銀行家として発展しただけでなく、イタリアの国際政治で巧みな外交手腕をもちい、イタリアの政情を安定させた。
 だが、15世紀末、大きな転機が訪れる。フランス王シャルル8世がナポリに進軍したのである。ここから、イタリア戦争が始まる。これにより、イタリアはフランス王や神聖ローマ皇帝などによる勢力争いの戦場と化していく。
 このように、16世紀初頭には、イタリアは外国勢力の侵略により、政治的な混沌に陥った。この時期、マキャベリはフィレンツェの有力な政治家として活動した。イタリアの惨状を目の前にして、このような危機からイタリアを救ってくれるような君主の登場を求めた。

 だが、伝統的なタイプの君主では、この事態を打開できないだろう。マキャベリは自身の政治的な経験や古典古代の歴史書などにより、そう判断する。現状の目まぐるしく変化するイタリアの政治問題を乗り越えるには、新しいタイプの君主が必要だ。

 では、この新しい君主はどのような資質を備え、どのように行動しなければならないか。それをまとめたのが『君主論』である。マキャベリは本書をメディチ家の当主に捧げた。

 つまり、メディチ家に新たな君主として奮起するよう期待した。同時に、本書は、マキャベリ自身が現状を打破する様々な知識と施策をもっているとアピールする手段でもあった。
 歴史的にみれば、イタリアはその後、外国に部分的にであれ支配されることになる。ナポリとミラノという二つの大きな地域ないし国が神聖ローマ帝国やスペインに支配され続ける。それは19世紀後半のイタリア独立まで続く。

 そのため、イタリア史では、この長い期間、イタリアは外国勢力によって蹂躙され続けたと認識されている。マキャベリが『君主論』でこのような事態の打開を訴えたのは、その初期の頃だったといえる。

本書の内容

 本書で特に注目されてきたのは、新たなタイプの君主がどのような人物でなければならないかの議論である。新たな君主の資質である。ここで、マキャベリは君主の伝統的な資質を批判する。

 伝統的理論との決別

 それまで、西欧では、理想的な君主とはどのような人物かを論じる「君主の鑑」論が伝統的だった。そこでは、君主とは寛大で慈悲深く、善良で、慎ましく、キリスト教の信仰に篤く、キリスト教の道徳に従うことが望ましいと論じられていた。

 実際の王たちには、これらの美徳を実践するよう求めた。反対に、残酷で非道、傲慢で、不誠実で信仰に反するような悪徳を避けるよう求めた。
 この伝統に対し、マキャベリは君主としての新たな資質を提示する。たしかに、君主が、伝統的に美徳と考えられてきたもの(寛大さや慈悲深さなど)を備えていれば、大いに称賛されるだろう。この点をマキャベリも認める。

 だが、人間には、それら全ての美徳をもつことは不可能である。よって、それを追求することは君主にとって根本的に重要とはいえない。
 むしろ君主にとって重要なことは、伝統的に美徳や悪徳と考えられてきたものが君主の権力の維持に本当に役立つかどうかである。マキャベリは、伝統的に悪徳と考えられてきたものが場合によって、権力の維持に役立つと論じる。

 悪徳の実践も有用になりうること

 よって、その場合には、それが悪徳と考えられてきたものであっても、君主が臆せずに実践せよ、とマキャベリはいう。「権力を維持するためには、しばしば、信仰に反し、慈愛に反し、人の道に反し、宗教に反した行動をとらなければならない」。

 臣民を団結させ忠誠を保つためには、残酷なことであってもすべきである。反対に、自身の利益に反するなら、約束を守るべきではない。マキャベリはこのような新たな君主のモデルとして、当時残酷さで有名だったチェーザレ・ボルジアを挙げている。
 状況に応じて適切ならば、悪徳であっても、権力や国家の維持のために、適切な仕方で実践せよ。このような主張は伝統的な政治倫理に反したものだった。マキャベリ自身もそのことを認識していた。

 だが、新たな君主の資質として、彼の時代のイタリアの苦境を乗り越えるために、あえてこれを提言した。このようなマキャベリの姿勢は現実主義(リアリズム)と評される。

 嘘をつくという悪徳:獅子と狐

 一例として、欺くという悪徳をあげよう。マキャベリは君主が時として約束を守る必要がなく、策略として嘘をついてもよいという。この主張を正当化する際に、マキャベリは有名な獅子と狐の比喩を用いる。順番に説明しよう。
 そもそも、獅子と狐の比喩は古代ローマの哲学者キケロが使用し、普及していた。マキャベリはキケロに言及して論じているので、キケロの例をみてみよう。キケロによれば、人は二つの仕方で不正を行う。力によってか、欺きによってかである。力は獅子に、欺きは狐にに属する。

 マキャベリは新たな君主が、状況に応じて、獅子と狐を使い分けなければならないという。マキャベリは獅子が勇猛さや力をもつのにたいし、狐が知略をもって罠を見抜くという。マキャベリからすれば、当時の王侯貴族は獅子の力だけあれば十分だと考えている。獅子によって狼を追い払えばそれで十分だ、と。

 だが、獅子は罠を見抜けず、それにはめられてしまう。罠を見抜くのは狐なのである。よって、利口な人間が仕掛けた罠を避けるためには狐の方法も使う必要がある。獅子の強大な力だけでは不十分である。狐の知略や欺きも時として必要となる。
 ここで、マキャベリは狐の必要性を不誠実という悪徳と結びつける。すなわち、嘘をついたり約束を守らなかったりすることに結びつける。新たな君主は思慮深くなる必要がある。約束を守ることが不利になるなら、それを守るべきでない。

 というのも、人間の中には邪悪な者も多くいるからである。このように、マキャベリは獅子と狐の比喩によって、欺きという悪徳の実践を推奨する。

 より詳しくみてみると

 このように、マキャベリは悪徳の実践を推奨する面もある。とはいえ、マキャベリの主張は曲解されたり雑に理解されたりしやすい。もう少し詳細にみてみよう。まず、マキャベリは美徳をないがしろにし、悪徳を堂々と実行せよ、というほど単純な主張をしていない。

 それまで悪徳と思われてきたもの(残酷さなど)が君主の権力の維持に反する場合もある。君主の残酷な行為によって民衆が君主を憎み、復讐の反乱をおこすようなケースである。このような場合には、悪徳は避けるべきである。
 悪徳が君主への憎悪や侮蔑を生じさせるようなら、このように権力の喪失につながりやすい。よって、そのような場合には、悪徳を実践すべきでない。もしそれでも悪徳を実践するのであれば、君主への憎悪や侮蔑が生じないよう配慮しなければならない。

 新たな君主が注意すべきなのは、悪徳の悪い性質というよりも、そこから生じる不名誉や悪名なのである。

 見かけやイメージのコントロール

 ここから、マキャベリの有名な主張がでてくる。行いの性質自体より、それがどう見えるかのほうが、君主にとってはしばしば重要となる。君主が権力維持のために実際には残酷な行為をしても、民衆がその残酷さに気づかないようカモフラージュする。

 その結果、民衆が君主の残酷さに気づかず、君主を憎んだり侮蔑したりしない。そうであるなら、残酷な行為を避けるべきではない。民衆は君主を見かけで判断し、支持や反乱を決めるからである。
 あるいは、むしろ、残酷な行いが政治的成功をもたらす場合もある。たとえば、マキャベリは上述のチェーザレ・ボルジアが民衆の不満を解消するために側近を残酷に処刑して見せしめにした例を挙げている。そのような場合には、果断に残酷な手法をとるべきである。
 見かけが重要であるので、君主は自身の見かけやイメージを上手に操れるようになることが重要である。悪いことをしても、それが君主へのダメージにならないよう、対処する。そのための手法として、マキャベリはレトリックなどの修辞学の技法などを念頭においている。

 逆風を臨機応変に乗り切る力能としての美徳

 君主の行動が政治的な成功につながるかどうかは、状況に依存する。慈悲深さと残酷さのどちらが権力の維持に役立つかは、場合による。よって、君主は状況に適した方を選ばなければならない。

 ある場合には、慈悲深く、信頼でき、道徳的で、信心深くなるべきである。だが、状況が変われば、その反対へと変わるべきである。君主はそのように自らを変えるよう精神を整えなければならない。
 マキャベリは君主の資質として、目まぐるしく変化する現実に臨機応変に対応する力能を提示する。言い換えれば、そのような美徳を君主が備えるよう訴える。これはそれまでの伝統にはない、マキャベリの新たな側面であった。
 マキャベリは君主が運命と戦わなければならないという。運命あるいは運は、人間の行動の半分を支配している。運命の荒波が我々に襲いかかってくる。美徳はこの運命を制御したり打ち負かしたりできることもある。そのような力能である。君主は用心深く、時代状況を注視して対応し、果断に行動しなければならない。
 このように、マキャベリの政治倫理は ダイナミズムと即興性を特徴とする。思考や実践の硬直性は退けられる。君主の成功は、合理的に計算できる数学的な普遍的公理にではなく、幸運によってもたらされる機会をつかみとる能力に依存する。

 『君主論』とマキャベリの評価や重要性

 『君主論』は1532年に公刊された。すぐさま、マキャベリは強い批判に晒された。マキャベリズムという単語もうみだされ、非難や批判の対象となる。

マキャヴェリズム

 マキャベリストとは、次のような人物だと考えられている。目的が手段を正当化するという人、権力を手に入れるために冷酷な策略をめぐらす人、政治などにかんして現実的あるいは皮肉な姿勢をとる人物などである。

 マキャベリ自身は本書によって、狐と獅子の使い分けや権力政治、現実主義などを本書で教える 悪の教師とみなされるようになった。
 同時に、マキャベリストには、非難だけでなく称賛の声もみられる。マキャベリストは世界を自分の思う通りにではなく、ありのままに認識する。相手の見かけや体裁を見抜き、誰によって翻弄されることがない。他人に対して不誠実でありながらも、自分自身に対しては徹底して正直である、と。
 なお、マキャヴェリ自身がどれだけマキャベリストだったかは一つの論点となっている。 

マキャヴェリ

 近代政治思想の始まり

 上述のように、マキャベリ自身が古代や中世の伝統からの離脱を表明していた。同様に、マキャベリの『君主論』は近代政治思想の始まりとして評価されてきた。その理由として、たとえば、古典古代や中世キリスト教の伝統とは対照的に、マキャベリの思想が徹底的に世俗的である。

 あるいは現実主義や、政治や道徳に対するアプローチが 「科学的」 である。人間の本性に潜む暗い傾向、とりわけ獲得欲を解き放ち、導くことに重点を置いていることも指摘される。

 さらに、近代国家の黎明期において、台頭しつつある近代国家を前面に押し出した政治理論を最初に提示したとも評されている。よって、マキャベリの初期の近代政治思想家である、と。

 国家理性論と国際関係論のリアリズム

 また、マキャベリは国家理性論でも重要性を認められている。国家理性は幅広い意味合いの概念だが、だいたい国益と同義と考えてよいだろう。政治的行動の指針として国益を重視する初期の代表的な論者として、マキャベリは認識されてきた。
 それが今日の国際関係論のリアリズム(現実主義)の概念枠組みにも反映されている。国際関係論でのリアリズムは、国益への関心が国家の政策を導く最も重要な考慮事項であるという立場である。ハンス・モーゲンソーやケネス・ウォルツのような代表的な現実主義の理論家はマキャベリに影響を受けている。

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おすすめ参考文献

マキアヴェッリ『君主論』河島英昭訳, 岩波書店, 1998

John T. Scott, The Routledge guidebook to Machiavelli’s The Prince, Routledge, Taylor & Francis, 2016

John M. Najemy(ed.), The Cambridge companion to Machiavelli, Cambridge University Press, 2010

※マキャベリの生涯や思想については、「マキャベリ」の記事を参照

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